「ただいま(前半)」
第二部 第三十話
ただいま(前半)
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森の中。
木々の隙間から差し込む陽の光が、
地面にまだらな影を落としていた。
葉と葉が擦れ合い、
時折吹き抜ける風が草を静かに揺らしていく。
その中で。
ノワだけが、
目の前に漂う小さな光から目を離せずにいた。
金色の瞳には、
まだ涙が滲んでいる。
クロ。
妹が二匹。
ノワ。
家を出た兄。
そして。
モモ。
もう、
疑いようがなかった。
胸の奥から次々と感情が込み上げてくる。
嬉しい。
信じられない。
どうしてここにいるの。
どうして死んでいるの。
聞きたいことは山ほどあるのに、
頭の中はぐちゃぐちゃで。
何から聞けばいいのかさえ、
分からなかった。
それでも。
震える唇から、
ようやく一つの言葉が零れる。
ノワ
「……兄さん」
ミル
「え?」
クロの光が、
小さく揺れた。
ノワは唇を噛み締める。
そして。
ノワ
「……なんで死んだの?」
クロ
「……は?」
その場の空気が止まった。
森を抜けていた風だけが、
木々の葉を静かに揺らしていく。
ミルも。
ルナも。
ナナも。
突然の言葉の意味を、
すぐには理解できなかった。
けれど。
ノワだけは。
クロだけを見つめていた。
ノワは一歩、
前へ踏み出す。
ノワ
「なんで死んだの?」
「何があったの?」
「兄さん……」
「なんで……」
最後の言葉は、
僅かに震えていた。
クロ
「ま、待ってくれ!」
クロの光が大きく揺れる。
「俺の妹は猫だぞ!」
「人間じゃねぇ!」
ノワ
「……」
ノワは胸へそっと右手を当てる。
手のひら越しにも分かるほど、
鼓動が激しく脈打っていた。
逃げ出しそうになる心を、
繋ぎ止めるように。
一度だけ。
強く目を閉じる。
そして再び目を開くと、
真っ直ぐクロを見据えた。
自分がノワだと、
兄に伝えたい。
そのためなら…。
ノワはフードへ手を伸ばした。
ミル
「えっ!?」
ナナ
「ノワ!?」
ルナも驚いたように目を見開く。
ノワの指が、
フードの端を掴んだ。
ナナ
「待って!」
ナナが慌てて一歩踏み出す。
「外しちゃ駄目!」
けれど。
ルナ
「ナナ」
その声に、
ナナの足が止まった。
ルナは周囲の森へ素早く視線を巡らせる。
木々の間。
草むら。
伸びる影。
周囲に異変がないことを確かめると、
静かに片手を上げた。
ルナ
「少しの間なら問題ないわ」
ルナの取り出した毛糸玉から、
淡い紫色に光る糸が広がっていく。
その糸は地面を滑るように走り。
ミル達とクロを囲むように、
薄い膜となって静かに立ち上がった。
結界。
ナナ
「……」
ルナ
「念のため…」
そう言って、
ルナはノワへ視線を戻す。
ルナ
「長くは駄目よ」
ノワ
「……分かってる」
ノワは迷わず、
フードを外した。
その瞬間。
ノワの身体を光が包み込む。
人間の少女だった姿が、
光の中で小さくなっていく。
やがて光が収まると。
そこに立っていたのは。
艶のある黒い毛並み。
金色の瞳。
一匹の黒猫だった。
クロ
「……」
クロの光が、
大きく揺らぐ。
ノワは何も言わない。
ただ。
真っ直ぐクロを見つめていた。
その金色の瞳は。
兄を見送った、
あの日と何も変わらない。
クロ
「……ノワ?」
ノワの耳が、
僅かに動く。
クロの光が小さく震えた。
クロ
「嘘だろ……」
「本当に……」
「ノワなのか?」
ノワ
「そうよ」
「私が分からない?」
クロ
「分かる……」
「分かるけどよ……」
クロの光が、
戸惑うように左右へ揺れる。
「なんで人間になってんだ?」
ノワ
「説明すると長くなるわ」
クロ
「いやいや!」
「そこ一番説明いるだろ!」
ノワ
「あとで説明する」
「今は兄さんの話が先」
クロ
「相変わらず強引だな……」
その言葉に。
ノワの耳が、
ぴくりと動いた。
ほんの少しだけ。
張り詰めていた空気が緩む。
ノワはすぐにフードを被り直した。
再び身体が光に包まれ。
黒猫の姿から、
人間の少女へと戻っていく。
結界の中へ静けさが戻る。
ミルは目を丸くしたまま、
ノワを見つめていた。
ミル
「ノワ……」
ナナは胸元へ手を添え、
小さく息を吐く。
ナナ
「びっくりした……」
その隣では。
うお太もナナへ寄り添うように、
宙をゆっくり泳いでいた。
ルナはノワがフードを被り直したことを確認すると、
張っていた結界を静かに解く。
淡い光が薄れていき、
森の景色へ溶けるように消えていった。
ノワ
「これで信じた?」
クロ
「あぁ……」
「信じるしかねぇよ」
クロの光が、
まだ落ち着かない様子で揺れている。
クロ
「でも」
「どうしてお前がここにいる?」
「その姿は何なんだ?」
「それに」
「俺の声が聞こえてるのも……」
ノワ
「だから」
「それはあとで説明する」
クロ
「はいはい……」
クロの光が、
少しだけ穏やかになる。
クロ
「本当にノワなんだな」
ノワ
「そうだって言ってるでしょ」
クロ
「口の悪さも変わってねぇ」
ノワ
「兄さんにだけは言われたくない」
クロ
「ははっ」
懐かしい笑い声。
その声を聞いた瞬間。
ノワの胸が、
ぎゅっと締め付けられる。
ずっと。
もう二度と聞けないと思っていた。
何度も思い出そうとして。
それでも、
少しずつ薄れていった声。
それが今。
目の前から聞こえている。
ノワ
「……兄さん」
クロ
「ん?」
ノワは一度、
小さく息を吐いた。
まだ胸の中には、
聞きたいことがいくつも残っている。
それでも。
今度は落ち着いて、
クロを真っ直ぐ見つめた。
ノワ
「旅に出た後……」
「何があったの?」
クロの光が、
僅かに揺れる。
森に静寂が落ちる。
遠くで小さな虫が飛び。
風に揺れた葉が、
かすかな音を立てる。
ミルも。
ルナも。
ナナも。
何も言わず、
二人を見守っていた。
うお太も、
ナナの傍で静かに浮かんでいる。
しばらくして。
クロの光が、
静かに揺れる。
クロ
「……悪かった」
ノワ
「謝ってほしいんじゃない」
クロ
「分かってる」
少し間が空く。
クロ
「話すよ」
「全部」
ノワ
「……うん」
クロ
「俺さ」
「あの日」
「お前に見送られて」
「家を出ただろ?」
ノワ
「覚えてる」
クロ
「……あの日から先の話だ」
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クロ
「家を出てからの毎日は」
「全部が初めてだった」
「飯を探すのも」
「安心して眠れる場所を見つけるのも」
「車を避けながら歩くのも」
「目で見て、
耳で聞いて、
肌で感じる全てが新鮮だった」
クロの光が、
穏やかに揺れる。
クロ
「最初は失敗ばっかだったよ」
「腹を空かせて動けなくなった日もあった」
「雨の日に寝床が見つからなくて」
「朝まで震えてたこともある」
「でもな」
クロの光が、
少しだけ明るくなる。
「それでも毎日が楽しかった」
「自分の身体が飲み込まれそうなくらい、
大きな川を見たり」
「空が見えなくなるくらい、
広い森を歩いたり」
「今まで会ったこともない猫達と話したり」
「全部が新しかった」
前を歩きながら話していた、
クロの言葉。
知らない場所を歩いて。
見たことのない景色を見て。
色んな猫に会う。
少し前に聞いた夢が。
本当に、
クロの旅の中にあった。
ミル
「……ドキワクですね」
クロ
「あぁ」
クロの声が、
少し弾む。
「毎日がドキドキして」
「毎日がワクワクした」
「お前が教えてくれた言葉」
「まさにあんな感じだった」
ミルは少し照れくさそうに笑う。
それを見たクロの光も、
嬉しそうに明るく揺れた。
クロ
「旅を続けて」
「隣町に辿り着いた」
「そこで色んな猫と出会って」
「俺の居場所もできた」
クロの光が、
ゆっくりと揺れる。
クロ
「まぁ」
「最初はその町のボス猫に目ぇ付けられてさ」
「嫌がらせばっか受けてた」
「売られた喧嘩も全部買ってた」
ノワ
「兄さんらしい……」
クロ
「ははっ」
「そうだろ?」
「でも何度かぶつかってるうちに」
「少しずつ、
お互いを認めるようになってさ」
「いつの間にか親友になってた」
「不思議なもんだよな」
クロの光が、
穏やかに揺れる。
クロ
「仲間もできた」
「俺の帰る場所もできた」
「毎日が本当に充実してた」
クロは一呼吸置いて少し遠い目をする。
クロ
「いつでも帰れるって思ってたんだ…」
ノワの指先が、
僅かに動く。
クロ
「もう少し旅をしたら」
「ノワとモモに会いに帰ろうって」
「土産話をいっぱい持って帰ろうって」
「そう思ってた…」
静かな沈黙が落ちる。
クロ
「……でも」
クロの光が、
少しだけ弱くなる。
「ある日から」
「身体が思うように動かなくなった」
「食べても力が出ない」
「少し走るだけで息が切れる」
「昨日まで飛び越えられてた塀も」
「飛び越えられなくなってた」
ノワは何も言わない。
ただ胸の前で、
片方の手を強く握っていた。
クロ
「仲間も心配してくれた」
「食べ物を分けてくれたり」
「安心して眠れる場所を譲ってくれたり」
「みんな色々してくれた」
クロの光が、
静かに揺れる。
クロ
「……でも」
「身体は少しずつ弱っていった」
「その時にはもう」
「分かってた」
一瞬。
クロの光が、
小さく震える。
クロ
「俺」
「もう長くないんだって」
木々の間を、
風が静かに通り抜けていった。
けれど。
誰も。
何も言えなかった。
第二部 第三十話 完




