「ただいま (後半)」
第二部 第三十一話
ただいま(後半)
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木々の間を、
風が静かに通り抜けていく。
クロの光は、
先程よりも少し弱く揺れていた。
クロ
「それからは」
「歩くだけでも息が上がるようになって」
「気付けば」
「寝てる時間の方が長くなってた」
森は静まり返っていた。
聞こえるのは、
風に揺れる葉の音と。
クロの声だけ。
クロ
「仲間達は毎日来てくれた」
「食べ物を運んでくれたり」
「身体を舐めて、
毛並みを整えてくれたり」
「『絶対良くなる』って」
「みんな笑ってた」
クロの光が、
小さく揺れる。
クロ
「……でも」
「俺には分かってた」
「日に日に身体が動かなくなってたから」
ノワは何も言わない。
ミルも。
ルナも。
ナナも。
ただ静かに、
クロの話を聞いていた。
クロ
「ある日」
「親友のあいつが来た」
「いつものように」
「『治ったらまた喧嘩しようぜ』って」
「笑いながら言うんだ」
クロの光が、
僅かに揺れる。
クロ
「馬鹿だよな」
「俺より」
「あいつの方が泣きそうな顔してたのに」
「ハハハ」
小さな笑い声。
けれど。
その声には、
どこか寂しさが滲んでいた。
クロ
「みんなが帰ったあと」
「一匹になってさ」
「静かな空を見てた」
「その時」
少しだけ、
言葉が途切れる。
クロ
「一番最初に浮かんだのは」
「ノワだったんだよ」
ノワの肩が、
小さく震える。
クロ
「元気にしてるかな」
「ちゃんと飯食ってるかな」
「また無茶してないかな」
「……って」
ノワ
「最後のは私のセリフ」
クロ
「……そうだったな」
懐かしむような声と共に、
クロの光が穏やかに揺れる。
ほんの一瞬。
ノワの口元も、
僅かに緩んだ。
けれど。
クロ
「それに」
クロの声が、
少しだけ小さくなる。
「俺が帰ってこないから」
「心配してるだろうなって」
ノワ
「……」
クロ
「ちゃんと帰って」
「顔くらい見せないとなって」
クロの光が、
静かに揺れる。
ノワは何も言わなかった。
ただ。
胸の前で重ねた手に、
僅かに力が入る。
クロ
「そのあと」
「モモの顔も浮かんだ」
「最後まで素直じゃなかったけど」
「元気にしてるかなって」
クロの光が、
弱く揺らぐ。
クロ
「帰りたかった」
ノワの指先が、
僅かに震える。
クロ
「ただ」
クロの光が、
小さく揺れた。
「帰りたかった」
森の中を、
風が吹き抜ける。
木々の葉が擦れ合い、
静かな音を立てていく。
ノワは俯かない。
ただクロを見つめたまま、
唇を強く結んでいた。
クロ
「……でも」
「もう身体は動かなかった」
「立ち上がることも」
「歩くこともできなかった」
クロの光が、
小さく震える。
クロ
「最後の日」
「親友が俺の隣にいてくれた」
「仲間達も」
「みんな集まってくれてた」
クロの声が、
少しだけ穏やかになる。
クロ
「誰も帰ろうとしなくてさ」
「いつもみたいに話したり」
「俺のそばに座ったり」
「ずっと一緒にいてくれた」
「親友のあいつなんて」
「最後まで」
「『まだ次の喧嘩が残ってるからな』って」
「そんなこと言ってたよ」
クロの光が、
穏やかに揺れる。
クロ
「俺」
「みんなの顔を見ながら思ったんだ」
「いい旅だったなって」
「家を出て」
「知らない場所を歩いて」
「色んな猫に会って」
「仲間ができて」
「親友までできた」
少し間を置いて。
クロ
「本当に」
「幸せだったなって」
その声に、
旅へ出たことへの後悔はなかった。
夢見ていた外の世界を、
自分の足で歩いた。
見たことのない景色を見て。
たくさんの猫達と出会って。
仲間と呼べる存在ができた。
そして。
最後の時まで、
クロは一匹ではなかった。
それでも。
クロの光が、
僅かに揺れる。
クロ
「……でも」
「一つだけ」
「心残りがあった」
長い沈黙。
クロ
「せめて」
「もう一度会いたかった」
クロの光が、
小さく震える。
「ノワやモモに」
「会いたかった」
ノワの瞳に、
再び涙が滲む。
クロ
「最後まで」
「それだけは」
「どうしても諦められなかった」
ノワ
「……兄さん」
クロ
「ノワ……」
僅かな沈黙。
クロの光が、
頼りなく揺れる。
クロ
「ごめんな……」
「こんな兄ちゃんで」
ノワの頬を、
一筋の涙が伝った。
クロ
「遅くなったけど」
「何とか会えたよ」
クロの光が、
静かに揺れる。
そして。
クロ
「ただいま」
ノワ
「……」
もう一筋。
涙がノワの頬を伝う。
それでも。
今度は迷わなかった。
ノワ
「おかえりなさい……兄さん」
クロの光が、
ふわりと明るくなる。
まるで。
ずっと胸の奥に残っていた何かが、
ようやく届いたかのように。
誰も言葉を発することができなかった。
ミルは目元を拭いながら、
二人を見つめている。
ナナも胸元へ手を添え、
静かに微笑んでいた。
その隣では。
うお太が、
いつもより大人しく浮かんでいる。
ルナも何も言わず、
兄妹の再会を見守っていた。
やがて。
ノワはクロへ、
そっと両手を伸ばす。
その様子を見て。
ルナは手にした毛糸玉を構えた。
ルナ
「……展開」
シュルッ――
毛糸が宙を走る。
クロの周囲を巡りながら、
幾重にも光の線を描いていく。
やがて。
光を帯びた毛糸がクロを包み込み、
小さな結界を作り上げた。
クロ
「おお?」
結界の中で、
クロの光が揺れる。
「何だこれ?」
ルナ
「あなたの魂を守るための結界よ」
ルナはノワへ視線を向ける。
「これなら大丈夫」
ノワ
「……ありがとう」
ルナ
「ええ」
ノワは改めて、
クロへ両腕を伸ばす。
そして。
結界に包まれたクロを、
そっと胸元へ抱きかかえた。
クロ
「……」
ノワ
「……何よ」
クロ
「いや」
「何でもない」
ノワ
「変な兄さん」
そう言いながら。
ノワの腕は、
クロを離さなかった。
少しして。
クロ
「……どこ行くんだ?」
ノワ
「猫神様のところ」
クロ
「あぁ」
「さっき言ってたところか」
ノワ
「ええ」
ノワは腕の中のクロへ、
そっと視線を落とす。
「行くわよ」
クロ
「了解」
ミルは目元を拭うと、
いつもの明るい笑顔を浮かべた。
ミル
「猫神様もきっと待ってます!」
ルナ
「ええ」
ナナも静かに頷く。
ナナ
「行きましょう」
うお太も、
その言葉に合わせるように宙を泳ぎ出す。
四人は再び、
森の中を歩き始めた。
ノワの腕の中には。
ずっと帰って来なかった兄がいる。
木々の隙間から差し込む陽の光の中。
一行はゆっくりと。
猫神様の待つ社へ向かっていった。
第二部 第三十一話 完




