最終話 マスオの本当の引退
ミーコがいなくなってから、二日が過ぎた。
たった二日。
人間からすれば、たいした時間ではないのかもしれない。
けれど、マスオにとっては、とても長い二日だった。
いつもの柵のそばに行っても、ミーコはいない。
いつもの放牧地を見ても、ミーコはいない。
いつもの馬房の方を見ても、ミーコはいない。
「……ミーコ」
呼んでも、返事はなかった。
風が草を揺らすだけだった。
マスオは、静かな牧場の中で、ぽつんと立っていた。
ずっと静かな生活が欲しかった。
誰にも急かされない生活。
誰にも追いかけられない生活。
誰にも話しかけられず、ただ草を食べて昼寝する生活。
それが、マスオの願いだった。
けれど、ミーコがいない静けさは、マスオが思っていた静けさとは違った。
広すぎる。
冷たい。
何をしても、少し足りない。
草を食べても、あまり味がしない。
空を見ても、なんとなく落ち着かない。
人間たちが呼びに来ても、いつものように文句を言う気力すら出なかった。
「マスオ様、今日の予定ですが――」
マスオは、ぼんやり耳を動かした。
いつもなら、ここでため息をつく。
また予定か、と小さく文句を言う。
けれど、その日は違った。
「……ミーコ、どこにいるのかな」
そればかり考えていた。
牧場の人間たちは、マスオの様子を見て少し心配そうにしていた。
「元気がないな」
「食欲はあるけど、落ち着かないのか?」
「ミーコがいないからかな」
ミーコ。
その名前が聞こえた瞬間、マスオの耳がぴくりと動いた。
近くの人間が、やさしい声で言った。
「大丈夫だよ。ミーコは体調を見てもらってるだけだから」
体調。
見てもらっている。
マスオには、人間の言葉の全部が分かるわけではない。
けれど、ミーコがどこか遠くへ行ってしまったわけではないことだけは、なんとなく伝わった。
少しだけ、胸が軽くなる。
でも、ミーコの姿が見えない不安は、まだ消えなかった。
「……早く帰ってきてよ」
マスオは、誰にも聞こえないくらい小さくつぶやいた。
その日の夕方も、ミーコは戻らなかった。
マスオは、いつもの柵のそばでひとり立っていた。
昨日より、夕焼けが少し寂しく見えた。
風が吹く。
草が揺れる。
遠くで人間たちの声がする。
けれど、ミーコの声はしない。
『おつかれさまぁ』
『人気者ねぇ』
『無理しすぎちゃだめよぉ』
あののんびりした声が、何度も頭の中によみがえる。
マスオは、ようやく気づいた。
自分が欲しかったのは、ただ静かな場所ではなかったのかもしれない。
ただ草がある場所でもなかったのかもしれない。
ただ昼寝できる場所でもなかったのかもしれない。
そこに、ミーコがいてくれること。
自分の文句を、のんびり聞いてくれること。
「おつかれさまぁ」と笑ってくれること。
それが、マスオにとっては思っていた以上に大事だった。
「僕、静かなら何でもよかったわけじゃないんだな……」
マスオは、寂しそうに笑った。
そして、三日目の朝。
マスオがぼんやり草を食べていると、聞き慣れた声がした。
「マスオくん」
マスオは、はっと顔を上げた。
そこに、ミーコがいた。
いつものように、のんびりした目で。
少しだけ疲れているようにも見えたけれど、ちゃんとそこに立っていた。
「ミーコ!」
マスオは、思わず駆け寄った。
「どこに行ってたの? 二日もいなかったから……」
ミーコは、ゆっくり瞬きをした。
「ちょっと体調を確認してもらってたのよぉ」
「体調……?」
「ええ。このために、念入りに見てもらってたみたいねぇ」
「このため?」
マスオは首をかしげた。
ミーコは、少しだけ目をそらした。
いつものミーコなら、何でものんびり答える。
けれど、そのときのミーコは少しだけ違った。
ほんの少し、照れているように見えた。
「……あとで分かるわぁ」
「え、なにそれ。ちょっと怖いんだけど……」
ミーコは、ふふっと笑っただけだった。
マスオは気になった。
とても気になった。
けれど、ミーコが戻ってきた安心の方が大きかった。
ミーコがいる。
それだけで、牧場の景色が戻ってきた気がした。
草の匂いも、風のやわらかさも、空の広さも。
全部が、少しだけあたたかく感じた。
「ミーコがいないと、牧場って広すぎるね」
マスオがぽつりと言うと、ミーコは目を細めた。
「あらぁ」
「別に、深い意味じゃないけど」
「ふふ。分かってるわぁ」
「絶対分かってない……」
その日も、マスオには予定が入っていた。
もう五月の末だった。
種牡馬としての忙しい時期も、少しずつ落ち着いてきたらしい。
それでも、マスオの予定はまだ完全には空いていなかった。
「今日はこれが終われば、あとはゆっくりできるからな」
牧場の人間が、マスオの首を軽く撫でながら言った。
マスオは、言葉の全部は分からなかった。
けれど、今日もまた繁殖のお仕事があるらしいことは分かった。
マスオは、少しだけ耳を伏せた。
「また仕事か……」
今月は本当に大変だった。
多い日は一日に何頭も予定があった。
少ない日でも、取材や見学が入った。
気づけば、今月だけで百頭近く相手をしていた。
マスオは何度も思った。
引退とは、いったい何なのか。
けれど、五月も終わりに近づき、ようやく少しだけ予定が落ち着いてきた。
今日の仕事が終われば、少しはのんびりできる。
そう思って、マスオは人間に連れられて歩き出した。
(早く終わらせて、ミーコのところに戻ろう……)
そんなことを考えながら、いつもの場所へ向かう。
牧場の中を歩く。
風が吹く。
草の匂いがする。
遠くで鳥が鳴いている。
マスオは、少しだけ気を抜いていた。
どうせ今日も、いつものような仕事だ。
そう思っていた。
けれど。
連れていかれた場所に着いた瞬間、マスオはぴたりと足を止めた。
そこに、ミーコがいた。
「……え?」
マスオは、思わず声を漏らした。
ミーコは、いつものようにのんびりしている。
けれど、少しだけ恥ずかしそうに耳を動かしていた。
「ミーコ……?」
「来たのねぇ、マスオくん」
「え、なんでミーコがここにいるの?」
マスオの頭の中が、急に忙しくなる。
体調を確認してもらっていた。
このため。
あとで分かる。
さっきのミーコの言葉が、ようやくつながっていく。
マスオは、少しずつ顔が熱くなるのを感じた。
「もしかして……」
「そういうことみたいねぇ」
ミーコは、少しだけ目をそらした。
いつものように落ち着いている。
でも、やっぱり少しだけ照れていた。
マスオも、どうしていいか分からなくなった。
これまでの繁殖のお仕事は、正直かなり忙しかった。
予定が詰まっていて、人間たちは真剣で、マスオはいつも「また仕事か」と思っていた。
けれど、目の前にいるのがミーコだと、何かが違った。
ただの予定ではなかった。
ただの仕事とも、少し違った。
「えっと……」
マスオは、耳を少し伏せた。
「ミーコは……嫌じゃないの?」
ミーコは、ゆっくり瞬きをした。
それから、いつもの声より少しだけやわらかく言った。
「嫌じゃないわよぉ」
マスオは、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。
「そっか……」
「マスオくんは?」
「僕は……」
マスオは、少し黙った。
忙しいのは嫌いだ。
予定も嫌いだ。
人気種牡馬という言葉も、まだ苦手だ。
引退してまで働くなんて、今でも納得できていない。
けれど。
ミーコと一緒なら。
ミーコが相手なら。
それは、今までの仕事とは少し違う気がした。
「僕も……嫌じゃない」
そう言うと、ミーコは小さく笑った。
「あらぁ」
「別に、深い意味じゃ……」
「あるんじゃないかしらぁ」
マスオは、言葉に詰まった。
ミーコは楽しそうに笑った。
マスオは、照れたようにそっぽを向く。
「……ミーコ、そういうところあるよね」
「どういうところぉ?」
「分かってるのに、のんびりしてるところ」
「ふふ」
人間たちは、少し離れた場所で静かに準備をしている。
マスオは、空を見上げた。
青い空。
ゆっくり流れる雲。
やわらかい草。
そして、目の前にミーコ。
ずっと欲しかったものが、そこにある気がした。
完全に静かな生活ではない。
完全に自由な生活でもない。
予定はある。
仕事もある。
人間たちは相変わらず忙しい。
マスコミも来る。
ファンレターも届く。
何もしない日は、まだまだ遠い。
けれど、ミーコがいる。
戻ってきてくれた。
そして今、自分の前に立っている。
マスオは、不思議な気持ちだった。
これが、自分が望んでいたものなのだろうか。
ずっと夢見ていた引退生活とは、少し違う。
いや、かなり違う。
もっと静かで、もっと何もなくて、もっと気楽なものを想像していた。
けれど、今のこの瞬間。
ミーコが少し照れたように笑っていて、風が草を揺らしている。
それだけで、胸の奥が静かに満たされていく。
「……もしかして」
マスオは、小さくつぶやいた。
「僕が欲しかったのって、こういうことだったのかな」
ミーコが首をかしげる。
「こういうこと?」
「うん」
マスオは、少しだけ笑った。
「ただ何もしないことじゃなくて」
「うん」
「帰ってきたい場所があって」
「うん」
「待っててくれる相手がいて」
「うんうん」
「一緒に草を食べられて、たまに文句も言えて……」
ミーコは、やさしく目を細めた。
「それは、いい引退生活ねぇ」
マスオは、静かにうなずいた。
「うん」
それは、初めて自然に出たうなずきだった。
やっと。
本当にやっと。
マスオは、自分が引退したのだと実感した。
もう、誰かに勝たなくていい。
もう、追いかけられて逃げなくていい。
もう、世界最強でいなくてもいい。
たしかに、まだ忙しい。
種牡馬としての仕事もある。
人気者として見られることもある。
人間たちはこれからも、マスオのことで騒ぐだろう。
それでも。
ここにはミーコがいる。
それだけで、マスオの世界はずいぶん違って見えた。
その日の夕方。
仕事を終えたマスオは、いつもの柵のそばに戻ってきた。
少し疲れていた。
でも、不思議と嫌な疲れではなかった。
ミーコが、先にそこにいた。
夕焼けの中で、のんびり草を食べている。
マスオが近づくと、ミーコは顔を上げた。
「おつかれさま、マスオくん」
その声を聞いた瞬間、マスオの胸がやわらかくほどけた。
ずっと聞きたかった声だった。
厩舎にいたころから。
ミーコがいなくなった日から。
牧場でひとり寂しくなった日から。
ずっと、待っていた声だった。
「……ただいま」
マスオは、小さく言った。
「疲れた?」
ミーコがたずねる。
マスオは、少し考えた。
「疲れたよ」
「そうなのぉ」
「でも……今日は、嫌じゃなかった」
ミーコは、にこっと笑った。
「よかったわぁ」
二頭は並んで草を食べた。
風が吹く。
草が揺れる。
空は茜色に染まっている。
遠くでは、牧場の人間たちが明日の予定を話している。
たぶん明日も忙しい。
取材が来るかもしれない。
ファンレターも届くかもしれない。
繁殖のお仕事もあるかもしれない。
何もしない日は、まだ簡単には来ないだろう。
でも、マスオはもう、前ほど嫌ではなかった。
それに。
マスオは、ちらりとミーコを見た。
夕焼けの中で、ミーコはいつものようにのんびり草を食べている。
いつものミーコ。
ずっと変わらないミーコ。
そのはずなのに、今日はなぜか、前より少しだけ可愛らしく見えた。
マスオは、慌てて目をそらした。
(……何考えてるんだろう、僕)
「どうしたのぉ?」
ミーコが首をかしげる。
「な、なんでもない」
「そう?」
「うん。なんでもない」
マスオは、少しだけ耳を伏せた。
ミーコは不思議そうにしていたけれど、それ以上は聞かなかった。
ただ、いつものように隣で草を食べている。
その距離が、なんだか少し照れくさかった。
「ねえ、ミーコ」
「なぁに?」
「僕、思ってた引退生活とは全然違う場所に来ちゃった気がする」
「そうねぇ」
「静かでもないし、暇でもないし、仕事もあるし、まだ人間たちは騒がしいし」
「うんうん」
「でも……」
マスオは、ミーコを見た。
「ミーコとずっといられるなら、これはこれで、幸せなのかもしれない」
ミーコは、ゆっくり瞬きをした。
「あらぁ」
マスオは、少し照れたように目をそらした。
「別に、今のは深い意味じゃ……」
「あるわねぇ」
「……あるかも」
マスオは、小さく笑った。
ミーコも笑った。
夕焼けが、二頭の背中をやわらかく照らしている。
かつて、マスオは走るのが嫌いな名馬だった。
勝てば勝つほど、引退から遠ざかる馬だった。
牧場に帰りたくて、草を食べたくて、昼寝をしたくて、ただ静かな毎日を望んでいた。
けれど、ようやくたどり着いた引退生活は、思っていたよりずっと騒がしかった。
思っていたよりずっと忙しかった。
思っていたよりずっと、予定だらけだった。
それでも。
隣にミーコがいる。
「おつかれさま」と言ってくれる。
一緒に草を食べてくれる。
それだけで、マスオは初めて、心から思えた。
ここが、自分の帰ってきた場所なのだと。
遠くから、人間の声が聞こえた。
「マスオ様ー! 明日の予定ですが――!」
マスオは、いつものように顔をしかめた。
「また予定……」
ミーコが、のんびり言った。
「人気者は大変ねぇ」
「人気はいらないって、ずっと言ってるのに……」
そう言いながらも、マスオの声は少しだけ穏やかだった。
ミーコが隣で草を食べている。
夕焼けがきれいだった。
風がやさしかった。
マスオは、もうひと口だけ草を食べて、小さくつぶやいた。
「まあ……明日も、何とかなるかな」
ミーコが、やさしく笑った。
「なるわよぉ」
マスオは、空を見上げた。
もう走らなくていい。
もう勝たなくていい。
もう逃げなくていい。
それだけではない。
ここには、ミーコがいる。
それが何よりも、マスオにとっての引退だった。
風が草を揺らす。
二頭は並んで、ゆっくり夕暮れの牧場に立っていた。
マスオの引退計画は、長い長い遠回りの末に、ようやく成功した。
思っていた形とは、少し違ったけれど。
それでもマスオは、今ならこう思える。
これも、悪くない。
いや。
もしかすると――これが、いちばんよかったのかもしれない。




