廃棄
エスプレッソマシンの蒸気音が店内に響いている。窓際の席では老人が優雅に小説を読んでいる。カップ同士が触れ合う些細な音。焼き立てのフォカッチャの香り。一週間前までは爆破予告で大騒ぎだったというのに、随分と静かな朝を迎えた。
ノエは息を吹きかけてエスプレッソを冷ます。届いてから、かれこれ三十分は経つ。とうに冷めているだろうが、また小さく息を吹きかけた。
腰の拳銃がジャケット越しに浮かないよう、姿勢を僅かに崩す。黒いシャツに灰色のジャケット。先ほどの老人と同様にノエも窓際に腰掛け、暖かな木漏れ日を浴びていた。新聞を広げながら、視線は店の奥に向ける。
単なる凪いだ朝ではなかった。
そこにターゲットはいた。
ターゲットは二十代後半ほどの青年。万年筆を片手に紙に何やら書き込んでいた。何を書いているかまでは見えなかったが、単語を書いては塗りつぶしているようだった。さらに机には数冊の本。指にはインク汚れ。爆弾を運ぶような人物には到底思えなかった。
また一息ついた。
空になったカップを見て、マスターにエスプレッソを一つ、と短く告げた。男性の店員が回収に訪れる。彼は小さく一礼してカップを手に取ると、カップと皿が擦れた不快な音を鳴らした。それに数名の客が肩を跳ねさせたが、ターゲットの彼は特に反応を見せなかった。
時計の針の音がやけに耳についた。
先に動きがあったのはこちらだった。
今度は女性の店員が湯気の立つカップを運んできた。そしてノエのもとにカップを置く。静寂に包まれたこの空間にはよく響いた。
「お間違えないでしょうか。ええ。かしこまりました。パニーノですね、少々お時間をいただきますがよろしいでしょうか?」
「ああ」
「それではごゆっくり」
こつこつ、と次はヒールの立ち去る音が聞こえた。
長期戦になると見越してパニーノは頼むことにした。生ハムにモッツァレラチーズのパニーノ。小腹を満たすにはそれで充分事足りた。小一時間は優に超えているというのに、飲み物だけでは味気ないだろう。それに、こちら側が疑われてしまっては困る。
先ほど届いたばかりのエスプレッソを傾けながら、物思いに耽った。
新聞を繰る。
政治欄にはまた爆破テロの記事が載っていた。死傷者数、負傷者数、政府批判、極左組織の名。どれもここ数年で見飽きたものばかりだった。
ノエは紙面から視線を外した。
あの爆破予告以降、こうした任務が増えた。
監視や聞き込み、身元確認。地味で目立たない仕事ばかりだ。世が平和になったというわけではなく、ノエがそういう仕事に就かせてもらえなくなっただけだろう。
同僚は上手く誤魔化してやると言ってはくれたが、上層部の心証を損ねたことに違いはない。人の生死が関わる現場で独断専行に及んだのだ。罰があるのも当然だ。
あの時は少々冷静ではなかった。
今日だって、本心は前線を望んでいた。その願望は叶わなかったが、今後に繋げるために今回の功績は不可欠だ。
ノエは顔を上げた。同時に、青年はまた時計を見た。
四度目だった。
そのたびにペン先が止まり、じわじわと小さな黒点を作り上げる。
呼吸は一定。貧乏ゆすりもない。だが、指先が落ち着きなく机を叩いていた。そして時計を見るとともに繰り返し窓の外を見た。特に人影はない。
誰かを待っているのか。
ノエの推測では、ターゲットはとある人物と面会を予定していた。そして現在がその予定時刻。彼は予定時刻になっても姿を現さないことに動揺している。
はたまた別か――弱みを握られていて、どこから射殺されるかわからない、とか。何を判断するにしても、それを裏付ける材料は揃っていなかった。
ノエはエスプレッソに角砂糖を一つ入れて一気に飲み干した。
さらに数分経った。長い針が刻々と十に向かって進んでいた。ターゲットの顔色は血色を失い、唇は細かく震えていた。
八時八分。
青年の汗が机に落ちた。万年筆が紙の上で止まる。時計を見た。もう一度見た。そして立ち上がった。
「……来ない」
初めて声を漏らした。
ノエはゆっくり新聞を下ろし、腰にある硬いものに手を当てる。青年はがたがた震えだしたかと思えば、紙を握りつぶした。そしてそれを口に運んだ。
証拠隠滅するつもりか。
ノエも立ち上がった。椅子が床を擦った。
「その紙を出せ」
青年の目がノエを捉えると、紙を口に咥えたまま走り出した。
椅子が倒れ、店内に響いた。近くの女性が悲鳴をあげる。ノエは短く舌打ちし、拳銃を抜いてその背を追った。ドアを開け、鈴の音が鳴ると同時に彼は何かを見た。そこからふらふらと数歩進むと、彼の足は止まった。
通りの向こう。
そこにはキャメル色のコートを着た男が立っていた。こちらの視線に気づいたのか、男は帽子を深く被った。
それだけだ。
しかしターゲットの反応を見る限り、男は何らかに関与している。待ち合わせの相手だろうか。真相は吐かせてみなければわからないが、彼は逃亡の手助けをするつもりはないのだろう。ただそこにいるだけで、特に不審な動きはない。
青年から血の気が引いた。キャメルコートの男の表情は見えない。だが青年は何かを悟った。ノエもその瞬間に理解した。
ああ、彼は切られたのだろう。なんと愚劣なマリオネットか。
青年は紙をその場に吐き捨て、唇を強く噛みしめた。その目は復讐心でも野心でもない。喪失と絶望に滲んでいた。
ノエは拳銃の焦点を彼に合わせる。
「手を上げろ」
彼は思いのほか大人しくこちらの指示に従った。もう己に勝ち筋はないことに気づき、投降を決意したのだろう。そして小さく笑った。それは諦めた人間の笑みだった。
「そういうことか」
その声は独り言に近かった。
「ああ、はたからここへ来るつもりなどなかったのだ。警察に目を付けられていることも、私が監視されていることも知っていた。だから接触を避けた。いや、それだけではないな。この時ではなくとも貴方は私を切るつもりだった。私が貴方に裏切られたと思うよう仕向けた。そうすれば私は口を閉ざす。組織も守られる。実に合理的だ」
彼は気でも狂ったように述べていた。
数メートル離れたところでは、何人もの通行人がこの様子を見守っていた。買い物袋を片手に店の前で立ち止まっていた。誰も近寄ろうとはしない。だが誰一人として立ち去ろうともしなかった。
ちょうど通りかかった新聞売りの少年が足を止めた。腕に抱えた新聞が数部落ちる。彼は何か言おうとしたが、結局口を開くことはなかった。
「素晴らしい人だ。貴方は本当に……どこまでも貴方だ」
彼は下を向いた。髪が重力に従って彼の顔を隠すカーテンとなった。
長らく沈黙が続いた。ノエは静寂を破るなど野暮なことはしなかった。銃を構えたまま、ただ時を待った。ようやく風が隠していたものを解き放つと、彼は苦く笑っていた。
その笑みは、単に仲間に裏切られた者のものではなかった。もっと長く、もっと深く信じていた何かを失った者の笑みだった。
「だが」
私は貴方ほど合理的になどなれない。
通りを吹き抜けた風が紙片を攫う。彼の足もとに落ちていた紙は石畳を滑り、排水溝の奥へ消えていった。彼の声は震えていた。瞳孔は開いていたし、滴る汗が水たまりを作っていた。
冷静。先刻はそう判断したが、少々間違いがあった。彼は冷静などではない。暴れ狂う感情を理性という鎖で縛っているにすぎないのだ。
「……それだけか?」
ノエが問う。
だが青年は答えない。そして青年はゆっくりと目を閉じた。
「それだけだ」




