「姉として」
第三十七話
ミル
「っ――」
目の前に、
巨大な爪が迫る。
避けられない。
そう理解した瞬間だった。
――キィィン。
澄んだ音が、
空間へ響く。
ミルの前に、
一枚の光壁が現れた。
振り下ろされた巨大な爪は、
そこで静止する。
衝撃が走る。
舞い上がった瓦礫が一瞬、
視界を覆い隠す。
ミル
「……え?」
歪み猫が低く唸る。
だが、
振り被った爪は少しも進まない。
ミル
「一体……」
後方から、
聞き慣れた声が響いた。
猫神様
「守るだけなら――」
猫神様
「何も問題無かろう」
振り向けば、
猫神様が片手を上げたまま、
いつも通りの顔で立っていた。
ミル
「猫神様!」
猫神様
「ほれ」
猫神様
「ミルよ、お主の番じゃ!」
ミル
「はい!」
握る猫じゃらしは、
すでに熱を帯びていた。
穂先には、
集まり続けたピンク色の光が、
脈打つように膨れ上がっている。
まだ足りない。
あと少し。
猫神様の盾が生んだ、
その一瞬にも、
光はなお収束し続けた。
空気が震える。
猫じゃらしが軋む。
穂先の光が、
限界まで圧縮されていく。
ルナ
「……今っ!」
ルナが両手を広げる。
無数の毛糸が宙へ走り、
光の線となって周囲を巡る。
歪み猫とミルを包み込むように、
巨大な結界が展開した。
ルナ
「こっちはいつでも良いわ!」
ノワ
「ミル!」
ノワ
「決めなさい!!」
ナナ
「ミル……!」
ミルの瞳が、
強く前を向く。
猫神様
「救って来い」
ミル
「はいっ!!」
光の盾が消える。
それと同時に、
ミルは地面を蹴った。
一直線に、
歪み猫の懐へ飛び込む。
歪み猫が牙を剥く。
だが、
ミルは止まらない。
もう、
目の前だった。
歪み猫の胸元にめがけて、
猫じゃらしの穂先を叩き込む。
ミル
「ハートライドショットォォ!!」
零距離で放たれた、
ピンク色の閃光が、
歪んだ世界を真っ直ぐ貫いた。
歪み猫の巨体が、
大きく仰け反る。
踏ん張った四肢が地面を抉り、
爪痕が深く刻まれた。
ハートライドショットの余波が、
巨大な身体を激しく震わせる。
やがて――
その巨体は、
支えを失ったように崩れ落ちた。
同時に、
凄まじい反動が、
ミルの身体を弾き飛ばす。
ミル
「きゃぁッ!」
ノワ
「ミルッ!」
ノワが駆け出し、
吹き飛ばされたミルを受け止める。
二人の身体が、
そのまま地面を滑った。
立ち込める砂ぼこりの中に、
しっかりとミルをキャッチした、
ノワの姿があった。
ノワ
「本当……無茶しすぎよ……!」
ミル
「えへへ……すみません」
その時、
歪み猫の身体の内側から、
眩い光が溢れ出した。
黒く濁った毛並みに、
無数の亀裂が走る。
歪み猫
「――――ッ!!」
悲鳴にも似た咆哮。
全身を覆っていた歪みが、
砕け、
剥がれ、
光の粒となって散っていく。
ねじれていた空間も、
音を立てて崩れ始めた。
巨大だった身体が、
ゆっくりと縮み始める。
五メートルの異形が、
三メートル程まで縮んでいく。
そして――
その瞬間だった。
砕けた歪みの奥から、
無数の魂の欠片が溢れ出す。
ルナ
「……っ!」
結界全体が大きく軋む。
張り巡らされた光の糸に、
亀裂が走った。
ノワ
「ルナ!」
ルナ
「まだ……!」
両手が震える。
額から汗が落ちる。
散ろうとする魂の欠片が、
今にも結界の外へ溢れそうになる。
その間も、
歪み猫の身体が小さくなるにつれて、
溶け合っていた魂が、
光の粒となって舞い上がっていく。
猫神様
「焦るな」
猫神様
「落ち着いて集中じゃ」
ルナの瞳が揺れる。
猫神様
「お主ならやれる」
猫神様
「想いを編み込むイメージじゃ」
ルナ
「……はいッ!」
その時、
ノワ
「ルナッ!!」
ノワ
「あんた失敗なんて面白く無いことしないわよね?」
ルナは微かに微笑む。
ルナ
「誰に言っているの?」
ナナ
「私もついてるよ。ルナ」
ルナの後ろにいたナナが、
優しく声をかける。
ルナ
「ええ」
深く息を吸う。
震えていた指先が、
静かに止まる。
ルナ
「……編み込む!」
光の糸が優しく編み込まれ、
裂けかけていた結界が、
再び閉じていく。
猫神様
「うむ。それでよい」
ルナ
「……これでもう、逃さない!」
一方で、
歪み猫の縮小は終わっていた。
そこにいたのは、
もう巨大な化け物ではなかった。
一メートル程の、
小さな迷い猫だった。
ミル
「……ソラ!」
痛む身体を起こし、
ミルはソラへ向かって進み出す。
ノワ
「ミル!待ちなさい!」
ミルは笑顔で答える。
ミル
「大丈夫ですよ。ノワ」
ミルは視線をソラへ向ける。
ミル
「ミルなんかより、
ソラの方がずっと辛かったです」
一歩一歩、
痛む身体を引きずりながら進む。
ナナ
「ミル……」
ミル
「こんな姿になるまで、
一人にしてしまったミルが悪いんです」
あの日。
助けられなかった。
いや、
助けなかった迷い猫の背中が、
脳裏をよぎる。
ミル
「あの日、泣いてるように見えたのはソラですよね?」
そう。
ミルが異世界で初めて会い、
逃がしてしまったあの迷い猫こそ、
ソラだった。
ミル
「これは……妹を一人にしてしまった、お姉ちゃんとしての責任です」
涙を堪えながら、
ミルは進む。
ノワ
「ミル……」
ソラは弱々しく震えながら、
小さく牙を見せた。
それでも、
威嚇に力はない。
ミルは迷わず結界へ飛び込み、
その身体を優しく抱きしめた。
ミル
「ソラ……もう大丈夫です」
ソラの震えが止まらない。
ミル
「よく頑張りましたね」
ミル
「もう安心して下さい」
涙が零れる。
ミルの声が、
小さく震える。
ミル
「お姉ちゃんがついてますから」
その瞬間――
ソラの身体から、
柔らかな光が溢れ出した。
ミル
「……え?」
その光は砕け、
無数の欠片となって舞い上がる。
ルナ
「……っ!」
ノワ
「まさか……!」
結界の中で、
光の渦が巻き起こる。
その中心に一つだけ。
淡く、
温かな輝きが混ざっていた。
ミル
「……ソラ?」
――第三十七話 完




