「繋がる温もり」
第二十九話
猫神様の領域。
社の一室。
静かな洋室だった。
十畳ほどの広さ。
柔らかな灯りに照らされた空間。
壁際には本棚。
様々な本が静かに並んでいる。
中央にはガラス製の机。
それを挟むように、
二人掛けのソファが向かい合わせに置かれていた。
テレビは無い。
その代わり、
部屋全体には落ち着いた静けさがある。
外の空気とは違う。
冷たくもなく、
暖かすぎもしない。
奥にはベッド。
白いシーツが整えられたその上に、
ノワが横たわっている。
呼吸はある。
けれど、
目を閉じたまま動かない。
ミルは、
その横に座っていた。
ずっと。
どれくらい時間が経ったのか、
もう分からない。
ミル
「……」
小さな両手で、
ノワの手を握っている。
温もりは、ある。
ちゃんとあるのに。
返事だけが、
返ってこない。
ミル
「……ノワ」
小さく呼ぶ。
静かな部屋に、
その声だけが落ちる。
返事はない。
ミル
「……ノワ」
もう一度。
震える声。
ミル
「……ノワ」
喉の奥が締め付ける様な声。
名前を何度呼んでも、
返ってこない。
ミルの耳が、
少し伏せられる。
ミル
「……ごめんなさい」
ぽつりと落ちる。
小さな声。
ミル
「私が……」
ミル
「私が前に出たから……」
ミル
「ノワが……」
言葉が詰まる。
喉の奥が痛い。
涙が滲む。
ミル
「……違う」
ミル
「みんな…助けたかったのに……」
ミル
「助けたいって思って……」
ミル
「……前に出たのに……」
ミル
「……それなのに」
ミル
「……ノワが……」
ミル
「傷ついてる……」
少しだけ、言葉が止まる。
自分で言った言葉が、
胸へ刺さる。
ミル
「……私が、やったんだ……」
ミル
「……一番近くにいたのに……」
ミル
「……守らなきゃいけなかったのに……」
自然と手に力が入る。
ミル
「……守れてない……」
ぽたっ
涙が落ちる。
ノワの手へ落ちる。
手が震える。
ミル
「……ごめんなさい……」
ミル
「……ノワ……」
ミル
「起きてください……」
声が崩れる。
ミル
「お願い……」
ミル
「……起きてください」
虚しくもミルの声だけが空を切る。
ミル
「……やだ……」
ミル
「……やだ!」
ぎゅっと、
手を握る。
離れないように。
消えてしまわないように。
――
部屋の外。
静かな廊下。
扉越しに、
ミルの声が小さく聞こえてくる。
ナナは胸の前で手を握り、
少しだけ俯いていた。
ナナ
「……」
聞いているだけで、
胸が苦しくなる。
ルナは静かに壁へ寄りかかっていた。
ルナ
「……仕方ないわ」
ルナ
「ずっと一緒に居たみたいだから」
ナナ
「……うん」
ナナは小さく頷く。
ミルの声は、
時々途切れながらも続いていた。
ナナ
「……見てると」
ナナ
「いたたまれないわね……」
ルナは静かに目を伏せる。
ルナ
「……ええ」
短い返事。
でも、
その声は少しだけ柔らかかった。
ナナはそっと扉を見る。
ナナ
「少し…声掛けてくるわ」
ルナ
「ええ」
ルナはゆっくりと身体を起こす。
ルナ
「私は少し猫神様の所へ行ってるわね」
ルナ
「ミルを頼むわね」
ナナ
「分かったわ」
ルナは静かに廊下を歩いていく。
その後ろ姿を見送ってから、
ナナは小さく息を吸う。
そして、
そっと部屋の扉へ手を掛けた。
――
ミル
「……私のせいで……」
ミル
「……いなくなるなんて……」
ミル
「……やだ……」
ナナがそっと部屋に入って来て、
後ろからそっとミルを抱きしめる。
優しく。
包み込むように。
ナナ
「……ミル」
ミル
「ナナ……」
ミルの肩が小さく震えている。
ナナ
「それ以上、自分を責めちゃダメ」
ミルは何も言えない。
ただ、
ノワの手を握り続ける。
ナナは、
そのままミルの手に触れる。
ノワの手を、
包むように。
ナナ
「……ほら」
ナナ
「ちゃんとここに…」
ナナは繋いだ手とミルを見て、
ナナ
「温かいでしょ?」
ミル
「……」
ミルもゆっくりと、
ノワの手を見る。
確かに温かい。
ちゃんと生きている温もり。
ミル
「……はい」
ナナ
「まだ消えてない」
ナナ
「ここにいる」
ナナ
「ちゃんと」
ナナ
「繋がってるよ」
その言葉は、
静かだった。
でも、
とても優しかった。
ミルの指に、
わずかに力が戻る。
ナナ
「……それにね」
少しだけ、
声が柔らかくなる。
ナナ
「ノワ、怒るよ?」
ミル
「……え」
ナナ
「ミルがこんな顔してたら」
ナナ
「絶対怒る」
ナナ
「“何してるの”って」
ノワの言いそうな声が、
少しだけ頭に浮かぶ。
ナナは、
少しだけ微笑む。
ナナ
「……だからそんな顔してないで」
ナナ
「その手…」
ナナ
「ちゃんと繋いでて」
ナナ
「今度は…ミルが繋ぐんだよ」
ミル
「……」
ゆっくりと、
ノワの手を見つめる。
震えていた指が、
少しだけ落ち着いていく。
ミル
「……はい」
ミル
「……離しません」
ぎゅっと、
ノワの手を握る。
ナナもその上から、
そっと手を重ねる。
三人の手が、
重なる。
小さな温もり。
でも、
確かにそこにある。
ミル
「……待ちます」
ミル
「ちゃんと……戻ってくるって」
ミル
「……信じてます」
ナナ
「……うん」
静かな返事。
そのまま、
部屋には穏やかな静寂が流れていく。
――
暗い。
どこまでも暗い。
静かすぎるほどに、静かだった。
音も無い。
風も無い。
ノワは立っている。
どこか分からない場所。
地面も、
空も、
境界が曖昧だった。
だが――
目の前には、見慣れた光景。
夕暮れの公園。
オレンジ色の空。
静かな風。
いつものベンチ。
見慣れた遊具。
ミル
「ノワー!」
元気な声にノワは振り向く。
ミルが手を振りながら走って来る。
ナナとルナも後ろにいた。
ナナ
「ふふ、また走ってる」
ルナ
「転ばないようにね」
パタパタと近づくミル。
ミル
「ノワ!早く来てくだい!」
ミル
「ドキワク晩ご飯です!」
ノワ
「分かったわよ」
小さくため息をつきながらも、
その視線は柔らかい。
ミルが隣へ並ぶ。
いつもの距離。
当たり前みたいに。
穏やかな時間。
何でもない会話。
でも、
大切な時間。
その瞬間。
――ザッ
空気が変わる。
暖かい風が止まる。
影が三つ。
迷い猫。
濃い黒色が歪んでいる。
公園の空気を、
ゆっくり侵食するように現れる。
ノワ
「…来るわよ」
レイピアを構える。
ミル
「はい!」
背中合わせ。
いつもの形。
安心する位置。
だが――
ノワ
「ミル、いくわよ」
返事がない。
ノワ
「……ミル?」
振り返る。
ミルは――
そこに立って一点を見ている。
動かない。
虚ろな表情。
その視線の先。
黒いフードの影。
顔は見えない。
輪郭が、揺れている。
不気味なくらい静かだった。
ミルは、
その影に向かって歩き出す。
ノワ
「……ミル?」
反応がない。
ただ、歩く。
吸い寄せられるみたいに。
ノワ
「待ちなさい!」
走る。
距離が開く。
どんどん離れる。
ノワ
「ミル!!」
手を伸ばす。
届かない。
黒い影が、
ミルを包む。
ノワ
「……だめっ!」
さらに走る。
届かない。
声が届かない。
ノワ
「ミル!!」
その瞬間――
手を、掴まれる。
温もり。
暖かい。
確かな感触。
―――
ノワの指が、
わずかに動く。
三人の手が、
繋がっている。
ミルとナナが、
ノワの手を握っている。
強く。
離さないように。
――
静かな空間。
柔らかな灯り。
ミルとナナは、
そのまま眠っている。
いつの間にか、
疲れ切って眠ってしまっていた。
ノワの手を、
しっかりと握ったまま。
三人の手は、
繋がったまま。
ノワは、
ゆっくりと視線を動かす。
ミルの顔。
涙の跡が、
まだ残っている。
泣き疲れたみたいに、
少しだけ眉を寄せていた。
ナナの顔。
穏やかな寝顔。
優しく包むように、
手を重ねたまま。
ノワ
「……」
小さく息を吐く。
その表情が、
少しだけ緩む。
ノワ
「……バカね」
かすかな声。
まだ少し掠れている。
ノワ
「……そんな顔して」
そっと、
繋がれた手に視線を落とす。
ノワ
「……ちゃんと、繋いでるじゃない」
指に、
わずかに力を込める。
温もりが返ってくる。
確かに。
ちゃんと。
繋がっている。
ノワ
「……大丈夫」
静かに呟く。
自分へ言い聞かせるように。
ノワ
「……もう、離さない」
その視線は、
ミルへ戻る。
優しく。
大切そうに。
ノワ
「ごめんねミル…」
ノワ
「……守るわ」
ノワ
「……今度は、ちゃんと」
ノワは、
そのまま目を閉じる。
繋がれた手は、
そのままに。
温もりだけが、
静かに残っていた。
第二十八話 完




