第10話 マスオの引退
引退から、一か月が過ぎた。
マスオは、青空の下にいた。
広い牧場。
やわらかい草。
ゆっくり吹く風。
遠くには、のんびり流れる雲。
それは、マスオがずっと夢に見ていた景色だった。
レースはない。
ゲートもない。
観客の大歓声もない。
背中に騎手も乗っていない。
誰も「行け」と叫ばない。
誰も後ろから追いかけてこない。
マスオは、草の上に立ち尽くしながら、小さく息を吐いた。
「……やっとだ」
長かった。
本当に長かった。
ダービーを勝った。
三冠馬になった。
有馬記念も勝った。
海外にも行った。
凱旋門賞も、キングジョージも、ブリーダーズカップも勝った。
レーティング世界最高だとか、世界最強馬だとか、伝説だとか、いろいろな言葉で呼ばれた。
そして最後のレースで、初めて自分の意思で負けた。
ようやく、マスオは競走馬を引退した。
ようやく、牧場に帰ってきたのだ。
「これだよ……」
マスオは、ゆっくり草を食べた。
「これなんだよ、僕が欲しかったのは……」
草は特別なごちそうではない。
けれど、急かされずに食べられる草は、何よりもおいしかった。
眠くなったら眠れる。
歩きたくなったら歩ける。
ぼんやり空を見ていても、誰も怒らない。
小さかった頃と同じような、静かな時間がそこにあった。
マスオは、目を細めた。
「やっと、のんびりできる……」
そう思った。
心の底から、そう思った。
しかし。
その平和は、思っていたほど簡単には手に入らなかった。
ある朝。
マスオが草を食べていると、牧場の人間たちがやけに忙しそうに動き始めた。
書類を持って走る人。
電話で話している人。
遠くからカメラを構える人。
マスオを見て、目を輝かせる人。
何かを確認しながら、予定を読み上げる人。
マスオは、嫌な予感がして耳を伏せた。
「こちらがマスオです!」
「今年の目玉種牡馬ですよ」
「午前中は取材が二件入っています」
「午後は見学の方が来ます」
「ファンレターもまた届いていますね」
マスオの動きが止まった。
「……ファンレター?」
引退したはずだった。
もう走らなくていいはずだった。
のんびり草を食べて、昼寝をして、静かに暮らせるはずだった。
なのに、目の前の人間たちはどう見ても忙しそうだった。
どう見ても、マスオに何かを期待していた。
しかも、競馬場ではないはずなのに、カメラまである。
マスオは、ゆっくり後ずさった。
「ねえ……誰か説明して……」
人間たちは、にこにこしながら話している。
「引退後も人気がすごいな」
「世界最強馬だからな」
「牧場での様子を知りたいファンが多いんだよ」
「今日はファンレターの写真も撮りましょう」
マスオは、空を見上げた。
「……聞いてないんだけど」
競走馬を引退したら、静かになると思っていた。
けれど、マスオは忘れていた。
自分は、ただの引退馬ではない。
無敗の三冠馬で、有馬記念馬で、海外の大レースもすべて勝った、世界最強馬と呼ばれていた馬なのだ。
引退したくらいで、人間たちが急に静かになるわけがなかった。
むしろ今度は、牧場に人が来るようになった。
「マスオが草を食べています!」
「穏やかな表情ですね」
「現役時代とは違う、リラックスした姿です」
「ファンにはたまらない映像ですね」
マスオは草を噛みながら、静かに思った。
(草くらい、普通に食べさせてほしい……)
別の日には、ファンレターが届いた。
人間たちが、箱に入った手紙を大事そうに運んでくる。
「マスオ宛てです」
「すごい数だな」
「引退しても愛されてる証拠ですね」
マスオは、手紙の山を見つめた。
もちろん、字は読めない。
けれど、人間たちがうれしそうにしているので、きっと悪いものではないのだろう。
「マスオ、みんな応援してくれてるぞ」
そう言われて、マスオは困った顔をした。
応援されるのは、嫌ではない。
ありがたいことなのだと思う。
でも、その数が多すぎる。
手紙。
写真。
見学。
取材。
動画。
記事。
引退したのに、マスオのまわりは相変わらずにぎやかだった。
「僕、牧場に来たら静かになると思ってたんだけどな……」
そのときだった。
少し離れた場所から、聞き慣れた声がした。
「マスオくん?」
マスオは、はっと振り向いた。
そこにいたのは、ミーコだった。
以前より少し落ち着いた雰囲気になっていたけれど、のんびりした目は変わっていない。
干し草を食べるときと同じ、穏やかな顔でマスオを見ている。
「ミーコ!」
マスオは、思わず駆け寄った。
「ミーコ、助けて。なんか、引退したのに全然静かじゃないんだけど」
ミーコは、いつものようにゆっくり瞬きをした。
「あらぁ。マスオくんも、こっちに来たのねぇ」
「来たけど……僕はのんびりするために来たんだよ」
「うんうん」
「なのに、取材とか、見学とか、ファンレターとか、予定とか言われてるんだけど」
「人気者だものねぇ」
「人気いらないって、ずっと言ってるのに……」
マスオは、しょんぼりと耳を下げた。
「引退したら、ただ草を食べて昼寝できると思ってたんだ」
「できるわよぉ」
「本当に?」
「合間に」
マスオは固まった。
「合間……?」
遠くから人間の声がした。
「マスオ、次の予定入ります!」
「午後の取材、少し早まったそうです!」
「そのあと見学対応です!」
マスオは、ゆっくり目を閉じた。
「引退って、休むことじゃなかったの……?」
ミーコは、少し考えてから言った。
「走るお仕事は終わったのよぉ」
「うん」
「でも、今度は別のお仕事ねぇ」
「別のお仕事……」
「繁殖のお仕事もあるし、見てもらうお仕事もあるし、元気でいるお仕事もあるわねぇ」
「元気でいるのも仕事なの……?」
「マスオくんは特別人気者だものねぇ」
マスオは、しばらく黙っていた。
そして、深くため息をついた。
「特別って、だいたい忙しいんだね……」
ミーコは、くすっと笑った。
「相変わらずねぇ」
「僕は真剣なんだけど……」
しかも、牧場での生活は、厩舎とはいろいろ違った。
厩舎では、決まった馬房があった。
隣にはミーコがいて、そのあとカツオがいた。
朝になれば調教があり、レースがあり、予定は嫌でも分かりやすかった。
もちろん、その全部が苦手だった。
でも、長くいたせいで、いつの間にか慣れていた。
牧場は広い。
とても広い。
放牧地もある。
風も気持ちいい。
草もある。
けれど、自由なだけではなかった。
朝の見回りがある。
体調チェックがある。
種牡馬としての予定がある。
見学の時間がある。
取材の時間がある。
ファンへ送る写真を撮られることもある。
牧場の人間たちは優しいけれど、やっぱり忙しそうだった。
マスオは、思っていた。
(牧場って、ただ寝てればいい場所じゃなかったんだ……)
そして、何より大変だったのが、繁殖のお仕事だった。
最初に予定表を聞いたとき、マスオは耳を疑った。
「本日のお相手は、こちらになります」
「午後にも予定が入っています」
「今日は全部で九頭ですね」
マスオは、ぴたりと動きを止めた。
「……九頭?」
牧場の人間たちは、当然のように予定を確認している。
「明日は少し少なめです」
「そうですね、七頭です」
「昨日が多かったですからね」
マスオは、ゆっくり空を見上げた。
「……少なめって、何?」
走らなくていい。
それは確かだった。
ゲートにも入らない。
後ろから追いかけられることもない。
けれど、今度は別の意味で予定が詰まっていた。
一日に何頭もの牝馬と顔を合わせる。
人間たちはみんな真剣だ。
「世界最強馬の血を残すんですから」
「マスオの子どもには期待がかかっています」
「今年の種牡馬界の主役ですね」
また期待。
また主役。
また予定。
マスオは、頭がくらくらした。
「僕、引退したんだよね……?」
誰に聞くでもなくつぶやく。
「レースは終わったんだよね……?」
たしかに、競走馬としては引退した。
けれど、今度は人気種牡馬として大忙しだった。
走っていた頃は、勝てば次のレースが増えた。
引退したら、今度は人気がありすぎて予定が増えた。
マスオは、静かに震えた。
「人気って……どこまで僕を働かせるの……?」
夕方。
ようやく一日の予定が終わったころ、マスオは牧場の端でぐったりしていた。
そこへミーコが、のんびり歩いてくる。
「マスオくん、おつかれさまぁ」
「ミーコ……」
「今日は忙しかったみたいねぇ」
「忙しいっていうか……多いよ……」
マスオは、疲れた声で言った。
「一日に十頭近くって、僕、聞いてないよ……」
「あらぁ。人気種牡馬だものねぇ」
「その言葉、もう怖いよ……」
マスオは草の上に顔を近づけた。
「僕、引退したら草を食べて昼寝する生活だと思ってたんだ」
「うんうん」
「でも取材は来るし、ファンレターは来るし、写真は撮られるし、繁殖のお仕事はいっぱいだし……」
「大変ねぇ」
「大変だよ……すごく大変だよ……」
マスオは、遠い目をした。
「もしかして引退って、休むことじゃなくて、仕事内容が変わることだったのかな……」
ミーコは、少し考えてから、のんびりうなずいた。
「マスオくんの場合は、そうかもしれないわねぇ」
「そんな引退、聞いてない……」
マスオは深くため息をついた。
ある日、マスオは昼寝をしようとしていた。
ようやく静かな時間が来たと思った。
草の匂い。
やわらかい日差し。
少し眠くなる風。
これこそ、マスオが待っていた時間だった。
マスオは、ゆっくり目を閉じた。
その瞬間。
「マスオ、すみません。少しだけ撮影入ります」
マスオは目を開けた。
「……今?」
「寝顔が撮れたらファンの方が喜ぶので」
マスオは、しばらく黙っていた。
そして、小さくつぶやいた。
「寝顔を撮るなら、寝かせてほしい……」
また別の日。
マスオが水を飲んでいると、牧場の人間がうれしそうに言った。
「いいですね。穏やかに過ごしていますね」
その横で、取材の人がメモを取っている。
「引退後も落ち着いた様子、と」
マスオは水桶に顔を近づけたまま思った。
(僕、水を飲んでるだけなんだけど……)
そしてまた別の日。
マスオがボロをすると、牧場の人間が安心したようにうなずいた。
「うん、今日も体調は良さそうだ」
取材の人がうなずく。
「健康状態も良好ですね」
マスオは、そっと耳を伏せた。
(だから、それは記事にしなくていいんじゃないかな……)
結局、引退しても、マスオは見られていた。
現役時代は、走りを見られていた。
今は、生活を見られている。
あくび。
昼寝。
草を食べる姿。
水を飲む姿。
歩く姿。
ぼんやり空を見ている姿。
何をしても、誰かが喜んだ。
マスオは、ある夕方、ミーコに言った。
「ねえ、ミーコ」
「なぁに?」
「僕、引退したのに、まだ観察されてる気がする」
「人気者ねぇ」
「人気って怖いね……」
「ふふ」
「僕は、ただ静かに暮らしたかっただけなんだけどな」
「静かではないわねぇ」
「うん。思ってたより、かなり静かじゃない」
マスオは、草をひと口食べた。
それから、少しだけ考えた。
「でも……」
ミーコが首をかしげる。
「でも?」
「レースよりは、少し違うかも」
「どう違うのぉ?」
マスオは、空を見上げた。
「追いかけられない」
「うん」
「ゲートに入らなくていい」
「うん」
「勝たなくていい」
「うんうん」
「それに……終わったら、ここに戻ってこられる」
マスオは、少しだけミーコを見た。
「ミーコもいるし」
ミーコは、ゆっくり瞬きをした。
「あらぁ」
マスオは、すぐに目をそらした。
「別に、深い意味じゃないけど」
「ふふ。分かってるわぁ」
「分かってない気がする……」
二頭は、しばらく並んで草を食べた。
何か特別な会話をするわけではない。
ただ、同じ場所で、同じ風を感じている。
それだけで、マスオの胸は少し軽くなった。
そうだ。
マスオが欲しかったのは、ただ静かな生活だった。
けれど、完全に何もない毎日だけが幸せとは限らないのかもしれない。
取材が来ても。
ファンレターが届いても。
予定が詰まっていても。
繁殖のお仕事が思っていたよりずっと大変でも。
人間たちがまだマスオのことで騒いでいても。
ここには、レースのゴール板はない。
追いかけてくる馬もいない。
勝たなければならない空気も、前よりはずっと少ない。
そして、隣にはミーコがいる。
それは、思っていた引退生活とは違った。
かなり違った。
全然、楽園ではなかった。
でも、悪夢でもなかった。
遠くから、人間の声が聞こえた。
「マスオ様ー!」
マスオは、深くため息をついた。
「また呼ばれてる……」
ミーコがのんびり言う。
「行ってらっしゃい、マスオくん」
その言葉に、マスオは少しだけ足を止めた。
行ってらっしゃい。
その響きは、なぜか懐かしかった。
厩舎にいたころ、ミーコはよく「おかえりなさい」と言ってくれた。
今度は、牧場で「行ってらっしゃい」と言ってくれる。
それだけで、マスオは少しだけ大丈夫な気がした。
「うん。行ってくる」
そう答えて、マスオはゆっくり歩き出した。
取材は嫌だ。
予定も嫌だ。
人気者扱いも、まだ慣れない。
繁殖のお仕事も、正直かなり大変だ。
引退したのに忙しいなんて、やっぱり少し納得できない。
でも、呼ばれた先で何かを終えれば、またここに戻ってこられる。
草がある。
風がある。
ミーコがいる。
マスオは、青い空の下を歩きながら、小さくつぶやいた。
「……思ってたより、大変だな」
少し間を置いて、もう一度つぶやく。
「でも、まあ……これも悪くないのかもしれない」
その声は、風に混じって牧場へ広がっていった。
伝説は終わった。
無敗の記録も、ラストランの二着で終わった。
世界最強馬マスオの競走生活は、もう過去のものになった。
けれど、マスオの毎日は続いていく。
思っていたほど静かではない。
思っていたほど楽でもない。
むしろ、まだまだ忙しい。
それでも。
走らなくていい未来は、マスオが想像していたよりずっと騒がしくて。
想像していたよりずっと大変で。それでも、ほんの少しだけ、あたたかかった。




