規制線
甘い香りがした。八月の熱気と焦げ臭さの中でその匂いは一段と際立っていた。ボローニャ駅の爆発現場には似つかわしくない匂いだった。少量の瓦礫を踏み分けながら、ノエ・ヴァレンティー二は足を進める。初めこそは胃が軋む様だった惨状も、今では見慣れてしまった。哀しきものだ。ノエの持ち場まで向かっている途中で一人の青年が目に入った。頭からは血を流していた。頬には煤を散らせ、指先は焼けた様に黒ずんでいた。すでに火は治まっていたがまだ人が触れる温度というわけでもない。それでも彼は焼け焦げたロッカーの奥へと手を突っ込んでいた。黒く汚れた手で汗を拭うたび、唇までも化粧していく。
「おい、何をしている」
返事はなかった。彼はこちらのことなど気に留めず、黙々と探している。
「離れろ。火傷では済まないぞ」
低い声でそう告げても青年は見向きもしなかった。彼はただただ何かを探している。ロッカーに熱気はまだ残っていた。鉄は赤さを失ったとはいえ、未だ人肌など容易く焼く温度を孕んでいる。それにも関わらず彼は手を止めることはなかった。ノエは眉を顰める。
警察官という職業故に様々な人間を見てきた。爆発の直後、大抵の人は取り乱す。泣き叫ぶ者、その場に立ち尽くす者、神へ己の不幸を喚き散らす者。嫌というほど見てきた。
だがこの青年はどれも当てはまらなかった。今もなお火傷の痛みに嘆きもせず、一心不乱に探している。やがて、彼の指先が何かを掴んだ。引き抜かれたのは片手に収まるくらいの小さな箱だった。熱で歪み、煤で汚れ、元の色も形も何も判別できなくなっていた。
「……酷いな」
ぽつりと声が漏れた。ノエは箱を一瞥する。蓋の隙間から顔を出していたのは熱で不憫にも形を変えたチョコレートだった。先程の匂いの原因もこれだろう。
「そんなもののために腕を焼いたのか」
そう言った瞬間、初めて彼が表情を変えた。それは嘲笑とも、自虐とも捉えられる笑みだった。
「そんなもの、か」
彼は箱を撫でた。その時、背後で怒号が飛んだ。
「規制線を張れ!一般人を下がらせろ!」
「中央ホール付近を封鎖しろ!」
「負傷者を運べ。今すぐにだ!」
靴音が忙しなく響き、赤いテープが次々と貼られていく。人々は半ば押し出されるように駅の外へ追いやられていった。泣き叫ぶ女も、誰かの名を呼び続ける老人も、等しく規制線の向こうへ押し込められていく。
当然の光景だった。混乱を抑え、人命を守るには必要なことだ。たった一人の感情で集団を乱すわけにはいかない。ノエはそういう秩序の中で生きてきた。
だが青年は哀れみをこめた目でその様子を見つめていた。
「貴方たちは随分と秩序が好きなんだな」
「何だと?」
「線を引いて、押し込めて。そうやって安心したいのだろう」
青年は規制線に目をやった。どんな叫びだって赤いテープ一本で切り分けられる。
「危険なものと安全なもの。正しいものと間違ったもの。貴方たちはなんでも綺麗に分けたがる。だが、人間はそんなふうにはできていない」
彼の指先がまるで愛娘でも撫でるよう箱をなぞった。指先は赤く爛れていた。それでも箱を撫でる手つきだけは絵になった。
「愛してはいけない人間を愛してしまうことだってある。捨てるべきものを一生抱えてしまうことだってあるだろう」
「それでも貴方たちは線の内側だけで人を測ろうとする」
随分と皮肉めいたことをいう青年だ。ノエが顔を顰めて、何か言い返そうとした時だった。ふいに、彼の膝から力が抜けた。糸を断たれた人形のように身体が傾く。ノエは咄嗟に青年の腕を掴んだ。骨ばった肩がノエの胸板に制服越しに触れる。彼からは金属の臭いと火薬の臭い、それとチョコレートの匂いがした。
遠くで誰かが泣き叫んでいた。無線のノイズも耳障りに響いていた。救急隊員の怒鳴り声も、担架の車輪が軋む音も、今はやけに遠かった。力の入っていない彼の手から箱がその場に落ちた。地面へ落ちた箱はその衝撃で蓋が開いていた。中では溶けたチョコレートが見るも無様に潰れていた。その上に青年のこめかみから流れた血が落ちていた。赤黒く混ざり合ったそれを見て、ノエは妙な息苦しさを覚えた。彼の前髪をかき上げ、出血量を確認すると直接命に関わる程ではないだろうが、油断はできない状態だった。
「おい、大丈夫か?」
青年の肩を叩き、意識を浮上させようとするが反応はない。頬に触れると人肌を感じた。手には彼と同じく煤がついた。呆然と黒ずんだ手を見てしまう。「おい_」
「ヴァレンティーニ!」
怒鳴り声にようやくノエは顔を上げた。同僚の警官が怒声を上げながらこちらにやってくる。
「何をしている!お前の持ち場はこちらではないだろう。さっさと自分の持ち場に戻れ」
「あ、ああ。だがしかし_」
自分に身を預ける青年のことを告げようとすると、腕を思いっきり引っ張られた。
「さっさと立て!中央ホールの東側だ。瓦礫の下にまだ人がいる!」
ノエは返事をしなかった。腕の中の青年はひどく軽い。呼吸は浅く、熱に浮かされたように額は熱かった。
「聞いてるのか、ヴァレンティーニ!」
「救護班を呼んでくれ。今すぐにだ」
「意識が落ちている。頭部裂傷、熱傷あり。救護班を寄越せ」
同僚が青年を一瞥して言った。
「そんな奴放っておけ。出口はすぐそこだ。逃げられたはずなのに、爆心地に残る理由なんざ一つだ。しかも随分と汚れている。証拠品でも探していたんじゃないか」
「一般人だ」
ノエは低く言った。
「そうか。だがな、今は全員疑うんだよ」
同僚は苛立ったように無線機を握った。
「この前の爆破もそうだったろ。学生、記者、詩人。まともな面して爆弾を運ぶ連中なんて山ほどいる」
同僚の言葉を最後まで聞かず、青年を支えながら周囲を見渡した。
「救護班!」
怒号とサイレンの中へ声を投げる。だが返事が返ってくることはなかった。担架を押した救護隊員たちは既に別の負傷者の元へと向かっている。
「こっちだ!意識がない!」
ようやく一人の救護隊員がこちらに気がついた。
「歩けるか!?」
「無理だ。頭部裂傷、熱傷あり」
隊員は舌打ち混じりに担架を寄せる。
「……次から次へと」
隊員の合図でまた別の隊員が来た。隊員たちが青年の身体を担架に移す。そしてようやく青年が担架に載せられた。その拍子に彼の瞼が小さく開いた。
「待って、すてないで」
掠れた声だった。青年の視線はノエから地面にある箱に移った。血と溶けたチョコレートに塗れた小さな箱。彼は数秒見つめてから言った。そのまま彼の意識はまた深い眠りの底へ落とされた。ノエは答えなかった。
「はい。じゃあ行くぞ。せーの」
隊員たちの掛け声で青年は運ばれていった。その姿を見送ると、ノエは箱へ視線を落とした。現場にあった証拠品として回収するべきだ。ただそれだけのはずなのに、酷く触れてはいけないものだと感じてしまった。指紋がつかないよう、手袋をしてその箱を手に取った。同僚が箱を見る。
「それは?」
「ロッカー付近に落ちていた」
「待っていけ。調べる」
同僚がバッグから証拠袋を取り出す。そしてノエへと差し出した。
「ヴァレンティーニ」
ノエは数秒遅れて、それを袋の中に入れた。
余韻に浸る間もなく無線が鳴る。
「もう用はないな?さっさと持ち場に戻れ。さっきのことは、俺が上手く誤魔化しといてやるから」
「ああ、すまない」
ノエは踵を返した。瓦礫を踏み分け、ボローニャ駅構内を駆ける。靴裏で砕けたガラスが嫌な音を立てた。咽せ返るような鉄と火薬の臭いが肺にまとわりつき、思わず顔を顰める。東側通路はほとんどが崩落していた。天井から剥き出しになった鉄骨が垂れ下がり、割れた照明が明滅を繰り返している。今回は複数箇所に爆弾が仕掛けられていたのだろう。煙がいくつも立ち上り、誰かの泣き声が響いていた。助けを呼ぶ声も、呻き声も、あまりに多すぎて、もはや誰のものか判別できない。
床には新聞紙が散らばっていた。ほとんどが黒く焦げていて認識できるのは日付くらいだった。ノエは視線を逸らした。今は立ち止まっている場合ではない。無線のノイズが耳元で弾ける。
『東側通路、応答しろ!』
『瓦礫の下にまだ人がいる!』
「了解」
ようやく中央ホール東側へ辿り着くと、一人の男が瓦礫に脚を挟まれていた。額には脂汗が滲み、呼吸は浅い。崩れたコンクリートの隙間からは赤黒い血が滲んでいた。
「おい、聞こえるか?」
「ぁ、ああ、ローザ……」
こちらの応答には反応しなかった。家族か恋人であろう者の名前を繰り返し呼んでいた。
「こちらヴァレンティーニ。中央ホール東側負傷者一名。男性、意識混濁。脚部圧迫あり。至急救護班を要請する!」




