マスオ6歳伝説のラストラン
マスオ、6歳――。
それは競走馬として「そろそろ先が見えてくる年齢」であり、人間たちにとっては「まだいけるかもしれないが、区切りを考え始める頃」だった。
そしてマスオにとっては――
「やっと……やっとよ……!」
長かった。とにかく長かった。
無敗でダービーを勝ち、世界を転戦し、気づけば“伝説”と呼ばれる存在になっていた。望んでいないのに。
厩舎の隅で、マスオはしみじみと呟く。
「6歳よ……もう十分でしょ……?ねえ?」
誰に向けてかもわからない問いかけ。
だが今回は、様子が違った。
「陣営も引退を視野に入れているようです」 「ラストランはどこになるのか注目ですね」
――“引退”という言葉が、ついに現実味を帯びてきたのだ。
その夜。
マスオは久しぶりに、少しだけ浮き足立っていた。
(ついに……終わる……)
頭の中に広がるのは、夢にまで見たスローライフ。草。昼寝。
誰も乗ってこない背中。
指示のない自由。
「ふふ……ふふふ……」
思わず笑みがこぼれる。
そこへ、隣の新入りの若馬が話しかけてきた。
「すごいっすねマスオさん!次も勝つんですよね!?」
ぴたり。
笑顔が止まる。
「……え?」
「だってラストランでしょ?有終の美ってやつっすよ!伝説の締めくくり!」
マスオはゆっくりと顔を向ける。
「……それ、誰が決めたの?」
「え?いや、みんなそう言ってますけど……」
(みんなって誰よぉぉぉ!!)
胸の中で叫ぶ。
だが同時に、嫌な予感が確信へと変わっていく。
翌日。
人間たちの会話。
「ラストランは絶対勝たせたい」 「完璧な形で送り出そう」 「伝説にふさわしい締めくくりだ!」
(やっぱりぃぃぃぃ!!)
マスオは頭を抱えた(正確には前脚で地面をかいた)。
「最後まで働かせる気ね……!」
しかし、どこかでわかってもいた。
ここまで来てしまったのだ。
“伝説”という肩書きを背負わされてしまった以上、最後だけ崩すなんて許されない空気。
(……でも)
マスオは静かに目を閉じる。
(最後くらいは、自分で決めたい)
ラストレース当日。
空気はいつも以上に張り詰めていた。
観客の期待。
騎手の覚悟。
世界の注目。
ゲートの中で、マスオは深く息を吸う。
(これで終わり)
その事実が、胸にじんわりと広がる。
(長かったわね……ほんとに)
ミーコの声が、ふとよぎる。
『無理しすぎちゃだめよぉ』
少しだけ、笑う。
「今日は……無理しないわ」
ゲートが開く。
マスオは走り出す。
いつものように完璧なスタート。
いつものように流れるような加速。
だが――どこか違った。
(急がなくていい)
風を感じる。
芝の感触を確かめる。
誰にも急かされずに、ただ走る。
騎手が戸惑う。
「……マスオ?」
(大丈夫、大丈夫よ)
そして最後の直線。
観客が叫ぶ。
「行けマスオ!!」
(どうする?)
勝てば完璧な伝説。
負ければ――自分の選択。
一瞬の静寂。
そして。
マスオは、ほんの少しだけ――脚を緩めた。
後ろから一頭が差してくる。
歓声がどよめきに変わる。
ゴール。
――2着。
場内がざわつく。
「まさか……」 「マスオが……負けた……?」
騎手は驚いた顔でマスオの首を撫でる。
「どうしたんだ……?」
マスオは、静かに息を吐いた。
(これでいい)
悔しさは――なかった。
ただ、すっきりしていた。
レース後。
様々な声が飛び交う。
「衰えか?」 「それでも立派な走りだった」 「伝説は終わったのか……」
マスオは空を見上げる。
(終わったのよ)
そのとき。
遠くから聞き慣れた声がした気がした。
『おつかれさま、マスオくん』
ふっと笑う。
「……やっと、引退ね」
その背中は、これまでで一番軽かった。
もう、誰も乗っていないかのように。
そしてマスオは――
ようやく、“走らない未来”へと歩き出した。




