第二十五話 「“善意”は、いい人のことじゃない」
この物語は全てフィクションであり、実在する人物、事件とは一切関係ありません。
それは、朝一番の内線だった。
「総務から。至急で、来てほしいって」
男が席を立つと、
社長が目だけで追ってきた。
——また、“線引き”の話だ。
直感がそう告げていた。
総務の机の上には、
プリントアウトされた画面が置かれていた。
中古売買サイトの出品ページ。
写真の端に、会社の資産管理シールが写り込んでいる。
「これ……うちのノートPCです」
総務担当の声が乾いていた。
紛失届が出ていた端末。
廃棄予定ではない。
返却もされていない。
「出品者は、個人名。
連絡したら、“拾ったものを買っただけ”って言ってます。
買った人がもういて、今夜引き渡しだって」
男は、一度だけ深く息を吸った。
——所有権を主張すれば返ってくる。
そう言いたくなる。
だが、その “言いたくなる” が危ない。
社長に指摘されたのは、そこだった。
「状況、整理します」
男は言って、白紙に四つの箱を書いた。
- だれが
- 何を
- どんな取引で
- どんな認識で
「これ、動産ですよね。ノートPCは」
総務がうなずく。
「じゃあ、論点は一つ増えます。
**“即時取得”**」
その言葉を出した瞬間、
総務の表情が少し固まった。
「……買った人が、持ち主になっちゃうってやつですか?」
「条件を満たすと、そうなる可能性がある」
男は、あえて曖昧に言った。
断言しない。
まず、要件。
机の引き出しから、テキストを取り出す。
最初の頃より、ページを開く動作が速くなっている。
即時取得の要点。
男は声に出さずに読み、
必要なところだけを拾っていく。
**取引行為**で、
**平穏・公然**に、
占有を始めた者が、
**善意で、かつ無過失**なら、
権利を取得する。
「——ここで言う“善意”って、
いい人のことじゃない」
男は、総務の目を見て言った。
「法律用語の善意は、
**“知らない”って意味**です」
総務が小さく眉を寄せる。
「悪意は、悪い人、じゃないんですね」
「悪意は、**“知っている”**」
「そして即時取得だと、善意だけじゃ足りない。
**“無過失”**がセットです」
男は、さっきの四つの箱を指で叩く。
「つまり、買った人が
“知らなかった”だけじゃなくて、
**注意しても知り得なかった**かどうかが問われます」
——無過失。
ここが、勝負どころだ。
---
その時、会議室から呼ばれた。
社長が待っていた。
「例のPCの件?」
男は、要点を短くまとめた。
「所有権を主張して取り返せる、とは限りません。
買主が善意無過失なら即時取得の可能性があります」
社長は腕を組んで、少しだけ間を置いた。
「……君、今、“善意”って言ったな」
「はい」
「善意って、何だ?」
男は一瞬、口をつぐみかけた。
——“いい人”。
頭のどこかが、まだ古い辞書を引こうとする。
でも今回は、戻れる。
「法律用語の善意は、
**ある事実を知らないこと**です」
社長は頷いた。
「じゃあ、“善意無過失”は?」
男は、迷わず言った。
「知らないだけじゃなく、
**注意しても知ることができなかった**状態です」
社長の目が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「じゃあ、今回。
買主が“無過失”かどうか、
どこで見る?」
男は、白紙を取り出し、
“過失”の横に丸をつけた。
「外形です。
価格が不自然に安いとか、
資産管理シールが見えているとか、
付属品やログイン状況が妙だとか」
社長は即答を求めるように見えたが、
男はあえて、最後の一枚を足した。
「……ただ、ここ、急ぎます。
法的に争うより、
**取引の安全**の考え方が絡むので、
強く出ると逆に長引きます」
社長が小さく息を吐く。
「つまり?」
男は言った。
「**“取り返す”じゃなく、“買い戻す”**が現実策です。
それと同時に、相手の無過失を崩す材料——
“知り得たはず”の事情を確認します」
社長は黙っていた。
その沈黙が、
評価なのか、まだ不足なのか、
男には分からない。
けれど、以前なら
この沈黙に耐えられなかった。
今は、耐えられる。
言葉の根拠が、足元にあるからだ。
---
夕方。
総務と一緒に、買主へ連絡した。
男は、声の温度を落とさず、
しかし、主張の形は崩さなかった。
「当社の資産管理番号が残っている端末で、
情報保護の観点からも回収が必要です。
購入の経緯と、価格、状態を確認させてください」
買主は困惑していた。
「自分は被害者だ」と言いたげな声。
男は、そこで一つだけ
“言わないこと”を選んだ。
「あなたは悪意だ」
とは言わない。
悪意は、人格ではない。
事実の認識だ。
そしてこちらが今やるべきは、
相手の人格を裁くことではない。
**事実を、静かに集める**ことだった。
電話を切った後、
総務が小さく言った。
「……なんか、
こっちが悪いことしてるみたいで、嫌ですね」
男は、すぐに否定しなかった。
代わりに、ひと呼吸置いて言う。
「法律は、
知らない人を守る仕組みがある。
だから、こっちは
“守られる条件に当てはまるか”を確認する」
総務が頷く。
男は、机に戻り、
最後にテキストを開いた。
そこには、短い言葉があった。
**信義則**。
信義誠実。
権利は、
振り回すためにあるんじゃない。
守るためにある。
——だから、
こちらも誠実でいなければならない。
男は、メモに書いた。
> 善意は“優しさ”じゃない。
> でも、誠実さがなければ、善意の話は使えない。
社長の「まだ足りない」は、
知識量の話ではなかった。
**言葉を、正しく使う姿勢**だった。
男は、もう一度だけ、
ページの端を押さえた。
戻る。
原点に。
そして今度こそ、
合格を“取りにいく”。
お読み頂き、ありがとうございます。




