マスオの海外遠征
海外遠征――それはマスオにとって、「のんびり引退計画」を粉々に砕く、最悪のイベントだった。
「ねえミーコ……海外って何するの?」
「走るのよぉ」
「知ってる。それ以外で」
「うーん……時差ぼけとか?」
「最悪じゃない」
長い輸送の末、マスオは見知らぬ地に降り立った。空気は乾いていて、言葉はわからず、周囲の馬たちはどこか自信満々。
そしてすぐに、嫌な予感は的中する。
「おい見ろよ、日本から来たっていう無敗馬」 「ふーん、軽いレースばっかりで勝ってきたんだろ?」 「ダービー?こっちじゃ通用しないね」
ぴくり。
マスオの耳が、ぴたりと止まる。
(……今、なんて?)
「どうせスピードだけだろ」 「本物の競馬を教えてやるよ」
ぶちっ。
マスオの中で、なにかが静かに切れた。
(あのね……)
彼はゆっくりと前を見据える。
(私、別に走りたくて走ってるわけじゃないの)
ゲートに収まる。
観客のざわめき。
異国のファンファーレ。
(でもね)
スタート。
(バカにされるのは、もっと嫌なのよぉぉぉ!!)
――爆発。
それはもはや競走ではなかった。
「なんだあの日本馬!?」 「信じられない加速だ!」
直線、他馬を置き去りにするどころか、視界から消し飛ばす勢い。
騎手はただ必死にしがみつくだけ。
(ああもうやだやだやだやだ!!)
結果――圧勝。
しかもレコードタイムのおまけ付き。
場内は騒然。
「これは本物だ……!」 「日本の怪物だ!」
マスオはゴール後、完全に燃え尽きていた。
「……またやっちゃった」
その後も、似たようなことが続いた。
「日本馬なんて〜」
→勝つ
「遠征疲れだろ〜」
→勝つ
「ここはホームだぞ〜」
→勝つ
気づけば連戦連勝。
評価はうなぎのぼり。
そしてある日、ついに決定的な一言が聞こえてくる。
「これは歴史に残る馬だ!引退なんてさせられない!」 「凱旋門?いやそれだけじゃない、世界を制覇だ!」
(終わった……)
マスオは遠い目をした。
夜、厩舎で。
「ミーコ……私、どうしてこうなったの……」
「頑張りすぎちゃったのねぇ」
「頑張りたくて頑張ってるんじゃないのよ……」
「でもマスオくん、かっこいいわよぉ」
「それが一番いらないのよぉ……」
マスオはごろんと横になり、天井を見つめる。
(最初は、ただ引退したかっただけなのに……)
ふと、遠征先で聞いた言葉がよぎる。
「世界最強」
「伝説」
「歴史」
マスオはしばらく考えて――ぽつり。
「……ねえミーコ」
「なぁに?」
「“伝説になりきったら”、さすがに引退させてくれると思う?」
ミーコは少し考えて、にこっとした。
「きっと、もっと走らされるわねぇ」
「でしょうね!!」
マスオは勢いよく起き上がった。
「こうなったら……最終手段よ」
「まぁ、なにをするの?」
マスオは真剣な顔で言った。
「“かわいくない馬”になる」
「えぇ?」
「人気がなければ、きっと早く引退できる!」
「なるほどぉ」
翌日。
インタビュー中、マスオは全力で“ふてくされた顔”をした。
カメラに背を向け、愛想ゼロ。
だが――
「なんだあの態度!クールでいいぞ!」 「ミステリアス!たまらない!」
(なんでよぉぉぉ!!)
さらに人気が爆発した。
グッズ化。
写真集。
ぬいぐるみ(なぜかちょっと不機嫌顔バージョンが大ヒット)。
その夜。
マスオは静かにうずくまっていた。
「……もう無理」
ミーコが優しく言う。
「マスオくん」
「なに……」
「もしかして、“嫌いなことなのに極めちゃう”って、いちばん大変なのかもしれないわねぇ」
マスオはしばらく黙って――小さく笑った。
「ほんと、それ」
遠くで人間たちの声が響く。
「次はどこだ!?アメリカか!?ドバイか!?」
マスオは目を閉じる。
(ねえ神様……)
少しだけ、ため息混じりに。
(せめて老後は……静かに草を食べさせて……)
だがその願いも、まだしばらくは叶いそうになかった。




