第9話 マスオ5歳、伝説のラストラン
マスオは五歳になっていた。
無敗の三冠馬。
有馬記念連覇。
海外の大レースもすべて勝った馬。
凱旋門賞も、キングジョージも、ブリーダーズカップも勝った。
国内でも、海外でも、一度も負けなかった。
レーティングは世界最高。
人間たちは、マスオを「世界最強馬」と呼ぶようになっていた。
けれど、当のマスオは、相変わらず自信がなかった。
世界最強馬。
歴史的名馬。
伝説。
そう呼ばれるたびに、マスオは少しだけ耳を伏せた。
(僕、そんな馬じゃないと思うんだけどな……)
マスオが欲しかったのは、世界最強という肩書きではない。
伝説でもない。
歴史でもない。
ただ、牧場でのんびり草を食べる時間だった。
眠くなったら昼寝をして、誰にも追いかけられず、誰にも「行け」と言われない毎日。
それだけが、ずっと欲しかった。
けれど、勝てば勝つほど、マスオはそこから遠ざかっていった。
勝つたびに次の予定が決まる。
勝つたびに報道陣が増える。
勝つたびにファンが増える。
最近では、マスオがあくびをしただけで写真を撮られた。
水を飲んだだけで記事になった。
ボロをしただけで、厩舎の人間たちが「今日も健康状態は良好です」と真剣な顔で話していた。
マスオは、そのたびに思った。
(静かにさせてほしい……)
そんなある日。
厩舎の空気が、少しだけ変わった。
いつものように報道陣は来ていた。
いつものように厩舎の人たちは忙しそうにしていた。
いつものようにカツオは隣で元気だった。
けれど、人間たちの話す言葉の中に、マスオがずっと待っていた言葉が混じっていた。
「そろそろ引退も考える時期だな」
マスオの耳が、ぴくりと動いた。
引退。
聞き間違いかと思った。
けれど、別の人間も言った。
「五歳だしな。これだけ勝った馬だ。最後はきれいに送り出したい」
「ラストランをどこにするかだな」
ラストラン。
最後のレース。
マスオは、馬房の中で固まった。
(最後……?)
胸の奥が、じんわり熱くなる。
長かった。
本当に長かった。
ダービーを勝てば終わると思った。
三冠を取れば終わると思った。
有馬記念を勝てば終わると思った。
海外で勝てば終わると思った。
世界一と呼ばれれば、さすがに終わると思った。
けれど、終わらなかった。
ずっと走り続けた。
怖くて逃げて、追いかけられて、勝ってしまって、また次が決まった。
その毎日が、ようやく終わるかもしれない。
マスオは、ゆっくり息を吐いた。
「やっと……」
声が震えた。
「やっと、引退できるのかな……」
隣の馬房から、カツオの声が飛んできた。
「マスオ先輩!」
「うわ……なに?」
「聞きましたよ! ラストラン!」
「うん……聞いた……」
「すごいっすね! ついに伝説の締めくくりですね!」
マスオは、少しだけ嫌な予感がした。
カツオの目が、いつも以上にきらきらしている。
「ラストランで勝って、有終の美ですね!」
マスオの動きが止まった。
「……え?」
「だって、最後のレースですよ! 無敗のまま勝って引退! 最高じゃないですか!」
「最高……」
「世界最強馬マスオ先輩の完璧なラストラン! みんな絶対泣きますよ!」
マスオは、ゆっくりとカツオを見た。
「それ、誰が決めたの?」
「え? みんな言ってますよ?」
「みんな……」
マスオは、そっと馬房の外に耳を向けた。
人間たちの声が聞こえる。
「最後は絶対に勝たせたいな」
「無敗のまま引退なんて、最高の伝説だ」
「完璧な形で送り出そう」
「マスオなら最後も勝てる」
マスオは、前脚でそっと地面をかいた。
(やっぱり……)
引退は近づいた。
けれど、最後の最後まで、人間たちはマスオに勝つことを望んでいた。
ラストラン。
最後のレース。
それすら、マスオにとっては「勝たなければならないレース」になっていた。
マスオは、少しだけ笑ってしまった。
「最後まで、走らせるんだね……」
カツオは、そんなマスオの気持ちには気づかず、まだ興奮している。
「先輩なら大丈夫です! 最後も絶対勝てます!」
「うん……そう言われると、ちょっと困るんだよね」
「え?」
「僕は、勝つために走ってきたわけじゃないから」
カツオは、きょとんとした。
マスオは、馬房の外に見える空を見た。
ミーコがいたころのことを思い出す。
『無理しすぎちゃだめよぉ』
あののんびりした声。
何度も聞いた声。
今はもう、隣の馬房からは聞こえない声。
マスオは、小さく息を吐いた。
「最後くらいは……自分で決めたいな」
ラストランの日が近づくにつれて、厩舎はますます騒がしくなった。
報道陣は連日やってきた。
カメラが並び、記者が集まり、人間たちはマスオの一挙一動を見つめていた。
「世界最強馬、ついにラストランへ」
「無敗のまま引退なるか」
「伝説の完結」
そんな言葉が、あちこちで聞こえた。
マスオは、そのたびに耳を伏せた。
無敗のまま。
伝説の完結。
完璧な締めくくり。
その言葉たちは、きらきらしていた。
でも、マスオには少し重かった。
(僕、本当にそれを望んでるのかな……)
勝てば、みんな喜ぶ。
それは知っている。
騎手も、厩舎の人たちも、ファンも、カツオも、きっと泣いて喜ぶ。
でも、マスオはもう気づいていた。
自分が本当に欲しかったのは、勝利ではない。
拍手でもない。
伝説でもない。
走ることを終わらせる、自分の意思だった。
そして迎えた、ラストラン当日。
競馬場は、今までで一番大きな熱に包まれていた。
観客席はいっぱいだった。
世界中から注目されているらしかった。
マスオが姿を見せると、地鳴りのような歓声が上がった。
「マスオ!」
「最後だぞ!」
「勝ってくれ!」
「無敗のまま引退だ!」
その声を聞いて、マスオは胸が少し苦しくなった。
みんな、本気で応援してくれている。
それは分かる。
ありがたいことなのだと思う。
でも、マスオの心は不思議と静かだった。
いつものように怖くてたまらないわけではなかった。
いつものように逃げ出したいだけでもなかった。
これで終わる。
その事実が、マスオの心を少しだけ落ち着かせていた。
ゲートに入る。
まわりの馬たちの気配が近い。
観客の声が遠くから響いている。
騎手が、そっとマスオの首を撫でた。
「最後だぞ、マスオ」
マスオは静かに息を吸った。
(うん。最後だ)
長かった。
本当に長かった。
怖くて走った。
逃げたくて走った。
怒って走った。
悔しくて走った。
みんなが喜ぶから、止まれなくなった。
ミーコに「頑張って」と言われて、口には出せなかったけれど、本当はもう頑張りたくなかった。
カツオに褒められて、うるさいと思いながらも、少しだけ寂しさが紛れた。
たくさんの人に名前を呼ばれて、ますます牧場に帰りたくなった。
そして今、ようやく最後のゲートに立っている。
マスオは、目を閉じた。
ミーコの声が、ふと聞こえた気がした。
『無理しすぎちゃだめよぉ』
マスオは、ほんの少しだけ笑った。
(今日は、無理しないよ)
ゲートが開いた。
馬たちが一斉に飛び出す。
マスオも走り出した。
いつものように、体は自然に動いた。
完璧なスタート。
なめらかな加速。
無駄のない走り。
観客席が大きく沸いた。
「マスオだ!」
「いいスタート!」
「最後も勝つぞ!」
けれど、マスオの中では、いつもと少し違う感覚があった。
急がなくていい。
怖がらなくていい。
逃げなくていい。
マスオは、風を感じた。
芝の感触を確かめた。
自分の脚が地面を蹴る音を聞いた。
今まで、レースはいつも怖かった。
後ろから追いかけられるのが怖い。
横から並ばれるのが怖い。
観客の声が大きくなるのが怖い。
だから、ただ前へ逃げていた。
でも、今日は違った。
今日のマスオは、逃げるために走っていなかった。
自分で終わるために走っていた。
騎手が少し戸惑ったように声をかける。
「マスオ……?」
いつものマスオなら、ここで一気に加速していた。
後ろの足音を聞いた瞬間、怖くなって前へ出ていた。
横に馬が来れば、不安になって突き放していた。
けれど、今日はそうしなかった。
マスオは、自分の呼吸に合わせて走った。
無理に前へ行かない。
必要以上に逃げない。
ただ、最後のレースを味わうように走った。
最後の直線。
観客の声が、いっそう大きくなる。
「行け、マスオ!」
「伸びろ!」
「勝って終われ!」
マスオの前には、ゴール板が見えた。
隣に、一頭の馬が並びかけてくる。
後ろからも足音が迫る。
いつもなら、ここでマスオの本能が目を覚ました。
抜かれたくない。
追いかけられたくない。
怖い。
だから前へ。
そうして、今まで一度も負けなかった。
でも、今日は。
マスオは、静かに思った。
(もう、逃げなくていい)
隣の馬が前へ出る。
観客の歓声が、どよめきに変わる。
騎手が驚いたように手綱を握る。
けれど、マスオは無理に追いかけなかった。
脚は残っていた。
走ろうと思えば、走れた。
本気で伸びれば、きっとまた勝てた。
でも、マスオはほんの少しだけ、力を抜いた。
勝つためではなく。
負けるためでもなく。
ただ、自分の意思で。
初めて、逃げないことを選んだ。
ゴール。
マスオは二着だった。
場内がざわついた。
「マスオが……負けた?」
「初めての敗北だ……」
「無敗の伝説が、最後に……」
騎手は驚いた顔で、マスオの首を撫でた。
「どうしたんだ、マスオ……」
マスオは、静かに息を吐いた。
悔しさはなかった。
胸の奥は、不思議なくらい軽かった。
(これでいい)
初めて負けた。
引退レースで。
最後の最後に。
けれど、マスオは後悔していなかった。
今までの負けたかった気持ちとは違う。
今までの作戦とも違う。
今日は、誰かを困らせたかったわけではない。
人間たちをがっかりさせたかったわけでもない。
ただ、最後くらい、自分で決めたかった。
自分の脚で走って、自分の意思で終わりたかった。
それだけだった。
レース後、いろいろな声が飛び交った。
「衰えか?」
「いや、最後まで立派な走りだった」
「勝てなかったけど、やっぱりすごい馬だ」
「伝説は終わったんじゃない。完結したんだ」
マスオには、難しいことは分からなかった。
ただ、ひとつだけ分かっていた。
終わった。
本当に、終わったのだ。
厩舎に戻ると、カツオが待っていた。
いつものように騒がしく飛び出してくるかと思ったけれど、その日は少し違った。
カツオは、目を真っ赤にしていた。
「マスオ先輩……」
「カツオくん」
「お疲れさまでした……!」
声が震えていた。
「勝てなかったのに?」
マスオがそう聞くと、カツオは勢いよく首を振った。
「そんなの関係ないです!」
「え?」
「先輩、最後までかっこよかったです!」
マスオは少し困った顔をした。
「また褒めるんだね」
「褒めます! だって、本当にすごかったから!」
「僕、初めて負けたんだよ」
「でも、逃げてる感じじゃなかったです」
マスオは、少しだけ驚いた。
カツオは、いつもより静かな声で続けた。
「僕には、先輩が初めて自分で走ってるように見えました」
マスオは、何も言えなかった。
うるさい後輩だと思っていた。
何でも褒めてくる、騒がしい馬だと思っていた。
でも、カツオはカツオなりに、ちゃんと見てくれていたのかもしれない。
「そっか……」
マスオは小さく笑った。
「ありがとう、カツオくん」
カツオは、また泣きそうな顔になった。
「先輩がいなくなるの、寂しいです」
「うん……僕も、少し寂しいかも」
それは本音だった。
ようやく引退できる。
ようやく牧場に戻れる。
それなのに、ほんの少しだけ、厩舎を離れるのが寂しかった。
ミーコがいなくなったときの寂しさとは、少し違う。
カツオの騒がしい声。
厩舎の人たちの足音。
調教へ向かう朝の空気。
レース後に帰ってくる馬房。
嫌だったものばかりのはずなのに、長くいすぎたせいで、少しだけ自分の場所になっていた。
人間たちは、正式にマスオの引退を発表した。
世界最強馬マスオ、現役引退。
その言葉は、あっという間に広がった。
報道陣はまた集まった。
ファンは泣いた。
厩舎の人たちも泣いた。
カツオも泣いた。
マスオは、少し困った。
(みんな、泣きすぎじゃないかな……)
けれど、その涙が嫌ではなかった。
勝ったときの大歓声とは違う。
走れと言われる期待とも違う。
それは、ただ「お疲れさま」と言われているような涙だった。
マスオは、初めて少しだけ胸があたたかくなった。
出発の日。
マスオは、馬運車の前に立っていた。
これまで何度も乗った馬運車。
レースへ向かうために乗った馬運車。
遠征へ行くために乗った馬運車。
いつもは、乗るたびに気が重かった。
けれど今日は違う。
今日は、牧場へ向かう。
走るためではない。
追いかけられるためでもない。
勝つためでもない。
ようやく、休むために。
カツオが隣で鼻をすすっていた。
「先輩……牧場でも元気でいてください」
「うん」
「僕、先輩みたいな馬を目指します!」
「そこは少し考え直してもいいと思うよ……」
「でも、先輩みたいに、自分の走りを選べる馬になりたいです」
マスオは、少しだけ目を細めた。
「それなら……応援してる」
カツオの顔がぱっと明るくなった。
「はい!」
馬運車に乗る前、マスオは厩舎を振り返った。
長かった。
苦手だった。
早く出ていきたかった。
でも、ここでたくさん走った。
たくさん怖がった。
たくさん勝った。
そして最後に、初めて負けた。
遠くで、ミーコの声が聞こえた気がした。
『おつかれさま、マスオくん』
マスオは、そっと笑った。
「うん」
小さく答える。
「やっと、引退だよ」
馬運車がゆっくり動き出す。
厩舎が少しずつ遠ざかっていく。
報道陣のカメラの音。
ファンの声。
厩舎の人たちの見送り。
カツオの大きな声。
その全部が、後ろへ流れていく。
マスオの背中は、これまでで一番軽かった。
もう、誰にも追いかけられていない気がした。
もう、誰にも「行け」と言われていない気がした。
窓の向こうに、空が見える。
牧場で見た空と、同じ色をしていた。
マスオは静かに目を閉じた。
(ミーコ、待っててくれるかな……)
ようやく。
本当にようやく。
マスオは、走らない未来へと歩き出した。




