マスオの引退
引退から、わずか一ヶ月後。
マスオは、青空の下で――立ち尽くしていた。
「……ねえ」
誰にともなく、ぽつり。
「聞いてないんだけど」
目の前には、見知らぬ施設。
やけに広くて、やけに立派で、そしてやけに――忙しそう。
人間たちが行き交い、書類を持って走り、やたらと期待に満ちた目でこちらを見てくる。
「こちらがマスオ様です!」 「今年の目玉種牡馬ですよ!」 「予約はもういっぱいで――」
(予約ってなに!?)
マスオの思考が、静かにフリーズする。
「ねえ……誰か……説明して……」
そのとき、聞き慣れた声。
「マスオくん?」
振り向くと、そこには――ミーコ。
以前よりもどこか落ち着いた雰囲気で、相変わらずのんびりとした目をしている。
「ミーコ!!」
思わず駆け寄る。
「助けて!なんかすごく忙しいんだけど!?」
「ふふ、そういう時期なのよぉ」
「“そういう時期”って何!?」
ミーコは少しだけ考えてから、やさしく言った。
「お仕事よぉ」
「引退したのに!?」
「種類が変わっただけねぇ」
「聞いてない!!」
マスオはその場でぐるぐる回りそうになった。
「私、草食べて昼寝する予定だったのよ!?スローライフって聞いてたのよ!?」
「うんうん、合間にできるわよぉ」
「合間ってなに!!」
遠くから人間の声。
「次の予定入ります!」 「時間押してます!」
(時間ってなにぃぃぃ!!)
マスオは空を仰いだ。
(神様……話が違う……)
ミーコがくすっと笑う。
「人気者は大変ねぇ」
「人気いらないってずっと言ってるのに……」
「でもマスオくん」
「なに……」
「ちゃんと評価されてるってことよぉ」
その言葉に、マスオは少しだけ黙る。
「……まあ、それは」
ほんの少しだけ、誇らしさが混じる。
「……でも忙しいのはイヤ」
「そこは変わらないのねぇ」
その日から、マスオの“第二の人生”が始まった。
走らない代わりに、休めない。
「本日も満枠です!」 「すごい人気だ!」
(だからいらないって言ってるでしょぉぉぉ!!)
だが、不思議なことに。
走っていた頃ほどの“しんどさ”はなかった。
誰にも指示されて走ることはない。
競争もない。
勝たなければいけないプレッシャーもない。
ただ――忙しいだけ。
ある日の夕方。
少しだけ空いた時間に、マスオはのんびり草を食べていた。
ミーコが隣に来る。
「どう?」
「……忙しい」
「ふふ」
「でも」
マスオは少しだけ空を見て、ぽつり。
「前よりは、マシかも」
ミーコがやさしくうなずく。
「よかったぁ」
風がゆっくりと吹く。
遠くで人間たちがまた呼んでいる。
「マスオ様ー!」
マスオはため息をつきながらも、ゆっくり歩き出した。
「……ほんと、休ませてくれないわね」
でもその顔は、ほんの少しだけ穏やかだった。
伝説は終わった。
けれど――
マスオの“忙しい平和”は、まだまだ続きそうだった。




