「猫神様(後半)」
第二十二話
和室。
静かな空間。
畳の香り。
外から聞こえる風の音。
張り詰めた空気の中で、
猫神様はゆっくりと口を開いた。
猫神様
「迷い猫とはな」
猫神様
「帰る場所を失った魂じゃ」
静かな声だった。
けれど、
その言葉は重く、
部屋の空気へ静かに沈んでいく。
ミル
「……帰る場所」
猫神様
「そうじゃ」
猫神様
「想いも、記憶も、歪んでしまった存在」
ミルは小さく視線を落とす。
あの黒い巨体。
苦しそうな声。
暴れるような姿。
思い出すだけで、
胸の奥がざわついた。
ノワは黙って視線を落としている。
ルナは静かに猫神様を見ていた。
猫神様
「浄化とは」
猫神様
「その苦しみから解き放つことじゃ」
ミルの指先が、
わずかに動く。
猫神様
「優しい想い」
猫神様
「暖かい記憶」
猫神様
「それらに触れることで」
猫神様
「魂は本来の形を取り戻す」
猫神様の声は穏やかだった。
まるで、
遠い昔からずっと、
それを見続けてきたように。
ミル
「……だから」
ミル
「助けられるんですね」
猫神様
「うむ」
短い返事。
けれど、
はっきりとした肯定だった。
ミルの表情が、
ほんの少しだけ和らぐ。
猫神様
「じゃが」
その瞬間。
空気が、
わずかに重くなる。
ミルの肩が小さく揺れた。
猫神様
「歪み猫は違う」
ノワ
「……どう違うの?」
猫神様
「より深く歪んでおる」
猫神様
「強い想いが」
猫神様
「複雑に絡みついておるからの」
部屋の空気が静かに沈む。
猫神様の言葉には実感があった。
ただ知識として話しているわけじゃない。
何度も見てきた存在を語る声だった。
ルナ
「……だから、危険ということですね」
猫神様
「うむ」
猫神様
「同じやり方では」
猫神様
「命取りになることもある」
ミルは、
ぎゅっと拳を握る。
無意識だった。
それでも、
その言葉の重みは、
しっかり伝わっていた。
猫神様
「お主らがやろうとしておるのは」
猫神様
「倒すことではない」
猫神様
「救うことじゃ」
ミル
「……はい」
その返事は、
少しだけ小さかった。
けれど、
逃げるような声ではない。
ちゃんと前を向こうとしている声だった。
猫神様
「じゃが」
猫神様
「覚えておくがよい」
猫神様
「浄化したからといって」
猫神様
「全てが元に戻るとは限らぬ」
ミル
「……え?」
ノワ
「それって……」
猫神様
「苦しみから解き放つことと」
猫神様
「元に戻すことは」
猫神様
「同じではない」
沈黙。
誰もすぐには言葉を出せなかった。
空気が、
ゆっくりと重く沈んでいく。
ミルの視線が揺れる。
――元に戻らない。
その言葉だけが、
頭の中に残る。
助けたい。
助けると決めた。
でも。
もし、
助けても戻らなかったら。
その想像が、
ミルの胸の奥を締め付けた。
猫神様
「歪み猫の事については分かっておらぬ事も多い」
猫神様
「それでも」
猫神様
「救うと決めるならば」
猫神様
「覚悟が必要じゃ」
ミルは、
俯く。
言葉が出ない。
――助けたい。
――でも。
――元に戻らなかったら。
一瞬だけ、
迷いがよぎる。
その時。
ふと、
横に気配を感じる。
ノワがそこに居た。
何も言わない。
ただ、
いつも通りの距離で。
近すぎず。
離れすぎず。
当たり前みたいに、
隣に居る。
――大丈夫。
そう言われたわけじゃない。
それでも、
そう思えた。
ミルは小さく息を吸う。
ゆっくりと顔を上げる。
ミル
「……助けます」
猫神様は黙っている。
静かに、
その言葉の続きを待っていた。
ミル
「出来るかどうかじゃなくて…」
ミル
「私の手が届くところまでは……」
ミル
「最後までやります!」
その声は、
さっきよりずっと強かった。
迷いを飲み込んで、
それでも前へ進もうとする声だった。
ノワの視線が、
わずかに動く。
ルナも、
静かに目を細める。
猫神様
「……ほう」
猫神様の目が、
わずかに柔らぐ。
ほんの少しだけ。
けれど、
確かに。
猫神様
「よい」
猫神様
「ならば覚えておけ」
猫神様は短くなった杖で机を軽く叩く。
コツン
静かな音が、
和室へ響いた。
猫神様
「ミル」
猫神様は杖をミルへ向ける。
猫神様
「お主の役目は“届かせる”ことじゃ」
ミル
「……届かせる」
猫神様
「想いを」
猫神様
「魂に届けるのじゃ」
ミルは、
しっかりと頷く。
その瞳には、
もう迷いは無かった。
猫神様の視線がノワへ向く。
猫神様
「ノワ」
猫神様
「お主は守れ」
猫神様
「その想いが途切れぬように」
ノワ
「……っ」
一瞬、
目を見開く。
見透かされたような感覚。
ずっと自分でも気付いていた。
自分の役目は、
前へ出ることだけじゃない。
ミルを止めることでもない。
支えることだ。
ノワ
「……分かってるわ」
短く。
けれど、
強く言い切る。
猫神様の視線がルナへ向く。
猫神様
「ルナ」
猫神様
「お主の結界は要となる」
ルナ
「……理解しています」
落ち着いた返答。
けれど、
その声には確かな緊張感があった。
猫神様
「歪み猫を相手にするならば」
猫神様
「その力、欠かせぬ」
ルナは静かに頷く。
ミルは、
二人を見る。
ノワ。
ルナ。
自分一人じゃない。
そう思えた。
そして、
再び猫神様を見る。
ミル
「……あの」
ミル
「さっきの歪み猫は」
ミル
「助けられますか?」
猫神様は、
静かに目を細める。
少しだけ間が空いた。
猫神様
「まだ……助けることは出来る」
ミル
「……!」
ミルの表情が変わる。
希望が灯る。
猫神様
「じゃが」
その希望を、
浮つかせないように。
猫神様の声は静かに続く。
猫神様
「簡単ではない」
ミルの表情が引き締まる。
猫神様
「問題は」
猫神様
「今のお主らでは届かぬ」
一瞬の静寂。
ノワ
「……どうすればいいの?」
猫神様
「力を磨け」
猫神様
「想いを強くせい」
猫神様
「それが出来れば」
猫神様
「道は開ける」
ミルは強く頷く。
ミル
「……やります」
迷いの無い返事だった。
猫神様は、
ふっと笑う。
猫神様
「そうか」
猫神様
「ならば」
猫神様は静かに目を細めた。
その空気が、
少しだけ変わる。
先程までの“話”ではない。
ここから先は、
実際に進むための時間。
そんな空気だった。
猫神様
「では始めようかの」
猫神様
「ここからは特別授業じゃ」
ミルは、
強く拳を握る。
その目に、
迷いはもう無かった。
第二十二話 完




