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マスオの引退計画  作者: ルサ坊主


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11/12

第11話 マスオとミーコ

夕暮れの牧場に、やわらかい風が吹いていた。


草がさらさらと揺れている。


空は茜色に染まり、遠くでは鳥がゆっくり帰っていく。


そんな穏やかな景色の中で、マスオは柵のそばに立ち尽くしていた。


いや、正確には、立ち尽くす力しか残っていなかった。


「……もう無理」


ぽつりと、マスオはつぶやいた。


隣では、ミーコがのんびり草を食べている。


「どうしたのぉ、マスオくん」


「今月だけで、百頭近く相手したんだけど……」


ミーコは、ゆっくり瞬きをした。


「あらぁ。人気種牡馬ねぇ」


「人気って怖いね……」


マスオは、ぐったりと首を下げた。


引退すれば、のんびりできると思っていた。


レースはない。


ゲートもない。


観客の歓声もない。


後ろから追いかけてくる馬もいない。


だから、これでようやく静かな毎日が手に入る。


そう思っていた。


けれど、現実は甘くなかった。


競走馬としての仕事は終わった。


しかし今度は、種牡馬としての仕事が始まった。


しかも、マスオはただの種牡馬ではない。


無敗の三冠馬。


世界の大レースをすべて勝った馬。


レーティング世界最高。


世界最強馬と呼ばれた馬。


人間たちは、そんなマスオにとんでもなく期待していた。


「マスオの子どもが見たい」


「マスオの血を残したい」


「今年の目玉種牡馬だ」


「予約がいっぱいです」


その言葉を聞くたびに、マスオは耳を伏せた。


予約。


予定。


満枠。


人気。


どれも、引退生活には似合わない言葉だと思っていた。


でも、マスオのまわりでは毎日のように飛び交っていた。


「僕、引退したんだよね……?」


夕方の風に向かって、マスオは小さく言った。


「引退って、休むことじゃなかったの……?」


ミーコは、草をもぐもぐしながら言った。


「走るお仕事は終わったのよぉ」


「うん」


「今は、別のお仕事ねぇ」


「別のお仕事が忙しすぎるんだよ……」


マスオは遠い目をした。


朝になると、牧場の人間たちが予定を確認する。


「午前中に三頭ですね」


「午後も入っています」


「今日は少し多めです」


最初、マスオは「少し多め」という言葉を軽く考えていた。


けれど、その日の終わりには思い知った。


人間たちの言う「少し多め」は、マスオにとって全然少しではない。


一日に何頭もの牝馬と顔を合わせる。


そのたびに人間たちは真剣な顔をする。


記録を取る。


予定を確認する。


マスオの体調を見る。


「世界最強馬ですからね」


「無理はさせられません」


「でも期待は大きいです」


無理はさせられない。


そう言いながら、予定はびっしり入っている。


マスオは思った。


(これ、無理って言わないのかな……)


しかも、繁殖のお仕事だけではなかった。


取材も来る。


見学の人も来る。


ファンレターも届く。


写真も撮られる。


牧場で草を食べているだけで、記事になる。


水を飲んでいるだけで、動画になる。


昼寝しようとしたら、「寝顔を撮らせてください」と言われる。


マスオは、そのたびに思った。


(寝顔を撮るなら、まず寝かせてほしい……)


この日もそうだった。


朝から予定があった。


昼にも予定があった。


その合間に取材が来た。


少し草を食べようとしたら、牧場の人間に呼ばれた。


ようやく夕方になって、マスオはミーコのいる放牧地に戻ってきたのだ。


「僕ね、今日だけで三回くらい“もう引退したい”って思った」


「もう引退してるのよぉ?」


「そこが問題なんだよ!」


マスオは、思わず声を上げた。


「引退してるのに、また引退したいんだよ! これって変じゃない?」


ミーコは、くすっと笑った。


「マスオくんらしいわねぇ」


「らしくない方がよかった……」


マスオは、柵にもたれるようにして空を見上げた。


夕焼けはきれいだった。


風も気持ちよかった。


草の匂いもやさしかった。


そこだけ見れば、たしかにマスオが望んでいた牧場生活だった。


でも、その裏には予定表があった。


取材があった。


見学対応があった。


繁殖のお仕事があった。


今月だけで百頭近く相手をした、という現実があった。


「僕、牧場に来たら、もっと静かだと思ってた」


「そうねぇ」


「朝は好きな時間に起きて、草を食べて、眠くなったら寝て、何もしない日があると思ってた」


「うんうん」


「でも実際は、朝から予定、昼も予定、午後も予定、たまに撮影、たまに見学、そしてファンレター……」


マスオは、深くため息をついた。


「競走馬じゃなくなったのに、まだ人気に追いかけられてる気がする」


ミーコは、少しだけ優しい目でマスオを見た。


「大変ねぇ」


「大変だよ……すごく大変だよ……」


マスオは草をひと口食べた。


「でも、走ってた頃とは違うんだよね」


「どう違うのぉ?」


「ゲートに入らなくていい」


「うん」


「後ろから追いかけられない」


「うん」


「勝たなくていい」


「うんうん」


「それに……」


マスオは、少しだけミーコを見た。


「終わったら、ここに戻ってこられる」


ミーコは、ゆっくり瞬きをした。


「あらぁ」


マスオはすぐに目をそらした。


「別に、深い意味じゃないけど」


「ふふ。分かってるわぁ」


「分かってない気がする……」


二頭の間に、少しだけ穏やかな沈黙が流れた。


風が吹く。


草が揺れる。


遠くで人間たちの声がする。


マスオは、夕焼けを見ながらぽつりと言った。


「走ってたときさ」


「うん」


「ずっと、早く終われって思ってた」


「そうねぇ」


「終わったら全部楽になると思ってた」


「うん」


「でも、終わってみたら、別の大変さが始まった」


ミーコはのんびりうなずいた。


「馬生って、そういうものかもしれないわねぇ」


「もう少し優しい馬生がよかったな……」


マスオは少し笑った。


それから、また草を食べた。


静かだった。


少なくとも、この瞬間だけは。


取材もない。


予定もない。


人間に呼ばれてもいない。


ミーコが隣にいて、風が吹いていて、草がある。


それは、マスオがずっと欲しかったものに、少しだけ似ていた。


「……でもさ」


「なぁに?」


「ミーコがいるの、助かる」


ミーコは、少し首をかしげた。


「そう?」


「うん。いなかったら、たぶん今ごろ“牧場から逃げる計画”を立ててる」


「まぁ、それはそれで見てみたいわぁ」


「見なくていいよ。やらないから。たぶん」


「たぶんなのねぇ」


マスオは、ふっと力を抜いた。


「本当に、助かってるんだよ」


その声は、いつもより少しだけ素直だった。


ミーコは、やさしく目を細めた。


「わたしもよぉ」


「え?」


「マスオくんが来てから、ここも少しにぎやかになったもの」


「僕は静かに暮らしたかったんだけど……」


「でも、ひとりで静かすぎるのも、少し寂しいでしょう?」


マスオは何も言えなかった。


ミーコが厩舎からいなくなったときのことを思い出す。


隣の馬房が空っぽになった日。


「おかえり」と言ってくれる声がなくなった日。


静かなのに、落ち着かなかった日々。


たしかに、静かすぎるのも寂しかった。


そして今は、静かではない。


全然静かではない。


でも、ミーコがいる。


だから、何とか耐えられている。


「……まあ」


マスオは、小さくつぶやいた。


「ミーコがいるなら、もう少し耐えられるかも」


ミーコは、ふわっと笑った。


「それならよかったぁ」


そのとき、遠くから人間の声が聞こえた。


「マスオ様ー! 明日のスケジュールですが――!」


マスオは即座に顔をしかめた。


「ほら来た」


「人気者ねぇ」


「ほんと、ほどほどって知らないんだね……」


人間の声はまだ続いている。


「明日は午前中に見学対応、そのあと撮影、それから繁殖の予定が――」


マスオは耳を伏せた。


「聞こえない。僕には聞こえない」


「聞こえてる顔してるわよぉ」


「聞きたくないんだよ……」


ミーコはくすくす笑った。


マスオは大きくため息をついた。


でも、今度はため息だけでは終わらなかった。


少しだけ笑って、前を向いた。


「……まあ、いいか」


「いいのぉ?」


「よくはないよ。全然よくはない」


マスオは真顔で言った。


「今月だけで百頭近く相手してるし、取材も多いし、ファンレターも多いし、寝顔まで撮られるし、全然静かじゃないし」


「うんうん」


「でも……」


マスオは、隣のミーコを見た。


「ミーコがいるなら、まあ何とかなるかもしれない」


ミーコは、いつものようにのんびり笑った。


「うれしいわぁ」


夕焼けの中、二頭は並んで草を食べた。


かつて、走るのが嫌いな名馬だったマスオ。


そして、のんびり屋の牝馬だったミーコ。


ふたりは今、同じ牧場にいる。


レースはもうない。


けれど、完全な休みもない。


思っていたほど静かではない。


思っていたほど楽でもない。


むしろ、マスオの引退生活は、かなり忙しい。


それでも。


こうして夕方にミーコと並んで草を食べられるなら。


たまには、悪くないと思える日もある。


マスオは、小さくつぶやいた。


「ねえ、ミーコ」


「なぁに?」


「いつか、本当に何もしない日を作ろう」


「いいわねぇ」


「取材もなし。予定もなし。繁殖のお仕事もなし。ファンレターの写真もなし。ただ草を食べて、昼寝するだけの日」


「素敵ねぇ」


「絶対だよ?」


「ええ、絶対」


マスオは、少しだけ疑うようにミーコを見た。


「その絶対、守られるかな……」


「どうかしらねぇ」


「そこは守ってよ……」


ミーコは楽しそうに笑った。


マスオも、少しだけ笑った。


たぶん、その「絶対」は簡単には守られない。


明日もきっと予定はある。


人間は呼びに来る。


取材も来るかもしれない。


また忙しい一日になるかもしれない。


それでも。


ミーコが隣にいる。


帰る場所がある。


夕方には草を食べられる。


それだけで、マスオは今、少しだけ幸せだった。


――そう思っていた。


翌日の夕方。


マスオは、いつものように一日の予定を終えて、放牧地へ戻ってきた。


取材があった。


見学もあった。


繁殖のお仕事もあった。


牧場の人間たちは今日も忙しそうで、マスオもいつも通りぐったりしていた。


「……今日も疲れた」


そうつぶやきながら、マスオはミーコのいる場所へ歩いていく。


いつもの柵のそば。


いつもの草の匂い。


いつもの夕方。


そこに行けば、ミーコがのんびり草を食べているはずだった。


「ミーコ、今日もさ――」


そこまで言って、マスオは足を止めた。


ミーコがいなかった。


いつもなら、何も言わなくてもそこにいる。


ゆっくり草を食べて、マスオが来ると「おつかれさまぁ」と言ってくれる。


けれど、その日は違った。


ミーコの姿が、どこにもなかった。


「……ミーコ?」


マスオは、少しだけ耳を動かした。


返事はない。


風が草を揺らす音だけが聞こえる。


マスオは、牧場の奥を見た。


馬房の方も見た。


いつもミーコが入っている場所は、ぽっかり空いていた。


「え……?」


胸の奥が、少しだけ冷たくなった。


その感覚には覚えがあった。


厩舎で、ミーコが引退していなくなった日。


隣の馬房が空っぽになっていた日。


「おかえりなさい」と言ってくれる声がなくなった日。


あのときの静けさに、少し似ていた。


マスオは、小さくつぶやいた。


「ミーコ……どこ行ったの?」


もちろん、返事はない。


夕焼けは昨日と同じようにきれいだった。


風も、昨日と同じようにやわらかかった。


草も、昨日と同じように揺れていた。


けれど、ミーコがいないだけで、牧場は急に広くなったように感じた。


静かだった。


とても静かだった。


ずっと欲しかった静けさのはずだった。


誰にも追いかけられない。


誰にも急かされない。


誰にも話しかけられない。


それなのに、今の静けさは少し違った。


うれしい静けさではなかった。


寂しい静けさだった。


「……僕、静かなのが好きだったはずなんだけどな」


マスオは、空を見上げた。


夕焼けが、ゆっくり薄くなっていく。


ミーコがいない牧場は、思っていたよりずっと寂しかった。


遠くで、人間たちの声が聞こえる。


明日の予定の話をしているのかもしれない。


取材の話かもしれない。


繁殖のお仕事の話かもしれない。


けれど、マスオの耳にはあまり入ってこなかった。


マスオは、いつもの場所に立ったまま、もう一度だけ小さく呼んだ。


「ミーコ」


返事は、なかった。


風が、草を揺らす。


その音だけが、やけに大きく聞こえた。


マスオは、しばらく動けなかった。


昨日まで、そこにいるのが当たり前だと思っていた。


夕方になれば会えると思っていた。


愚痴を言えば、のんびり聞いてくれると思っていた。


「おつかれさまぁ」と笑ってくれると思っていた。


でも、その当たり前が少し消えただけで、マスオの引退生活は急に色を失ったように見えた。


「……何もしない日って」


マスオは、ぽつりとつぶやいた。


「ミーコがいない日じゃ、なかったんだけどな」


その声は、夕方の牧場に小さく消えていった。


マスオは、誰もいない柵のそばで、ひとり静かに立っていた。


走らなくていい未来は、思っていたよりずっと騒がしくて。


思っていたよりずっと忙しくて。


そして、ミーコがいないと、思っていたよりずっと寂しかった。

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