第27話 『愛している』
──15年前。
グランシス王国は、隣国ベレタ帝国と激しい戦争の只中にあった。
ベレタ帝国は、歴史の浅い新興の国家だった。
いつから存在するのかも分からない魔石。それを利用した魔導具の発展が、戦争の様相を一変させていた。
ベレタ帝国は魔導具を兵器へと転用し、恐ろしい速さで領土を広げていく。
その牙は、ついにグランシス王国にまで迫っていた。
対するグランシス王国は、古くから魔導具を生活の利便のために発展させてきた国だ。
国を守護するのは、王国の誇るグランシス騎士団。騎士になることはこの国の誉れとされ、中でも当代の団長は、英雄と称される豪傑だった。
人も立ち入らぬ深い森の奥を、数人の騎士が進んでいた。
「ヴァルド団長、まもなくです」
ヴァルドと呼ばれた男は、芦毛の巨馬に跨ったまま辺りを見渡す。
「本当に合ってんのかぁ? 俺、虫嫌いなんだよ……」
まとわりつく羽虫を手で払いながら、ヴァルドは悪態をついた。従者の騎士が、呆れたように肩を落とす。
グランシス王国の騎士団長、ヴァルド。
奔放で豪快、助けを求める者がいれば、我が身も顧みず駆けつけてしまう男。人々が思い描く「英雄」が、そのまま形になったような人物だった。
副団長と数人の騎士を引き連れ、こんな辺境の山奥まで来たのには、理由がある。
発端は、一つの報告だった。
『鬼が出た』
その地区を管轄する騎士からの報告だ。
森の調査中に「それ」と遭遇し、傷を負って撤退を余儀なくされたという。
その騎士は、決して弱くなかった。まだ若く未熟ではあるが、並の魔物なら傷一つ負わない腕前だ。そんな騎士が、手傷を負わされ、撤退を選んだ。
若い騎士の話では、その「鬼」は血のように真紅のたてがみを逆立て、恐ろしい速さで槍を躱し、鋭い爪で引き裂いてきたのだという。
「鬼……ねぇ」
報告を思い返し、ヴァルドが呟く。
「近隣に村落がないのが救いだな。さっさと終わらせるぞ」
馬から降りて剣を抜き、ヴァルドは報告のあった地点へ静かに歩を進めた。
森は鬱蒼と茂り、木々のさざめきと、数多の生き物の気配が、不気味なほどに蠢いている。
「団長、報告の地点はもう間もなくです」
副団長の言葉に、ヴァルドは黙って頷いた。
警戒しながら進んでいた、その時。
森が、ふっと静まり返った。
虫の羽音も、獣の気配も、潮が引くように消えていく。何かが来る。直感が告げていた。
「……来るぞ。鬼様のお出ましだ」
ヴァルドが言い終えるより早く、それは姿を現した。
小さな影が、赤い閃光となって、最も未熟な騎士へ飛びかかる。反応の遅れた騎士は、刃のぶつかる甲高い音とともに弾き飛ばされた。
そして「鬼」が、ゆっくりと陽の光の下へ歩み出る。
血のように赤い、ボサボサの長髪。同じ色の瞳には、力強い光が灯っていた。
長い爪に見えたものは、古びた剣だった。
「嘘だろ? こいつが……鬼?」
目の前の光景が、ヴァルドには信じられなかった。
鬼の正体は、幼い少女だったのだ。薄汚れてはいるが、痩せ細ってはいない。溢れんばかりの生命力と、獰猛な野生を、全身から放っていた。
「っ……はははっ! あいつ、こんなガキに負けたのか!」
ヴァルドは思わず声を上げて笑った。
未熟とはいえ王国の騎士が、こんな少女に撤退を強いられ、あまつさえ鬼と見間違えたのだ。可笑しくて仕方がなかった。
「お前は、吹き飛ばされた奴の様子を見てこい。死んじゃいないはずだ」
副団長にそう指示し、ヴァルドは剣を収めて少女へ向き直る。
「言葉は分かるか──」
声をかけた途端、乱暴に剣が振り下ろされた。
剣術の欠片もない太刀筋を、ヴァルドは涼しい顔でひょいと避ける。
「ははっ! 飽きるまで相手してやるよ!」
にやりと笑う。ヴァルドは戦いが好きだった。恐ろしいほどの才能を秘めた存在が、目の前に現れた。
その事実に、胸の奥が静かに沸き立っていた。
戦いとも呼べない一方的な時間が、しばらく続いた。
ヴァルドは汗一つかかず、暴れるような剣をひらりひらりと躱し続ける。やがて、少女の息が上がり始めた。
「はい、おしまいだ」
足を軽く払って転ばせ、剣を蹴り上げて弾き飛ばす。
少女は尻餅をついたまま、信じられないという顔でヴァルドを見上げていた。
「……お前、名はあるか?」
ヴァルドは少女の前にしゃがみ込み、静かに問いかける。
圧倒的な強者から、少女は目が離せない。やがて、小さな声が漏れた。
「……ジル」
初めての敗北に、胸が沸き立つのをジルは感じていた。
目の前の男の瞳は真っ直ぐで、悪意の欠片もない。危害を加えるつもりがないことも、不思議と分かった。
「……いい名前じゃねぇか。ジル、俺と来るか?」
ヴァルドが、静かに手を差し出す。
この少女は、いつかきっとこの国を背負って立つ英雄になる。誰も並び立てない、最高の騎士に。
そんな予感がしていた。
ジルは黙って頷き、その手を取った。
親も知らない。この深い森で、魔物や獣から身を守るだけの生活。未練はなかったし、手を取らない理由もなかった。
それに、この男の強さと、強さの奥に隠れた温かさを、もっと知りたくなったのだ。
後の英雄、ジルテスタ・レルグリンドの物語の始まりだった。
◇◇◇
──グランシス王国、王都。
騎士団の本部が置かれたこの街では、日夜、騎士を目指す者たちが訓練に明け暮れていた。
「ヴァルド! 私に稽古をつける約束はどうした!」
騎士団本部に、凛とした大声が響き渡る。
いつもの光景だった。騎士たちは誰も気に留めない。
「団長なら、さっき女と出かけてたぜ。ジルテスタは相変わらず稽古ばっかりだな」
一人の騎士が、大声の主である少女に声をかけた。
少女の名は、ジルテスタ・レルグリンド。
『ジルだけじゃ寂しいな。どうせなら、騎士らしく厳つい名前にしてやるよ』
ヴァルドの気まぐれのような思いつきだった。
ジルテスタという名と、ヴァルド自身の家名であるレルグリンドを、彼は少女に授けたのだ。
「私はジルだ! ヴァルドめ……今日こそ、あのニヤケ面に一太刀叩き込んでやるつもりだったのに……」
不服そうに返し、ジルは拗ねた表情を見せる。
今日は、ジルにとって大切な日だった。
生まれた日も知らないジルにとって、ヴァルドに拾われた日こそが、誕生日のようなものだ。
そして今日は、拾われてちょうど一年。
14歳になったジルは、身なりを整えると、息をのむほど美しかった。街を歩けば人の目を引き、騎士の中にも、密かに想いを寄せる者がいるほどだった。
「今日は……私の大切な日なのに……」
小さく呟いて、ジルは本部の離れにある自分の部屋へと歩いていく。
「ヴァルドの馬鹿……」
部屋に戻り、ドアノブに手をかけて、ゆっくり開く。
その時だった。
「「誕生日おめでとう! ジルテスタ!」」
部屋の中では、ヴァルドと副団長、それに数人の騎士が、派手な装いに身を包み、満面の笑みを浮かべていた。
「え……? ヴァルドは女と出かけたって……」
呆然と呟くジルに、ヴァルドはニヤリと笑って答える。
「驚かせたほうが面白いだろ?」
悪びれもせず、悪戯っ子のように笑うヴァルドを見ているうちに、気付けばジルも、つられて笑っていた。
するとヴァルドは、突然派手な装いを脱ぎ捨てた。その下には、騎士の正装があった。
真剣な眼差しで、ヴァルドが静かに口を開く。
「ジルテスタ、お前にこれを。今日からお前は……騎士だ」
銀と赤で美しく彩られた一振りの剣が、ジルに手渡される。
ジルは、震える両手でそれを受け取った。
気付けば、涙が頬を伝っていた。
「ぷっ……はははっ! あの鬼が泣いてるぞ!」
からかうように、ヴァルドが吹き出す。
「な、泣いてないっ……! 馬鹿! 女たらし!」
ごまかすように、ジルは悪態をつく。
涙を流しながら、それでも弾けるような笑顔だった。
これが、ジルの初めての誕生日の記憶だった。
騎士となったジルは、恐ろしい速さで武勲を重ねていった。
騎士団の中でもヴァルドただ一人にしか修められなかった「グランシス流剣術」を、わずか一年足らずで習得する。
その才能は本物だった。
英雄ヴァルドさえ凌駕しかねない、底知れぬ才。
18歳になる頃には、その名はグランシス国内だけでなく、敵国ベレタ帝国にまで知れ渡っていた。
強さ以上に、その美しさに、敵も味方も心を奪われた。
戦場を駆ける、真紅の戦姫。
ジルの駆けつけた戦場は士気が上がり、敗北を知らなかった。いつしか彼女は、団長ヴァルドと並び、グランシス王国の「二本の剣」と呼ばれるまでになっていた。
「ヴァルドはどこに行ったか知らないか?」
ジルは、わずか19歳で副団長にまで上り詰めていた。問われた若い騎士が答える。
「さっき、若い女性と楽しげに出かけましたよ」
ジルは小さく舌打ちをした。
理由は分からない。ただ、無性に胸がざわつき、苛立つ。それが何なのか、自分でもよく分からなかった。
「私は……何がしたいんだろうな……」
一人きりの稽古場で、ジルは剣を拭いながら声を漏らした。
剣は好きだった。何も考えなくていい。振るうだけで、心が軽くなる。
胸をざわつかせるものをかき消すように、ジルはいつまでも剣を振り続けた。
季節は巡り、雪がグランシス王国を静かに包んでいく。
あたり一面の雪景色の中で、子どもたちが楽しげに遊んでいた。
「はぁ……。私には、魅力がないのか……?」
酒場で浴びるように酒を飲みながら、ジルは呟く。隣には、同じ騎士であり友人でもある女性が座っていた。
「そんなことないんじゃない? むしろ、ありすぎよ」
女性は、酒場の中へ視線を送る。そこでは、ジルへちらちらと視線を向ける男たちが、杯を傾けていた。皆、どうにか声をかけようと、機会を窺っているのだ。
「でも、ヴァルドは私をいつまでも子ども扱いする……」
ジルは酒を一気にあおり、また新しい酒を注文する。
20歳になったジルは、自分の心をもう理解していた。ヴァルドに、一人の異性として心惹かれている。
「まぁ、女好きの団長が、ジルにだけは手を出さないものね……」
その言葉に、ジルはがくりと肩を落とした。
「決めた……。次の私の誕生日に、伝える……!」
杯を空け、宣言する。
いつまでも子ども扱いされてはいられない。ちゃんと見てほしかった。
愛されたいと、願ってしまった。
「ジル、飲みすぎ。まぁ……応援してあげる」
女性の言葉に笑って杯を合わせ、二人は朝まで飲み明かした。
雪解けの頃。
グランシス王国と隣国ベレタ帝国の国境付近では、激しい争いが起きていた。王国は、その争いを一刻も早く収めるべく、「英雄ヴァルド」を派遣することを決める。
「いつ……出発するんだ?」
稽古場で、ヴァルドと剣を交えながら、ジルは尋ねた。
「夜明けには出立するつもりだ」
答えながら、ヴァルドが斬りかかる。ジルはそれを躱し、鋭く切り返した。
こうしてヴァルドと剣を交える時間が、ジルには何よりの幸福だった。この時間だけは、自分一人を見てくれる。
それが嬉しかった。
「ヴァルドじゃないと……だめなのか?」
ジルは少し顔を曇らせて、言葉を漏らす。
剣戟の音が、稽古場に響いた。
「そりゃあ、俺は英雄様だからな。心配すんなって。死にゃしねぇよ」
ヴァルドの言葉に、ジルは頷く。
誰よりも、ヴァルドの強さを知っている。この男に勝てる者などいない。そう信じていた。
「俺が戻るまで、国は任せたぞ?」
ヴァルドは、いつもの笑顔を見せた。
無邪気で、どこまでも温かい。その笑顔が、ジルの胸を、優しく締め付ける。
「ヴァルド……」
言いかけた言葉を、ジルは飲み込んだ。けれどヴァルドは、それを察したように笑う。
「誕生日までには帰ってくる。約束だ」
優しく微笑んで、ジルの頭を撫でた。
ジルは満面の笑みで、強く頷く。
誕生日に、この気持ちを伝えよう。誰よりも大切な、この人に。
約束の日を、今はただ待とう。
だが、その日が来ることはなかった。
グランシス王国の英雄ヴァルド、戦死。
その報せがジルの耳に届いたのは、誕生日のひと月前のことだった。
国境付近で、正体不明の敵に襲撃されたのだという。グランシスもベレタも関係なく、国境付近の兵は無差別に殺され、遺体すら残らなかった。
だが、それは襲撃ですらなかった。
魔女ルシエラが、たまたま通りがかってしまっただけ。そこに戦争も感情もなく、ただの気まぐれだった。
その事実を知る者は、誰一人いなかった。
「嘘だ……ヴァルドが……?」
ジルの元へ戻ってきたのは、ヴァルドの愛剣だけだった。使い込まれ、年月を重ねながらも、丁寧に手入れされた剣。
「ジルテスタ副団長。団長からの……」
差し出されたのは、出立前、胸騒ぎを覚えたヴァルドが残していった手紙だった。
『もし俺が死んだら……お前が団長になれ。ジルテスタ、お前は誰よりも最高の騎士になれる』
『まぁ、俺は死なねぇけどな? だが……ここでも伝えておく。面と向かって言える気もしないからな』
手紙の最後には、こう綴られていた。
『愛している』
手紙を握りしめ、ジルは声を上げて泣いた。
声が枯れても、涙は止まらない。止まる術を知らないまま、いつまでも、いつまでも。
外では雨が降っていた。ジルの心を映したように、英雄の死を悼むように、大粒の雨が一日中降り続いていた。
◇◇◇
英雄ヴァルドの死に国が涙した日から、5年。
けれど、もう誰も後ろを向いてはいなかった。ヴァルドは、大きなものを遺していったのだ。
英雄ジルテスタ・レルグリンド。
かつての英雄をも超える、美しく、誰よりも強く、優しい騎士。
あの日以来、彼女は涙を流していない。ヴァルドの剣と誇りを受け継ぎ、前だけを見て進み続けた。
いつまでも泣いていたら、ヴァルドに怒られてしまう。
その名声は、グランシス王国内よりも、むしろベレタ帝国全土に広まっていた。
『真紅の鬼神』と恐れられ、あまねく戦場を駆ける、必勝の騎士。常にその身を戦場に置き、ひたすらに駆け続けた。
戦場では知らぬ者のいないその名も、王国内では少し事情が違った。
常に戦場に身を置くジルは、王都では英雄と呼ばれてはいたが、平和な国内では「新たな騎士団長」として知られている程度でしかなかった。
争いなど知らぬなら、それに越したことはない。それがジルの考えだった。
「王都に戻るのも、ずいぶん久しいな……」
長期の遠征から、ジルは帰還していた。
騎士団の面々は、束の間の平穏の中で、それぞれ愛する者と過ごし、体を休めている。
ヴァルドの墓の前に座り、ジルは腰に差した、譲り受けた剣を撫でた。
「ヴァルド……。あれからもう5年だ。この剣も、すっかり馴染んだよ」
この5年、ヴァルドを殺した謎の敵を探すように、国境付近の戦場を駆け回り続けた。だが、その影すら見つけられなかった。
「また……私の誕生日に、酒を注ぎに来る」
小さな花を一輪添えて、ジルは静かにその場を後にした。
日課の稽古を終えると、日の暮れ始めた王都を見回って歩く。
特に意味があるわけではない。王都は戦場から遠く、平穏そのものだ。見回りなど要らないのかもしれない。
ただ、無性に歩きたい気分だった。
何事もなく一回りし終えようとした、その時。
ジルの視界の端で、小さな影が動いた。
外壁のすぐそば。人の往来もない、外れた場所に、何かがいる。
警戒しながら、ジルは静かに歩み寄った。
夕焼けが、足元からゆっくりと影を照らしていく。
そこには、一人の幼い少女が、怯えるように震えていた。
ひと目で分かった。
その幼い少女は、魔女だった。




