「あの日のただいま」
第四十話
あの日も、
いつもと変わらない夕方でした。
学校を終えた葵が、
いつもの時間に帰ってきました。
扉が開く前から、
私はその足音に気がついて、
玄関の前で待っていました。
扉が開く。
葵
「ただいまー!」
その日も嬉しくなった私は、
葵の足へ飛びついたんです。
葵
「きゃっ」
葵
「ふふっ、今日もいた」
ランドセルを下ろすより先に、
葵は私を抱き上げました。
葵
「ただいま、ソラ」
頬を寄せられると、
胸の奥がぽかぽかします。
その日も、
もうすぐお母さんが帰ってくる時間でした。
私は今日も、
いつもの夜が来て、葵と一緒に寝て朝を迎えるのだと思っていました。
でもその日は、
なぜか少しだけ落ち着かない気持ちが、
胸の奥に残っていたんです。
机に向かった葵が、
ノートを広げます。
私はその上へ、
いつものように乗りました。
葵
「もー、また邪魔するの?」
私は鉛筆へ前足を伸ばします。
葵
「こらこら」
葵はまた、
笑いながら私をそっと横へずらします。
葵
「今日はね、算数のテスト褒められたんだよ!」
嬉しそうに笑う葵を見ながら、
私は小さく鳴きました。
そんな風に、
葵とやり取りしている時間が、
私は愛おしかったんです。
その時でした。
――ガタン。
玄関の方から、
鈍い音が響きました。
さっきまでの空気が、
一瞬で静まり返った気がしたんです。
葵
「……え?」
私も顔を上げます。
ですが、
お母さんが帰ってきた時の音とは、
明らかに違っていました。
葵
「もう帰ってきたのかな?」
そう言いながら葵は部屋を出て、
玄関へ続く廊下へ向かいます。
私はその足元についていきました。
廊下は静かでした。
でも、
知らない匂いがしたんです。
重くて、
冷たい匂いでした。
本能が、
近づいてはいけないと叫ぶような匂いでした。
玄関の前まで来たところで、
葵の足が止まります。
葵
「……お母さん?」
返事はありません。
次の瞬間玄関横の棚の影から、
大きな男が姿を現しました。
男
「……っ!」
葵
「きゃっ……!」
短い悲鳴でした。
男は一歩で距離を詰め、
葵の腕を強く掴みました。
葵
「やっ……離して!」
男
「うるせぇ!」
男
「大人しくしろ!」
私は反射的に、
葵の前へ飛び出しました。
唸り声を上げ、
男の足へ噛みつきます。
男
「いてぇな、この猫!」
男は苛立ったように足を振り上げました。
次の瞬間、
身体が強く弾き飛ばされます。
身体が廊下の壁へ強くぶつかりました。
痛みで、
すぐには立てません。
葵
「ソラ!」
その声で顔を上げると、
男は葵を抱え上げていました。
葵
「いやっ!」
葵
「やめて!」
男
「暴れるな!」
男
「黙って来い!」
暴れる小さな身体。
落ちたランドセル。
床を擦る靴音。
私はふらつきながら立ち上がり、
必死に追いかけました。
けれど、
男はそのまま玄関の扉を開きます。
冷たい外の空気が流れ込みました。
葵
「ソラ!!」
その声が、
今までで一番大きく響いたんです。
私は必死に飛びつこうとしました。
でも、
男
「ちっ……!」
男は外へ出て、
扉を乱暴に閉めました。
ほんの少しだけ届かなかったんです。
――バタン。
家の中から、
音が消えます。
全てが一瞬の出来事でした。
残ったのは、
倒れたランドセルと、
知らない匂いだけでした。
私は閉じられた扉の前で、
鳴くことしかできなかったんです。
そこから先のことは、
もう上手く覚えていません。
お母さんが帰ってきて、
泣きながら葵の名前を呼んでいたこと。
お父さんが、
震える声で誰かに何かを頼んでいたこと。
知らない大人達が、
何度も家へ来ていたこと。
開いたままの玄関。
眠れない夜。
静かな朝。
全部がぐちゃぐちゃに混ざって、
どれがいつのことだったのか、
もう分からなくなっていました。
ただ、
どれだけ待ってもあの「ただいま」は、
もう聞こえてこなかったんです。
――第四十話 完




