第2話 おかえり、マスオくん
無敗で日本ダービーを勝ってしまったマスオは、しばらく放牧に出されることになった。
放牧。
その言葉を聞いた瞬間、マスオの耳はぴくりと動いた。
「放牧……?」
厩舎の人間たちは、にこにこしながら話している。
「ダービーを勝ったからな。少し休ませてやろう」
「疲れを取って、秋に備えないとな」
「次は菊花賞だ。ここを勝てば三冠馬だぞ」
菊花賞。
三冠馬。
秋に備える。
人間たちの口から、またしても少し怖い言葉が飛び出していた。
けれど、マスオの耳には、その前の言葉だけが残っていた。
少し休ませてやろう。
放牧。
つまり、牧場に行ける。
広い場所で草を食べられる。
背中に誰も乗らない。
ゲートにも入らない。
全力で走らなくてもいい。
マスオは、不安そうに目をぱちぱちさせた。
(これって……ちょっとだけ引退みたいなこと?)
もちろん、本当の引退ではない。
それはマスオにも分かっていた。
でも、今のマスオにとっては、ほんの少しでもレースから離れられるだけで十分だった。
数日後。
マスオは牧場にいた。
朝の空気は、やわらかかった。
草の匂いがする。
風がゆっくり吹いている。
遠くでは、鳥の声が聞こえる。
誰も叫んでいない。
観客もいない。
実況もない。
背中に騎手も乗っていない。
マスオは、牧場の真ん中でぼんやり立ち尽くした。
そして、ゆっくりと草を食べた。
「……これだよ」
ぽつりと、マスオはつぶやいた。
「これなんだよ。僕が欲しかったのは……」
草は、特別なごちそうではなかった。
けれど、急かされずに食べられる草は、どんなごほうびよりもおいしかった。
食べたくなったら食べる。
眠くなったら眠る。
歩きたくなったら、少し歩く。
走らなくても誰も怒らない。
立ち止まって空を見ていても、誰も「行け」と言わない。
マスオは、久しぶりに小さかった頃のことを思い出した。
まだレースのことを何も知らなかった頃。
ただ牧場にいて、毎日をゆっくり過ごしていた頃。
あの頃のマスオは、勝たなければならないなんて思っていなかった。
期待されることもなかった。
名前を呼ばれて、大勢の前に連れていかれることもなかった。
ただ、草を食べていた。
ただ、昼寝をしていた。
ただ、それだけで一日が終わっていた。
マスオにとって、それはとても幸せなことだった。
(僕、やっぱりこういう生活がいいな……)
マスオは、牧場の柵のそばで丸くなった。
あたたかい日差しが背中に当たる。
まぶたが少しずつ重くなる。
遠くで風が草を揺らしている。
マスオは、静かに目を閉じた。
(もうずっと、ここにいたいな……)
そう思った。
心の底から、そう思った。
けれど、幸せな時間は長く続かなかった。
ある朝。
牧場に、人間たちがやってきた。
マスオは、嫌な予感がして耳を伏せた。
「マスオ、いい顔になったな」
「疲れも取れてる」
「そろそろ厩舎に戻そう」
その言葉を聞いた瞬間、マスオの口から草がぽろりと落ちた。
(えっ……もう?)
戻す?。
厩舎に。
つまり、また調教。
またレース。
また「次も勝て」。
マスオは、そろそろと後ろへ下がった。
(いや……僕、ここで大丈夫なんだけど……)
しかし、人間たちは当然のように準備を進めていく。
「秋は菊花賞だ」
「ここを勝てば三冠馬だぞ」
「マスオならいける」
三冠馬。
その言葉に、マスオは小さく震えた。
三冠馬。
人間たちにとっては、きっと最高にすごい言葉なのだろう。
けれど、マスオにとっては少し違った。
三冠馬になったら、もっと期待される。
もっと大きな声で名前を呼ばれる。
もっとすごい馬だと言われる。
もっと走らされる。
マスオは、そんな未来を想像して、胸がきゅっと苦しくなった。
(僕、そんな馬じゃないと思うんだけどな……)
それでも、マスオは厩舎に戻された。
久しぶりの厩舎は、どこか懐かしい匂いがした。
干し草の匂い。
土の匂い。
馬たちの気配。
でも、牧場のような静けさはない。
人間たちの足音がする。
どこかで馬具の音がする。
もうすぐまた調教が始まるのだと考えると、マスオの足取りは自然と重くなった。
(戻ってきちゃった……)
そう思った、そのときだった。
隣の馬房から、のんびりした声が聞こえた。
「おかえりなさい、マスオくん」
マスオは、はっと顔を上げた。
そこにはミーコがいた。
いつも通り、干し草をもぐもぐ食べながら、穏やかな目でマスオを見ている。
「ミーコ……」
「放牧、楽しかったぁ?」
マスオは少し黙った。
楽しかった。
とても楽しかった。
草はゆっくり食べられた。
昼寝もできた。
誰にも急かされなかった。
誰にも追いかけられなかった。
あそこには、マスオが欲しかった生活が全部あった。
でも、今ここにはミーコがいる。
それも、少しだけうれしかった。
マスオは小さく息を吐いた。
「……うん。楽しかった」
「よかったわねぇ」
「でも、戻ってきちゃった」
「戻ってきたわねぇ」
ミーコは、いつもの調子でうなずいた。
マスオは隣の馬房に入ると、しょんぼりと耳を下げた。
「僕、あそこがよかったんだ」
「牧場?」
「うん。静かで、草があって、誰も急かさなくて……。これなんだよ、って思ったんだ。僕が欲しかった生活は、あれなんだよ」
「そうなのねぇ」
「だから、戻ってきたくなかった」
マスオは少しだけ目を伏せた。
それから、小さな声で付け足した。
「でも……ミーコに会えたのは、ちょっとうれしい」
ミーコは、ゆっくり瞬きをした。
「あらぁ。うれしいこと言ってくれるのねぇ」
「ちょっとだけだよ」
「ちょっとでも、うれしいわぁ」
ミーコは、また干し草をもぐもぐ食べた。
マスオはその姿を見て、少しだけ安心した。
放牧先の牧場は、とてもよかった。
でも、厩舎にはミーコがいる。
そこだけは、嫌いになりきれなかった。
「ミーコは、放牧に行かないの?」
マスオがたずねると、ミーコは首をかしげた。
「私は夏が忙しいのよぉ」
「夏が?」
「そうよぉ。強い馬たちは夏にお休みするでしょう? 一流馬は放牧に出たり、秋の大きなレースに備えたりするものねぇ」
「うん」
「だから夏のレースは、私たちにはちょっと勝ちやすいのよぉ」
ミーコは、のんびりした声で言った。
「私みたいな馬にとっては、夏場が稼ぎ時なの」
「稼ぎ時……」
マスオは不思議そうにミーコを見た。
ミーコは走るのがあまり速くない。
でも、弱いわけではない。
自分の走れる場所を知っている馬だった。
一流馬がいない時期。
大きすぎないレース。
少しだけ相手が手薄になる季節。
そこで、こつこつ頑張る。
それがミーコの戦い方だった。
「だから私は、ずっと厩舎にいたのよぉ」
「そっか……」
「でも、マスオくんが帰ってきてくれてよかったわぁ」
「え?」
「隣が空いてると、ちょっと静かすぎるもの」
そう言われて、マスオは少しだけ照れた。
「僕は……また牧場に戻りたいけど」
「うんうん」
「でも、ミーコがいるなら、少しは大丈夫かもしれない」
「そうねぇ。少しずつ頑張りましょうねぇ」
「頑張りたくはないんだけど……」
「じゃあ、少しずつ逃げましょうねぇ」
「それも違う気がする……」
マスオは小さくため息をついた。
牧場に戻りたい。
昔みたいに、ただ草を食べて、眠くなったら寝て、誰にも追いかけられない毎日に戻りたい。
その気持ちは変わらない。
けれど、隣から聞こえるミーコののんびりした咀嚼音を聞いていると、少しだけ胸の重さが軽くなった。
戻ってきたくなかった。
でも、帰ってきた場所に「おかえり」と言ってくれる相手がいる。
それは、それで悪くないのかもしれない。
ほんの少しだけ。
本当に、ほんの少しだけ。
しかし、そんな気持ちも翌朝には少し揺らいだ。
まだ空が暗いうちから、厩舎は動き始めた。
人間たちの足音。
馬房の扉が開く音。
馬具を用意する音。
そして、聞き慣れた声。
「マスオ、調教行くぞ」
マスオは、ゆっくり目を開けた。
まだ眠い。
とても眠い。
牧場なら、もう少し寝ていられた時間だ。
朝の草をゆっくり食べて、風に当たりながら、ぼんやり空を眺めていられた時間だ。
けれど、ここは厩舎だった。
マスオは、深くため息をついた。
「……僕、調教って苦手なんだよね」
隣の馬房で、ミーコがのんびり耳を動かす。
「そうなのぉ?」
「うん。朝は早いし、きついし、走らなきゃいけないし……」
「競走馬だものねぇ」
「それはそうなんだけど……」
マスオは、しょんぼりと首を下げた。
「やっぱり、牧場の方がよかったな」
牧場の朝を思い出す。
やわらかい日差し。
ゆっくり吹く風。
好きなときに草を食べて、好きなときに眠れる時間。
誰も急かさない。
誰も追いかけてこない。
誰も「行け」と言わない。
マスオは小さくつぶやいた。
「僕、やっぱり牧場生活が好きだ」
その言葉は、朝の厩舎に小さく溶けていった。
外では、調教へ向かう準備が進んでいる。
人間たちは期待に満ちた声で話していた。
「秋は菊花賞だ」
「三冠がかかってるぞ」
「マスオなら大丈夫だ」
マスオは耳を伏せた。
大丈夫。
人間たちは、いつもそう言う。
でもマスオは、全然大丈夫ではなかった。
「ねえ、ミーコ」
「なぁに?」
「調教って、休んだらだめかな」
「だめなんじゃないかしらぁ」
「だよね……」
マスオは、もう一度ため息をついた。
そして、馬房の外に見える空を見上げた。
牧場の空と、同じ空のはずなのに。
ここから見る空は、少しだけ遠く感じた。
「……早く、また牧場に帰りたいな」
こうしてマスオの、菊花賞へ向けた調教の日々が始まった。
もちろん本人は、まったく望んでいなかった。




