第6話 いってきます
カールドルハの街に、淡い朝の光が差し込んでいた。
鳥の囀りが、静けさに包まれた街の中に響いている。
夜の冷たさがまだ少しだけ残る空気の中、魔導具店の奥から、かすかな物音が聞こえてきた。
ミカはゆっくりと目を開ける。
「……ん……」
ぼんやりとした視界の中で、天井を見つめた。
しばらく何も考えられなかった。
昨日は、いろいろなことがあった。
新しい杖を作ってもらったこと。
ラックが王都へ向かう仕事を任されたこと。
そして、自分も一緒に旅へ出ることになったこと。
眠る前までは、そのことを何度も考えていたはずなのに、目を覚ましたばかりの頭では、まだ夢の中にいるような感覚が残っていた。
ミカは小さく欠伸をすると、ベッドから降りる。
髪を整えることもなく、そのまま部屋を出た。
階段をゆっくりと降りていくと、ちょうど反対側から誰かが降りてくるところだった。
「……あ」
「……ん?」
眠たそうな顔で目をこするラックだった。
二人は階段の途中で立ち止まり、顔を見合わせる。しばらく無言のまま見つめ合っていたが、先にミカの口元が緩んだ。
「……ラック……髪」
「は?」
ラックは自分の頭に手をやる。
そこで初めて、自分の髪が盛大に跳ねていることに気づいた。ミカが何やらニヤけた顔でラックの頭を見つめている。
「ぷふっ……よく人のこと言えたな」
ラックは、ミカの芸術的に爆発した髪の毛を見て思わず笑う。
「……そ、そうですか?」
ミカは自分の髪に触れてみる。
すると、縦にファサっと伸びている感触があった。
手で強く押さえつけてから離してみるが、髪は勢いよく逆立ち、元の爆発頭に戻ってしまう。
その様子を見て、ラックが吹き出した。
「ははっ。ひでぇ寝癖」
ミカは、恥ずかしそうに頭を押さえながらラックの髪を見て言い返す。
「……ラックもすごいですよ? 天井まで届きそうです」
「嘘つけ。そんなわけないだろ……」
ミカの明らかに嘘と分かる言葉に、ラックは鼻で笑いながら自分の頭を触る。
そっと手に触れたラックの寝癖もまた、ミカに負けず劣らず芸術的に爆発していた。
「前言撤回。いい勝負だな……」
「……ふふっ……ですね」
ラックが肩をすくめると、ミカも納得したように笑った。
昨日までと変わらない、いつものようなやり取り。けれど今日は、いつもとは少しだけ違っていた。
今日、二人は、この街を出る。
そのことを思い出すと、ミカの胸の奥がほんの少しだけ落ち着かなくなった。
「……さ、先に顔、洗いに行きますか……」
「だな」
二人は連れ立って店の外へ出た。
店の裏には小さな井戸があり、特殊な魔導具を使ってその冷たい水を店全体に行き渡らせている。
地下深くから汲み上げられた水は、朝日を反射してキラキラと輝いていた。
ラックは桶に冷たい水をたっぷり汲むと、一気に顔をつけた。地下水の冷たさに、一瞬で目が冴え渡る。
「ほら、お前も」
ラックが桶をミカへ差し出す。
「あ、ありがとうございます」
ミカは両手で水をすくうと、そのまま顔へかけた。
「……っ」
身が引き締まるような冷たさに、思わず肩が跳ね、眠気が一気に吹き飛んでいく。
隣ではラックも勢いよく顔を洗っていた。
「冷てぇ……!」
「で、でも……気持ちいいですね!」
ミカの長く白い睫毛からキラキラと水滴が落ち、真っ白な髪が朝日を反射するように輝いている。
ラックはその様子をチラッと見ると、少し笑って再び冷たい水で顔を洗った。
こうしていると、今日が特別な日だということを忘れてしまいそうになる。
けれど、店へ戻れば旅の荷物があり、作ってもらった杖もある。
二人は本当に今日、旅へ出るのだ。
ミカは濡れた手を拭きながら、ちらりと空を見上げた。雲の隙間から差し込む朝日が、街を少しずつ明るく染めていく。
通りの方からは、朝の市場の活気づく声と、大通りを走る馬車の車輪の音がカラカラと心地よく響いていた。
「……今日ですね」
噛みしめるように呟くミカの言葉に、ラックも頷く。
「ああ……そうだな」
ラックは空を見上げ、拳を力強く握りしめた。
二人はそれ以上何も言わず、店へ戻った。
店の中へ入ると、すでに親方が起きていた。
朝の作業を始めているらしく、作業台の上にはいくつかの道具が並べられている。
「おう。やっと起きてきたか」
親方が二人を振り返り、その頭を見て眉をひそめた。
「……お前ら……それどうにかしてこい」
「え? 何がだよ」
ラックがきょとんとした顔で答える。
親方は無言で二人の髪を指差した。ラックとミカは顔を見合わせると、自分の髪に触れて小さく笑う。
親方は呆れたような表情で鼻を鳴らした。
「ったく……旅立ちの日だってのに締まらねえ奴らだな」
二人は顔を見合わせると、もう一度笑った。
二人が髪を直し終えて戻ると、既に朝食が用意されていた。
昨日の夜に三人で食べたごちそうとは違い、シンプルでどこにでもあるようなありふれた朝食。
けれどミカにとっては、それが昨日の豪華な食事と変わらず、とても素晴らしいものに感じられた。
この店で食事をし、ふざけるラックを呆れながら叱る親方。
そんな何気ない時間が、楽しくて仕方がなかった。
ミカはそんなことを考えながら、黙々と食事を口へ運んでいた。
ラックもいつもと変わらない様子で食べているが、その顔には少しだけ寂しさが混ざっている。
ふと、ラックが親方を見つめて口を開いた。
「なぁ、親方」
「俺たちがいなくなったら、寂しくなるんじゃねぇの?」
からかうような笑顔だった。
親方はラックの言葉に少し黙ると、箸を置いてラックの頭をガシガシと力強く撫で回した。
「はっ、馬鹿言ってんじゃねぇ」
そう言って笑い、否定も肯定もしなかった。
ただ、いつものように笑った親方に、ラックもいつものように笑って返す。
ミカはそんな二人を見ながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。二人がお互いをとても大切に思っていることが伝わってくる。
二人の姿に自分とお母さんの姿を少し重ね、ほんの少し寂しくなるミカ。
そのとき、親方がミカを見つめて静かに口を開いた。
「そういやミカ。お前、金は持ってるのか?」
急に親方に話しかけられたミカは、ビクッと肩を跳ねさせて驚き、その勢いのまま答える。
「ひゃ、ひゃいっ! も、持っています!」
親方はその様子を意に介すこともなく、言葉を続けていく。
「どれくらいだ? 旅をするならそれなりの金額が──」
親方の声を遮るように、ラックが何かを思い出したように声を上げた。
「あっ、そうだ! 聞いてくれよ親方! こいつ、金貨しか持ってねぇんだよ」
ラックの言葉に親方の眉がピクリと上がり、何やら考え込むような表情を浮かべる。
不思議そうにするミカに、ラックは以前した話を思い出させた。
「ほら、この前お金の価値は少し教えたろ?」
ラックの言葉に、ミカは露店通りで二人で交わした会話を思い出していく。
(銀貨は銅貨百枚分。金貨は銀貨千枚分だ)
ラックの言葉を思い出したミカは、あっと小さな声を漏らした。ラックはその様子に苦笑しながら口を開く。
「思い出したか? 金貨だけじゃ旅するのには不便なんだよ。もちろん、足りない訳じゃない。むしろ逆」
「だから、普通はもっと細かいお金を持ち歩くんだよ」
ラックの言葉に、分かったような分かっていないような表情で頷くミカ。
親方は小さく息を吐くと、おもむろに立ち上がり店の奥へと消えていく。
「ちょっと待ってろ」
親方は店の奥から木箱をひとつ抱えて戻ってくると、それをテーブルの上へ置き、ゆっくりと蓋を開けた。
中には銀貨と銅貨が綺麗に分けられ、ぎっしりと詰まっている。
「金貨一枚分、両替しといてやる」
親方はミカから金貨を受け取ると、銀貨へと替えていった。硬貨同士が触れ合う澄んだ音が、朝の静かな店内に響く。
親方は、銀貨を手にした財布のような魔導具の中に次々と詰めていった。だが、その小さな財布は銀貨を何百枚と吸い込むように飲み込んでいき、膨らむ気配すらない。
「なぁ、それも魔導具だよな?」
ラックがその財布を指差して親方に尋ねる。
「ああ。こいつはしまったものを小さく軽くする魔導具だ。これも持っていけ」
親方は、両替した銀貨をすべて財布に詰め終えると、ミカにそれを手渡した。
大量の銀貨を詰め込んだにも関わらず、財布の大きさは変わらず、重さもほとんど感じられない。
「そんな便利なもんあったのかよ」
ラックは、財布を指で突きながら不思議そうな表情をしている。ミカは隣で全く理解できないといった様子で、財布を見つめていた。
「そりゃあ、魔導具店だからな」
親方は当たり前だと言わんばかりに答え、ラックは感心したように口笛を吹く。
「ほ、本当にいいんですか……?」
ミカが財布を大切に抱えながら尋ねると、親方は優しく笑いながら答えた。
「ああ。見た目は良くないが性能は俺が保証する。きっと役に立つはずだ」
そこで、親方は少しだけ真面目な顔になる。
「ただし、その金は本当にどうしようもなくなった時にだけ使え」
「……」
親方の言葉に、ミカの表情が少しだけ曇った。
お金の価値を未だよく理解できていないミカにとっては、「お母さんがくれた大切なお金」という価値観しか持ち合わせていなかったからだ。
親方はそんなミカの顔を見て、優しく目元を緩める。
「使うなって言ってるわけじゃねぇ。必要な時には、ちゃんと使え。……こいつを頼ってやれ」
親方はラックを顎でクイッと指しながら笑い、ラックもまた胸を張るように笑ってみせた。
ミカはその言葉を聞いてしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いて微笑んだ。
「……はいっ!」
朝食を終えると、親方が食器を片付けている二人を呼び止めた。
「出発する前に、店の準備を手伝ってくれ」
親方の言葉に二人は大きく頷く。ラックは店の掃除を始め、ミカもそれを見よう見まねで手伝っていく。
たくさんある魔導具を綺麗に並べ、重たい魔導具は二人で協力しながら運び、丁寧に陳列していく。
ラックが慣れた手つきで道具を用意し、その隣でミカが手渡された道具を布で丁寧に拭き上げていく。
窓を開け、床を掃き、商品を並べる。
いつもなら親方とラックがやっていることを、今日は三人で行う。
ミカは、こうして店の中を歩き回ることが少しだけ嬉しかった。
まるで自分も、この店の一員になれたような気がしたのだ。
やがて準備が終わると、親方が店内を見回した。
「よし。こんなもんだな」
そして、ふと思い出したように店の奥へ向かうと、戻ってきた親方の手には小さな包みがあった。
「ミカ。これを持っていけ」
親方は、その包みをミカへ差し出す。
ミカが両手で受け取ると、ずしりとした重みと、金属が擦れ合うかすかな音が中から聞こえてきた。
「……こ、これはなんですか?」
ミカの問いかけに、親方はただ一言答える。
「開けてみろ」
ミカが恐る恐るその包みを開くと、そこには数十枚の硬貨が入っていた。
「あ、あの……これは……?」
ミカが戸惑いながら親方を見上げると、親方はミカの目線に合わせて腰をかがめ、優しく微笑んだ。
「お前が初めて自分で稼いだ金だ」
「……」
親方の言葉にミカは目を丸くし、ギュッと包みを握りしめる。
「わ、私が……?……でも……そんな──」
ミカが慌てて包みを返そうとすると、ラックがそれを遮って笑った。
「いいんだよ、ミカ。もらっとけ」
「で、でも……」
ミカが困ったように親方を見ると、親方は何も言わず、ただ温かい目で見つめていた。
「……」
ミカはもう一度、手の中の包みを見つめる。
小さな包みだった。
金額がいくらなのかは分からない。きっとそう多くはないのかもしれない。
それでも、ミカにはそれがとても大切なものに思えた。
ミカは包みを胸の前でそっと握りしめ、親方の目を真っ直ぐに見つめて感謝を伝える。
「……あの……ありがとうございます」
親方はその様子に満足そうに笑った。
「おう。その気持ちを忘れんじゃねぇぞ」
「……はいっ!」
その返事は、いつもより少しだけ力強かった。
それから、二人は旅の準備を整えていく。
ミカが手に持った新しい杖の赤い魔石は、朝の光を受けて小さくきらめいていた。
ラックも荷物を背負い、腰には親方から託された剣を下げている。
ラックは地図を広げながら、親方に尋ねた。
「俺たち、まずはどこに向かえばいい?」
親方は地図を覗き込み、しばらく考えを巡らせた後、太い指を地図の上でゆっくりと東へ動かした。
「カールドルハから東にしばらく行ったところに、村がある。まずはそこを目指すといい」
親方が指差した場所を見ながら、ラックが尋ねる。
「村? もっと近い街じゃなくて?」
「ああ。どうやら、最近そこに騎士様が配属になったらしい」
「騎士様が?」
ラックが聞き返す。
「ああ。王都を目指すなら、その騎士様とやらに話を聞いておくのも悪くねぇはずだ」
ラックの隣でミカも地図を覗き込み、二人は顔を見合わせて深く頷いた。
「じゃあ、決まりだな」
「ですねっ!」
最初の目的地が決まり、あとは……出発するだけだった。
◇◇◇
カールドルハの城門の前。
御者や商人が街を往来し、外に向かう人々や住民が行き交っている。
街の外へ続く道の前で二人が立ち、その少し後ろには親方が立っていた。
「じゃあな、親方」
ラックが振り返って笑う。
「ああ。気をつけてな」
短い言葉だった。
けれど、そこには言葉にできないほど多くの想いが詰まっているように思えた。何も言わなくとも、二人にはそれだけで十分だった。
ラックは親方を見つめ、親方もラックを見つめ返す。
二人ともしばらく何も言わなかったが、やがて親方はミカへ視線を向け、口を開いた。
「ミカ」
「は、はいっ!」
親方はラックを、寂しさと愛おしさが混ざったような表情で優しく見つめると、笑って言った。
「こいつの面倒、見てやってくれ」
ミカはその言葉に一瞬きょとんとしたが、ふふっと笑って自信満々に答えた。
「……はいっ!」
ラックはそのミカの様子に思わず吹き出す。
「はははっ、逆だろ!」
「……そうなんですか?」
「そうだよ」
そのやり取りに、親方も声をあげて笑った。まるで……目の前の二人が自分の娘と息子であるかのように感じていた。
「ははは……まぁ、仲良くやれよ」
親方の言葉に二人は強く頷くと、背を向けてゆっくりと歩き出す。
門を抜け、カールドルハの街並みが少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
ミカは前を向いて歩いていた。
けれど、胸の奥には小さな寂しさがあった。
初めて訪れた街で、見知らぬ他人であるはずの自分にここまで優しくしてくれた親方。
見た目の怖さには最後まで慣れなかったが、まるで母のように温かく、とても大きな存在だった。
寂しさは感じるけれど、それでも不思議と嫌な気持ちはしなかった。
隣にはラックがいて、手には大切な杖がある。
そして、初めて自分で稼いだお金も持っている。
これから何が起こるのかは分からないけれど、それでも前へ歩いていく。
その時だった。
「ラック!」
後ろから、親方の力強い声が響いた。
ラックが振り返ると、親方が何かを投げてくる。
「おわっ!」
ラックが慌てて両手を伸ばし、受け取ったものを見て目を丸くした。
「……これ」
それは、大きな握り飯だった。
親方の手で握られた、一口では到底食べきれそうにないほど大きくて、とても温かかった。
ラックはしばらくそれを見つめていた。
鼻の奥が少しだけ熱くなり、思わず鼻をすすった。
けれど、それを隠すように顔いっぱいの笑顔を浮かべ、大きく手を振る。
「親方! 行ってくるよ!」
親方も笑っていた。
ラックの隣でミカが一歩前へ出ると、親方へ向かって深く頭を下げた。
「い、行ってきます!」
顔を上げ、精一杯の大声で感謝を伝える。
「杖……ありがとうございました!」
親方は、手を振りながらただ笑っていた。
「おう」
聞こえてきたのは、その一言だけだった。
清々しい日差しの中、二人は再び歩き出す。
たまに立ち止まっては二人でおどけるように笑い合い、一歩、また一歩と進んでいく。
二人の背中が、少しずつ遠くなっていく。
親方は、その背中をずっと見つめていた。
やがて二人の姿が、かろうじて見えるほどに小さくなっていく。
それでも、親方はその場から動かなかった。
「……」
しばらくして、親方は小さく鼻をすすった。
「……ったく」
誰に言うでもなく、そう呟く。
それから、遠ざかっていく二人の背中を見つめながら、静かに笑った。
二人の姿が見えなくなるまで。
ずっと、見送っていた。




