「帰る場所を探して」
第四十二話
私は、
あの男を見つけました。
あの日と同じ匂い。
忘れるはずもない、
葵を奪った匂いでした。
その時私は、
胸の奥で何かが焼けるように疼くのを感じました。
怖かった。
苦しかった。
寂しかった。
でも、
その全てより強く、
許せなかった。
私は地面を蹴りました。
この男へ飛びかかり、
牙を立て、
腕へ噛みつき、
夢中で爪を振るいました。
男
「いってぇ!!」
男は叫び、
腕を振り回します。
私は離れませんでした。
離してなるものかと、
必死でした。
男
「おめぇあのガキんとこのクソ猫じゃねぇか!!」
次の瞬間、
重い衝撃が身体を打ちました。
視界が揺れる。
地面へ叩きつけられる。
それでも立ち上がり、
もう一度飛びかかります。
男の足へ噛みつく。
男
「しつけぇんだよ!!」
蹴り上げられました。
身体が宙を舞い、
硬い地面へ落ちます。
息ができませんでした。
痛い。
苦しい。
それでも、
まだ終われませんでした。
まだ、
葵に会えていなかったんです。
私は最後の力で、
もう一度この男へ噛みつこうとしました。
けれど、
男は冷たい目で私を見下ろします。
男
「ほんとガキと一緒で面倒な猫だっ!!」
靴底が、
ゆっくりと迫りました。
その瞬間、
私の頭に浮かんだのは、
葵の笑顔でした。
視界が、
真っ暗になりました。
音も、
痛みも、
少しずつ遠くなっていきます。
何もない闇の中で、
その想いだけが残っていました。
会いたい。
もう一度だけ葵に会いたい。
その時です。
遠くに、
小さな光が差し込みました。
やさしく、
あたたかな光でした。
声が聞こえます。
「もう大丈夫ですよ、ソラ」
聞こえてきたその声に、
私は顔を上げました。
ソラ
「……葵!?」
私は泣きながら、
夢中でその光へ走りました。
――
ソラ(心)
「……あお……い?」
目の前のその人は、
涙を浮かべながら微笑んでいました。
ミル
「もう大丈夫ですよ」
ミル
「ソラ」
その人は、
葵によく似た温もりを持っていました。
でも、
葵ではありません。
それでも胸の奥に広がるこのあたたかさは、
あの幸せな日々の中で私を包んでくれていたものと同じでした。
ソラ(心)
「……違う人……」
ソラ(心)
「でも……」
ソラ
「ニャー……(ありがとう……)」
涙が零れた。
ソラの身体を覆っていた黒い闇が、
やさしくほどけていく。
その中から現れた、
半透明の猫の姿をした身体が、
淡い光に包まれた。
ミルはソラを優しく抱き寄せる。
ミル
「ここに居ますよ。大丈夫です」
ナナ
「……ミル」
ノワ
「……助けられたの?」
ルナは息を呑む。
猫神様
「運良くソラの魂が砕け散らずに綺麗に残っておる」
ルナ
「ではこの結界内の魂の欠片達の中にソラは居ないのですね」
猫神様
「うむ。ようやったルナ」
ルナ
「はい…」
ルナの表情も少し緩んだ。
猫神様は、
淡く光るソラの姿を見つめ、
静かに目を細めた。
猫神様
「……会いたい想いと」
猫神様
「殺したいほどの憎しみ」
猫神様
「その狭間で、ずっと苦しんでおったのじゃな」
安堵する一同。
ルナが結界を解こうとしたその瞬間、
ピシッ!
ルナ
「!?」
ソラの身体にひびが入る。
猫神様の表情が変わった。
猫神様
「……待て」
猫神様
「これは……まずい」
ノワ
「え……?」
猫神様
「ルナ!急いで結界を強めい!!」
猫神様
「急ぎミルとソラを囲うんじゃ!!」
ルナ
「っ……!」
毛糸が走る。
結界の外から内部への結界の構築。
ミルとソラを幾重もの光が包む。
だが間に合わない。
ソラの身体が、
既に光の欠片へ変わり始めていた。
ルナ
「ダメッ!間に合わないッ!」
ミル
「え……?」
ミル
「ソラ!?」
ミルは欠けたソラの魂に手を伸ばす。
けれど、
指先は光をすり抜ける。
ミル
「待って下さい!」
ミル
「行かないで下さい……ソラッ!」
ソラの姿が、
次々と崩れていく。
ナナ
「嘘…」
ナナは口に手を当て思わず後ずさる。
ミル
「やっと……」
ミル
「やっと助けられたのに……!」
その瞬間、
ソラの魂が砕け散る。
ノワ
「……そんなっ!」
魂の欠片が、
結界内にある他の魂の欠片と混ざってしまう。
ミル
「ソラぁ!!」
ミルの声がこだまする。
猫神様
「まだじゃ!!」
猫神様
「まだ間に合う!!」
猫神様は、
小さな透明の瓶をミルへ投げた。
蓋の部分には、
肉球の印がついている。
猫神様
「ソラの魂と近しい今のお主なら!」
猫神様
「助けられる!」
猫神様
「目で追うでない!」
猫神様
「心で探せ!」
猫神様
「魂の気配だけを頼りに、その瓶へ集めるんじゃ!」
ミル
「はいっ!絶対助けますっ!!」
ミルは震える手で、
瓶をぎゅっと持った。
結界内には、
無数の光が舞っている。
寂しい光。
苦しい光。
冷たい光。
無数の魂の欠片が、
ソラの魂を飲み込んでいく。
ミル
「ソラ……!」
何度も手を伸ばす。
けれど、
冷たい光が、
指の間をすり抜けていった。
涙が頬を伝う。
その時――
胸の奥で、
小さな温もりが震えた。
ミル
「……そこです!」
ひとつだけ、
やさしくあたたかな光が、
迷うように揺れている。
ミル
「ソラ……!」
ミルは瓶を掲げた。
散りかけていたその光が、
ふわりと向きを変える。
まるで、
ミルの声に応えるように。
そして、
一つ、また一つと、
真っ直ぐ瓶の中へ飛び込んでゆく。
ミルの頬を、
やさしい風が撫でた。
ナナ
「ミル……頑張って……」
やがて瓶の底で、
小さな光が揺れた。
散っていた光が、
ゆっくりと寄り添うように重なっていく。
ひとつ、
またひとつ。
やさしい温もりが集まり、
やがて一つの光となって、
静かに脈打った。
猫神様
「よし。もう大丈夫じゃ」
ミル
「本当に……本当に良かったです」
ノワ
「見ているこっちもひやひやしたわね」
ミルは、
その瓶を胸元へ抱き寄せたまま、
しばらく動けなかった。
ミル
「……ソラ」
指先で、
そっと瓶を撫でる。
その小さな温もりを、
確かめるように。
やがてミルは、
名残を惜しむように、
ゆっくりと猫神様へ差し出した。
猫神様は、
両手で大切に受け取る。
猫神様
「……確かに預かった」
猫神様は、
不安げに見つめるミルへ、
穏やかに笑った。
猫神様
「案ずるでない」
猫神様
「この子は、もう一人ではない」
猫神様
「必ず、戻る道へ繋いでみせよう」
ミル
「猫神様…ソラを…お願いします……」
ミルはその場に座り込む。
そこにノワが駆け寄った。
ノワ
「頑張ったわねミル」
ミル
「……今日は、頑張れました」
ノワ
「あなたはいつもの頑張りすぎなのよ」
ルナも、
力が抜けたように膝をつく。
ノワはミルの肩に手を置いたまま、
黙って空を見上げていた。
残された無数の魂の欠片が、
茜色の空へ舞い上がっていく。
街へ。
山へ。
海へ。
世界中へ。
ナナ
「……帰れるといいね」
誰も答えなかった。
ただ、
皆で空を見上げていた。
光は、
世界中へと散っていった。
まるで、
帰る場所を探すように。
――第四十二話 完




