再会
取調室から生物の声はしなかった。あるのは古い換気扇の音だけだ。白い壁に金属の机。向かい合わせになっている二つのパイプ椅子。窓がないため、少し埃臭かった。
青年は椅子に腰かけたまま俯いていた。彼の心情を表すかのように空気も灰色の靄がかかっていた。
ノエがわざとらしく音を立てて彼の正面に座ると、生気のない顔が見えた。人生全ての気力を使い果たしたような、端的にいえば疲労困憊といった顔だ。口は堅く結ばれている。このまま黙秘を続けるつもりだろうか。
ノエはしぶしぶ腰を上げた。給水器から紙コップへ水を注ぐ。そして彼の前に八分目ほどまで入ったコップを置いた。水面に彼の困惑した顔がゆらゆらと映し出されていた。
「これは」
「なに。別に毒など入っていない」
青年の視線が水面に落ちた。
疑うようならば口に含んでみせようか。ノエがコップに手を伸ばすと、慌てた声が飛んできた。
「い、いや。それは結構」
「そうか」
ノエは端的に答えた。青年はそれ以上何も言わず、再び俯いた。
「それで、この紙は君が持っていたものだな」
ノエは透明の袋に覆われた紙を取り出した。少し滲んで読めない部分もあったが、確かに彼のものだった。綺麗な長方形の紙ではなく、一部が欠けていた。しかしこの程度であれば影響はないだろう。
青年はいたたまれなさそうに目を逸らした。目を凝らしてみれば左目の血管が切れていた。
ノエが急かすように机を小突く。乾いた音が狭い部屋に響いた。ようやく青年が口を開いた。
「知らない」
「では君の所属している組織について聞こうか」
明らかに青年の目が泳いだ。先ほどまで俯いていた顔が、ほんの僅かに上がる。
「……組織だと?」
「ああ。表向きでは政治的組織。裏では反政府活動を行っている。誰と繋がっているのかと問いた方が分かりやすいか?」
ノエは紙を机の上に置いた。青年はそれを見つめたまま、しばらく黙っていた。
「どれもこれも推測に過ぎない。そんな口先だけで私に信じろと?」
「だが現に君はあの場にいた。君の行動が何よりもの証拠だ」
ノエは椅子の背にもたれた。青年の眉が僅かに動く。
「ただカフェにいた可能性は考えないのか? あの時間は私以外にも多くの客がいただろう。なぜ私を疑う」
「ああそうだな。ではあの紙はなんだ」
ノエの指先が、透明な袋を軽く叩いた。
「単なる紙だろう」
「口に含み隠蔽しようとしたわけは」
「あれは、他者に覗き込まれたら誰だって不快だろう」
「でも君は逃げた」
青年の肩がぴくりと動いた。
「警察に銃を突きつけられて逃げない人などいない!」
声を唐突に荒げ、身体を震わせた。青年の手が机を叩く。乾いた音が、先ほどよりも大きく取調室に響いた。顔は羞恥と憤懣により赤く染まっている。先程までの死人のような顔はどこへやら。今ではむしろ生気を感じる。
ノエはそれを黙って眺めていた。
「では質問を変えよう」
ノエは指先でステップを踏んだ。
「組織を抜けた人間を知っているな?」
青年の口が僅かに開いた。それは、と言いかけたまま、また言葉に詰まる。
「そして君はその相手とカフェで落ち合う約束をしていた」
ノエは青年から目を逸らさなかった。
「違うか?」
青年は視線を落とした。
しばらく沈黙が続く。やがて、口を固く結んだ。頑なに黙秘を決め込むつもりらしい。解は頂けなかったが、ノエにはそれで十分だった。
「知っているんだな」
青年の指が膝の上で僅かに動く。
「……知らない」
「なら、なぜ答えるまで時間がかかった?」
ノエの声は変わらない。それがかえって青年を追い詰めているようだった。
「言葉を選んだだけだ」
ノエは呆れて口の端を歪ませた。
「便利な言葉だな」
青年は何も返さなかった。ただ、机の上に置かれた紙へ視線を落とした。
「今一度聞く。君は組織を抜けた人間を知っている。まだ黙秘を貫くつもりなら、そうだな。彼をどうしてしまおうか」
青年の顔が強張った。ノエはその変化を見逃さなかった。
「警察が脅しだなんて卑怯だろう!」
声が再び大きくなる。
「なんとでも言え」
ノエは眉一つ動かさなかった。
お前の言うとおりだ。待ち望んでいた言葉は酷く小さなものだった。青年は悔しそうに唇を噛みしめる。しばらく俯いていたが、やがて観念したように顔を上げた。
ノエは目を細めた。
「彼とはどういう関係だ」
「彼とは三年ほど前からの付き合いだ。私が組織に入ったばかりの頃に、組織での立ち居振る舞いを教えていただいた」
青年の声は先ほどより落ち着いていた。意識が届いていない範疇で、指摘したこと以外の情報も溢れ落とす。ノエはそれにいたく優越感を抱いたが、彼はこちらに敬意があった。
「組織を抜けた時期は?」
「二年くらい前だったと思う」
「彼と君は一年しか行動を共にしていないのか。そうか、驚いたな。君は彼に心酔しているから十年単位だと思っていたよ」
「一年さえまともに行動していない」
「なぜ?」
「彼とは与えられた仕事が異なったからだ。私は現場へ出向くことが多かったが、彼はそうではなかった」
青年は淡々と答えた。
だが、その人物について語る時だけ、僅かに声が柔らかくなる。しかし細々とした箇所から怒りが滲んでいる。
「そうか。そんな相手を今日待っていた理由はなんだ。呼び出したのは彼か?」
青年の視線が揺れた。
「……違う」
「では君から?」
また沈黙。今度は先ほどより長かった。青年は何度か唇を開きかけ、結局閉じる。
「そうだ」
「なぜだ。今回の作戦に彼が必要だったのか」
青年が顔を上げる。
「作戦?なんのことだ」
「一週間前にあった爆破予告のことだ。こちらでは、君の組織が関与していると見ている。今日君をつけたのもそういう訳だ」
「その件に私は関与していない」
「では彼が関与しているのか?」
青年の拳が机に叩きつけられた。空気が揺れた。
「違う!勝手な仮説を立てるな!」
息を荒げながら、青年はノエを睨みつけた。
「彼とはもっと、もっと。私的なものだ。お前ら警察には関係がない。彼と私の問題だ。これ以上踏み込んでくるな」
ノエはしばらく青年を見つめた。怒鳴り声の余韻が、古い換気扇の音に混ざって消えていく。閉ざされていた彼の柔い部分に触れた気がした。
「関係ない?笑わせてくれるな」
ノエは短く告げた。
「全てを疑うのが今の時代だ。生憎君の個人的な見解など微塵も興味ない。全てを話してもらおうか。警察に恩を売っといた方が今後のためにも、組織のためにもなるだろう。まあ、鎖で繋がれたときでは効力などないが」
青年は何も答えなかった。ただただ時が過ぎる一方だった。そしてノエは掠れた声で問う。
「――彼は何者だ」
青年が息を呑んだ。
三回のノックが、取調室に響いた。ノックは明らかに意図的なものだった。風だのなんだのの自然現象ではありえなかった。ノエが扉へ目を向ける。青年もまた、音のした方を見た。
「失礼する」
扉が開かれる。そこに立っていたのは見慣れた上司だった。
「重要参考人を連れてきた」
その隣に、もう一人。
青年の視線が吸い寄せられた。男は帽子を脱いだ。
「久しぶりだね。警官さん」




