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優しい魔女へ  作者: 十 名鈴
第二部
27/29

第27話 『愛している』

──15年前。

グランシス王国は、隣国ベレタ帝国と激しい戦争の只中にあった。


ベレタ帝国は、歴史の浅い新興の国家だった。

いつから存在するのかも分からない魔石。それを利用した魔導具の発展が、戦争の様相を一変させていた。

ベレタ帝国は魔導具を兵器へと転用し、恐ろしい速さで領土を広げていく。


その牙は、ついにグランシス王国にまで迫っていた。


対するグランシス王国は、古くから魔導具を生活の利便のために発展させてきた国だ。

国を守護するのは、王国の誇るグランシス騎士団。騎士になることはこの国の誉れとされ、中でも当代の団長は、英雄と称される豪傑だった。




人も立ち入らぬ深い森の奥を、数人の騎士が進んでいた。


「ヴァルド団長、まもなくです」


ヴァルドと呼ばれた男は、芦毛の巨馬に跨ったまま辺りを見渡す。


「本当に合ってんのかぁ? 俺、虫嫌いなんだよ……」


まとわりつく羽虫を手で払いながら、ヴァルドは悪態をついた。従者の騎士が、呆れたように肩を落とす。


グランシス王国の騎士団長、ヴァルド。

奔放で豪快、助けを求める者がいれば、我が身も顧みず駆けつけてしまう男。人々が思い描く「英雄」が、そのまま形になったような人物だった。


副団長と数人の騎士を引き連れ、こんな辺境の山奥まで来たのには、理由がある。

発端は、一つの報告だった。


『鬼が出た』


その地区を管轄する騎士からの報告だ。

森の調査中に「それ」と遭遇し、傷を負って撤退を余儀なくされたという。

その騎士は、決して弱くなかった。まだ若く未熟ではあるが、並の魔物なら傷一つ負わない腕前だ。そんな騎士が、手傷を負わされ、撤退を選んだ。


若い騎士の話では、その「鬼」は血のように真紅のたてがみを逆立て、恐ろしい速さで槍を躱し、鋭い爪で引き裂いてきたのだという。



「鬼……ねぇ」


報告を思い返し、ヴァルドが呟く。


「近隣に村落がないのが救いだな。さっさと終わらせるぞ」


馬から降りて剣を抜き、ヴァルドは報告のあった地点へ静かに歩を進めた。

森は鬱蒼と茂り、木々のさざめきと、数多の生き物の気配が、不気味なほどに蠢いている。


「団長、報告の地点はもう間もなくです」


副団長の言葉に、ヴァルドは黙って頷いた。

警戒しながら進んでいた、その時。


森が、ふっと静まり返った。

虫の羽音も、獣の気配も、潮が引くように消えていく。何かが来る。直感が告げていた。


「……来るぞ。鬼様のお出ましだ」


ヴァルドが言い終えるより早く、それは姿を現した。

小さな影が、赤い閃光となって、最も未熟な騎士へ飛びかかる。反応の遅れた騎士は、刃のぶつかる甲高い音とともに弾き飛ばされた。


そして「鬼」が、ゆっくりと陽の光の下へ歩み出る。

血のように赤い、ボサボサの長髪。同じ色の瞳には、力強い光が灯っていた。

長い爪に見えたものは、古びた剣だった。


「嘘だろ? こいつが……鬼?」


目の前の光景が、ヴァルドには信じられなかった。

鬼の正体は、幼い少女だったのだ。薄汚れてはいるが、痩せ細ってはいない。溢れんばかりの生命力と、獰猛な野生を、全身から放っていた。


「っ……はははっ! あいつ、こんなガキに負けたのか!」


ヴァルドは思わず声を上げて笑った。

未熟とはいえ王国の騎士が、こんな少女に撤退を強いられ、あまつさえ鬼と見間違えたのだ。可笑しくて仕方がなかった。


「お前は、吹き飛ばされた奴の様子を見てこい。死んじゃいないはずだ」


副団長にそう指示し、ヴァルドは剣を収めて少女へ向き直る。


「言葉は分かるか──」


声をかけた途端、乱暴に剣が振り下ろされた。

剣術の欠片もない太刀筋を、ヴァルドは涼しい顔でひょいと避ける。


「ははっ! 飽きるまで相手してやるよ!」


にやりと笑う。ヴァルドは戦いが好きだった。恐ろしいほどの才能を秘めた存在が、目の前に現れた。

その事実に、胸の奥が静かに沸き立っていた。



戦いとも呼べない一方的な時間が、しばらく続いた。

ヴァルドは汗一つかかず、暴れるような剣をひらりひらりと躱し続ける。やがて、少女の息が上がり始めた。


「はい、おしまいだ」


足を軽く払って転ばせ、剣を蹴り上げて弾き飛ばす。

少女は尻餅をついたまま、信じられないという顔でヴァルドを見上げていた。


「……お前、名はあるか?」


ヴァルドは少女の前にしゃがみ込み、静かに問いかける。

圧倒的な強者から、少女は目が離せない。やがて、小さな声が漏れた。


「……ジル」


初めての敗北に、胸が沸き立つのをジルは感じていた。

目の前の男の瞳は真っ直ぐで、悪意の欠片もない。危害を加えるつもりがないことも、不思議と分かった。


「……いい名前じゃねぇか。ジル、俺と来るか?」


ヴァルドが、静かに手を差し出す。

この少女は、いつかきっとこの国を背負って立つ英雄になる。誰も並び立てない、最高の騎士に。

そんな予感がしていた。


ジルは黙って頷き、その手を取った。

親も知らない。この深い森で、魔物や獣から身を守るだけの生活。未練はなかったし、手を取らない理由もなかった。

それに、この男の強さと、強さの奥に隠れた温かさを、もっと知りたくなったのだ。


後の英雄、ジルテスタ・レルグリンドの物語の始まりだった。



◇◇◇



──グランシス王国、王都。

騎士団の本部が置かれたこの街では、日夜、騎士を目指す者たちが訓練に明け暮れていた。


「ヴァルド! 私に稽古をつける約束はどうした!」


騎士団本部に、凛とした大声が響き渡る。

いつもの光景だった。騎士たちは誰も気に留めない。


「団長なら、さっき女と出かけてたぜ。ジルテスタは相変わらず稽古ばっかりだな」


一人の騎士が、大声の主である少女に声をかけた。

少女の名は、ジルテスタ・レルグリンド。


『ジルだけじゃ寂しいな。どうせなら、騎士らしく厳つい名前にしてやるよ』


ヴァルドの気まぐれのような思いつきだった。

ジルテスタという名と、ヴァルド自身の家名であるレルグリンドを、彼は少女に授けたのだ。



「私はジルだ! ヴァルドめ……今日こそ、あのニヤケ面に一太刀叩き込んでやるつもりだったのに……」


不服そうに返し、ジルは拗ねた表情を見せる。


今日は、ジルにとって大切な日だった。

生まれた日も知らないジルにとって、ヴァルドに拾われた日こそが、誕生日のようなものだ。

そして今日は、拾われてちょうど一年。


14歳になったジルは、身なりを整えると、息をのむほど美しかった。街を歩けば人の目を引き、騎士の中にも、密かに想いを寄せる者がいるほどだった。



「今日は……私の大切な日なのに……」


小さく呟いて、ジルは本部の離れにある自分の部屋へと歩いていく。


「ヴァルドの馬鹿……」


部屋に戻り、ドアノブに手をかけて、ゆっくり開く。

その時だった。


「「誕生日おめでとう! ジルテスタ!」」


部屋の中では、ヴァルドと副団長、それに数人の騎士が、派手な装いに身を包み、満面の笑みを浮かべていた。


「え……? ヴァルドは女と出かけたって……」


呆然と呟くジルに、ヴァルドはニヤリと笑って答える。


「驚かせたほうが面白いだろ?」


悪びれもせず、悪戯っ子のように笑うヴァルドを見ているうちに、気付けばジルも、つられて笑っていた。


するとヴァルドは、突然派手な装いを脱ぎ捨てた。その下には、騎士の正装があった。

真剣な眼差しで、ヴァルドが静かに口を開く。


「ジルテスタ、お前にこれを。今日からお前は……騎士だ」


銀と赤で美しく彩られた一振りの剣が、ジルに手渡される。

ジルは、震える両手でそれを受け取った。

気付けば、涙が頬を伝っていた。


「ぷっ……はははっ! あの鬼が泣いてるぞ!」


からかうように、ヴァルドが吹き出す。


「な、泣いてないっ……! 馬鹿! 女たらし!」


ごまかすように、ジルは悪態をつく。

涙を流しながら、それでも弾けるような笑顔だった。


これが、ジルの初めての誕生日の記憶だった。



騎士となったジルは、恐ろしい速さで武勲を重ねていった。

騎士団の中でもヴァルドただ一人にしか修められなかった「グランシス流剣術」を、わずか一年足らずで習得する。

その才能は本物だった。

英雄ヴァルドさえ凌駕しかねない、底知れぬ才。



18歳になる頃には、その名はグランシス国内だけでなく、敵国ベレタ帝国にまで知れ渡っていた。

強さ以上に、その美しさに、敵も味方も心を奪われた。

戦場を駆ける、真紅の戦姫。


ジルの駆けつけた戦場は士気が上がり、敗北を知らなかった。いつしか彼女は、団長ヴァルドと並び、グランシス王国の「二本の剣」と呼ばれるまでになっていた。


「ヴァルドはどこに行ったか知らないか?」


ジルは、わずか19歳で副団長にまで上り詰めていた。問われた若い騎士が答える。


「さっき、若い女性と楽しげに出かけましたよ」


ジルは小さく舌打ちをした。

理由は分からない。ただ、無性に胸がざわつき、苛立つ。それが何なのか、自分でもよく分からなかった。



「私は……何がしたいんだろうな……」


一人きりの稽古場で、ジルは剣を拭いながら声を漏らした。

剣は好きだった。何も考えなくていい。振るうだけで、心が軽くなる。

胸をざわつかせるものをかき消すように、ジルはいつまでも剣を振り続けた。



季節は巡り、雪がグランシス王国を静かに包んでいく。

あたり一面の雪景色の中で、子どもたちが楽しげに遊んでいた。


「はぁ……。私には、魅力がないのか……?」


酒場で浴びるように酒を飲みながら、ジルは呟く。隣には、同じ騎士であり友人でもある女性が座っていた。


「そんなことないんじゃない? むしろ、ありすぎよ」


女性は、酒場の中へ視線を送る。そこでは、ジルへちらちらと視線を向ける男たちが、杯を傾けていた。皆、どうにか声をかけようと、機会を窺っているのだ。


「でも、ヴァルドは私をいつまでも子ども扱いする……」


ジルは酒を一気にあおり、また新しい酒を注文する。

20歳になったジルは、自分の心をもう理解していた。ヴァルドに、一人の異性として心惹かれている。


「まぁ、女好きの団長が、ジルにだけは手を出さないものね……」


その言葉に、ジルはがくりと肩を落とした。


「決めた……。次の私の誕生日に、伝える……!」


杯を空け、宣言する。

いつまでも子ども扱いされてはいられない。ちゃんと見てほしかった。

愛されたいと、願ってしまった。


「ジル、飲みすぎ。まぁ……応援してあげる」


女性の言葉に笑って杯を合わせ、二人は朝まで飲み明かした。




雪解けの頃。

グランシス王国と隣国ベレタ帝国の国境付近では、激しい争いが起きていた。王国は、その争いを一刻も早く収めるべく、「英雄ヴァルド」を派遣することを決める。


「いつ……出発するんだ?」


稽古場で、ヴァルドと剣を交えながら、ジルは尋ねた。


「夜明けには出立するつもりだ」


答えながら、ヴァルドが斬りかかる。ジルはそれを躱し、鋭く切り返した。

こうしてヴァルドと剣を交える時間が、ジルには何よりの幸福だった。この時間だけは、自分一人を見てくれる。

それが嬉しかった。


「ヴァルドじゃないと……だめなのか?」


ジルは少し顔を曇らせて、言葉を漏らす。

剣戟の音が、稽古場に響いた。


「そりゃあ、俺は英雄様だからな。心配すんなって。死にゃしねぇよ」


ヴァルドの言葉に、ジルは頷く。

誰よりも、ヴァルドの強さを知っている。この男に勝てる者などいない。そう信じていた。


「俺が戻るまで、国は任せたぞ?」


ヴァルドは、いつもの笑顔を見せた。

無邪気で、どこまでも温かい。その笑顔が、ジルの胸を、優しく締め付ける。


「ヴァルド……」


言いかけた言葉を、ジルは飲み込んだ。けれどヴァルドは、それを察したように笑う。


「誕生日までには帰ってくる。約束だ」


優しく微笑んで、ジルの頭を撫でた。

ジルは満面の笑みで、強く頷く。

誕生日に、この気持ちを伝えよう。誰よりも大切な、この人に。

約束の日を、今はただ待とう。


だが、その日が来ることはなかった。




グランシス王国の英雄ヴァルド、戦死。

その報せがジルの耳に届いたのは、誕生日のひと月前のことだった。

国境付近で、正体不明の敵に襲撃されたのだという。グランシスもベレタも関係なく、国境付近の兵は無差別に殺され、遺体すら残らなかった。


だが、それは襲撃ですらなかった。

魔女ルシエラが、たまたま通りがかってしまっただけ。そこに戦争も感情もなく、ただの気まぐれだった。

その事実を知る者は、誰一人いなかった。



「嘘だ……ヴァルドが……?」


ジルの元へ戻ってきたのは、ヴァルドの愛剣だけだった。使い込まれ、年月を重ねながらも、丁寧に手入れされた剣。


「ジルテスタ副団長。団長からの……」


差し出されたのは、出立前、胸騒ぎを覚えたヴァルドが残していった手紙だった。


『もし俺が死んだら……お前が団長になれ。ジルテスタ、お前は誰よりも最高の騎士になれる』


『まぁ、俺は死なねぇけどな? だが……ここでも伝えておく。面と向かって言える気もしないからな』


手紙の最後には、こう綴られていた。


『愛している』



手紙を握りしめ、ジルは声を上げて泣いた。

声が枯れても、涙は止まらない。止まる術を知らないまま、いつまでも、いつまでも。


外では雨が降っていた。ジルの心を映したように、英雄の死を悼むように、大粒の雨が一日中降り続いていた。



◇◇◇



英雄ヴァルドの死に国が涙した日から、5年。

けれど、もう誰も後ろを向いてはいなかった。ヴァルドは、大きなものを遺していったのだ。


英雄ジルテスタ・レルグリンド。

かつての英雄をも超える、美しく、誰よりも強く、優しい騎士。

あの日以来、彼女は涙を流していない。ヴァルドの剣と誇りを受け継ぎ、前だけを見て進み続けた。

いつまでも泣いていたら、ヴァルドに怒られてしまう。


その名声は、グランシス王国内よりも、むしろベレタ帝国全土に広まっていた。

『真紅の鬼神』と恐れられ、あまねく戦場を駆ける、必勝の騎士。常にその身を戦場に置き、ひたすらに駆け続けた。


戦場では知らぬ者のいないその名も、王国内では少し事情が違った。

常に戦場に身を置くジルは、王都では英雄と呼ばれてはいたが、平和な国内では「新たな騎士団長」として知られている程度でしかなかった。


争いなど知らぬなら、それに越したことはない。それがジルの考えだった。



「王都に戻るのも、ずいぶん久しいな……」


長期の遠征から、ジルは帰還していた。

騎士団の面々は、束の間の平穏の中で、それぞれ愛する者と過ごし、体を休めている。


ヴァルドの墓の前に座り、ジルは腰に差した、譲り受けた剣を撫でた。


「ヴァルド……。あれからもう5年だ。この剣も、すっかり馴染んだよ」


この5年、ヴァルドを殺した謎の敵を探すように、国境付近の戦場を駆け回り続けた。だが、その影すら見つけられなかった。


「また……私の誕生日に、酒を注ぎに来る」


小さな花を一輪添えて、ジルは静かにその場を後にした。


日課の稽古を終えると、日の暮れ始めた王都を見回って歩く。

特に意味があるわけではない。王都は戦場から遠く、平穏そのものだ。見回りなど要らないのかもしれない。

ただ、無性に歩きたい気分だった。


何事もなく一回りし終えようとした、その時。

ジルの視界の端で、小さな影が動いた。


外壁のすぐそば。人の往来もない、外れた場所に、何かがいる。

警戒しながら、ジルは静かに歩み寄った。


夕焼けが、足元からゆっくりと影を照らしていく。


そこには、一人の幼い少女が、怯えるように震えていた。


ひと目で分かった。

その幼い少女は、魔女だった。

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