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ミーコの引退

春のある日、厩舎の空気が少しだけ静かになった。

「マスオくん、わたしねぇ――引退することになったのぉ」

干し草をはむはむしながら、ミーコはいつもと同じ調子で言った。けれどその一言は、マスオの胸にやけに重く落ちた。

「……え?」

「これからは繁殖のお仕事ですってぇ。ゆっくりできそうで楽しみだわぁ」

「ゆっくり……」

その言葉に、マスオの耳がぴくりと動く。

「いいわね、それ……」

「マスオくんも、そのうちよぉ」

「“そのうち”が来ないのよ!!」

珍しく声を荒げたマスオに、ミーコはくすっと笑った。

「ふふ、相変わらずねぇ」

その数日後、ミーコはトラックに乗って新しい場所へと旅立った。最後に振り返りながら、

「無理しすぎちゃだめよぉ」

と、やさしく言い残して。


マスオはしばらく、ぽかんとその後ろ姿を見送っていた。

(……行っちゃった)

それからというもの、隣の馬房は妙に広く、やけに静かだった。

話し相手もいない。愚痴の受け皿もいない。

ただ、干し草の音だけがやけに響く。

そして――レースは続く。

「世界最強マスオ、ここも勝つのか!?」

(もうやめてって言ってるでしょぉぉぉ!!)

勝つ。

「またしても圧巻の走り!!」

(だからやめたいのよぉぉぉ!!)

勝つ。

「前人未到の連勝記録更新!」

(なんで止まらないのよぉぉぉ!!)

勝つ。

気づけば、誰もが彼を“当然の勝者”として見るようになっていた。

誰もが期待する。

誰もが信じている。

そして誰もが――彼が“走りたくない”なんて、これっぽっちも思っていない。


ある夜、マスオはひとり、静かな馬房でつぶやいた。

「……ねえミーコ」

もちろん返事はない。

「私ね、まだ走ってるの」

少し間を置いて、苦笑する。

「しかも、勝ち続けてるのよ。意味わからないでしょ」

遠くから人間たちの声が聞こえる。

「次も勝てるぞ!」 「伝説更新だ!」

マスオはゆっくりと目を閉じた。

(……ねえ、ミーコ)

あののんびりした声を思い出す。

『無理しすぎちゃだめよぉ』

「無理してないわよ……」

小さくつぶやいて、すぐに訂正した。

「……無理してるわ」

翌日のレース。

スタート前、マスオはふと考える。

(今日は……どうしよう)

勝てばまた続く。

負ければ……終われるかもしれない。

(負ける……)

その言葉を、初めてちゃんと“選択肢”として考えた。

ゲートが開く。

マスオは――ほんの少しだけ、ためらった。

その一瞬。

後ろから迫る気配。

歓声。

風。

(……ああ)

胸の奥で、何かが静かに決まる。

(やっぱり)

ぐっと地面を蹴る。

(中途半端なのが、一番イヤなのよね)

――加速。

結果。

「勝ったぁぁぁ!!またしてもマスオ!!」

観客は熱狂。世界は歓喜。

マスオは、少しだけ苦笑していた。

「……ほんと、損な性格」

レース後の静かな時間。

空を見上げながら、ぽつり。


「ミーコ、そっちはどう?」


想像の中で、あの声が返ってくる。

『のんびりよぉ』

「いいわねぇ……」

しばらく沈黙してから、マスオは小さく息を吐いた。

「じゃあさ」

少しだけ、前を向くように。

「もうちょっとだけ、やるわ」

遠くで歓声がまた上がる。


伝説は、まだ終わらない。

――本人の意思とは、だいぶ違う方向で。

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