第23話 大切な人
夜明けが世界を照らしていく。
傷ついた者はいた。だが、命を落とした者は誰一人としていなかった。
クラーケンを救うという偉業を成し遂げた者たちは、歓喜の声に包まれていた。
「っ……! いてて……。ははっ、そういや俺、怪我してたな」
安堵し、張り詰めていた糸が切れたラックは、思い出したようにふらつき、その場に腰を落とした。
ミカが駆け寄り、慌ててその体を支える。
「だ、大丈夫ですか?」
ラックは強がってみせるが、足取りはおぼつかない。
そこへ、船乗りに肩を借りたジルが歩み寄り、隣に腰を下ろした。
「……互いに無茶をしたな。だが、よくやった」
ジルが笑みを浮かべて拳を突き出すと、ラックも満面の笑みで、こつんと拳を合わせた。
「ミカ、ラック、ローシュ」
ジルは三人の顔を順番に見つめると、とても穏やかな表情を浮かべて、その頭をくしゃくしゃと撫でた。
「さぁ、帰ろう」
船はポーディリアへ向けて、ゆっくりと進み始める。
もう誰も下を向いていなかった。水平線から昇った朝日に照らされながら、船は帰っていく。
ラックは、歓喜に包まれる船員たちの様子を笑みを浮かべて見つめ、やがて吸い込まれるように眠りに落ちた。
港は、いつもと変わらない朝を迎えていた。
朝日に誘われるように、人々がそれぞれの支度を整えていく。少しずつ往来が増え始めた頃、日課の散歩をしていた老人が、ふと何かに気付いた。
船がない。航行は制限されていたはずなのに。
だが、老人は小さく笑みを浮かべると、そのまま散歩を続けた。
あの白い髪の少女と、その仲間たちが、何かを成し遂げたのだろう。そう直感していた。
そして、町にいつもの喧騒が戻り始めた頃、ようやく船は港へと帰ってきた。
「あ、あの……ジルさん。ラックは大丈夫なんですか?」
ミカは、ジルに抱えられたラックを見つめ、心配そうな表情を浮かべている。
「ああ。幸い、怪我は大きくないようだ。今は疲れで気を失っているだけだ」
ジルの言葉に、ミカはほっと表情を緩めた。
ラックを抱えるジルの腕は、わずかに震えていた。
「私は、ラックを療養所に連れて行く。お前たちは先に宿に戻ってくれ」
ジルはそう言って、ラックを抱えたまま、静かに町の中へと消えていく。
その傍らで、船乗りたちは上機嫌に肩を組みながら、桟橋へと降りていった。自分たちは偉業を成し遂げた英雄だという喜びに、全員が完全に浮かれている。
「では、戻りましょう。服も海水で濡れていますから、着替えないと」
ローシュの言葉にミカは頷き、二人は宿へと戻っていく。
その頃、町では、船乗りたちが住人に英雄譚を聞かせるように、四人の活躍を語っていた。
海の神であるクラーケンが、今回の幽霊騒ぎと船の航行制限の原因だったこと。
そして、とある四人が、クラーケンを退治ではなく「救う」という偉業を成し遂げたこと。
自分たちも、クラーケンと勇敢に戦ったこと。
町の住人たちは、最初こそ与太話だと思って相手にしていなかった。だが、船乗りたちの表情と、航行制限が解除されるという知らせを聞いて、それが真実なのだと気付かされた。
町が騒がしくなり始めた頃。
療養所のベッドでは、ラックが静かに寝息を立てて眠っていた。
ジルは、隣のベッドに腰掛け、剣の手入れをしている。
今回の件で明確な傷を負ったのはラックだけだったが、誰よりも消耗していたのはジルだった。常人であれば、意識を保つことさえ困難なほどに。
船乗り十数名と三人に目を配りながら、船そのものまでクラーケンの猛攻から守り抜いたジル。
船には多少の傷こそあれ、航海に支障はまったくなかった。
「ふっ……私もまだまだだな」
ジルは、わずかに震える手を見つめながら、静かに呟いた。
その時、扉が開き、船乗りの男が入ってきた。
「騎士様、そのボウズの様子はどうです?」
ジルは「問題ない」と一言だけ返す。その言葉に安堵の表情を見せた船乗りは、言葉を続けた。
「実は、祝いの宴を開くことになりましてね。そのボウズの目が覚めたら、教えてください」
船乗りはそう伝えると、足早に部屋をあとにした。
ジルは頷き、再び静かに剣の手入れを続ける。
一方、宿へ戻ったミカとローシュは、湯浴みを済ませ、部屋に集まっていた。
「ふぅ……さっぱりしましたね」
ローシュの言葉に、ミカは頷く。
ローシュは、先ほどのミカの様子を思い出しながら、口を開いた。
「すごい魔法でしたね、ミカさん」
「ふぇ!? あ、ありがとう……ございます」
ミカは慌てて頭を下げながらも、胸の奥が小さくざわついた。
また魔法を使ってしまった。自分が魔女であることは、隠さなければならないのに。
ミカの心配が伝わったのか、ローシュは静かに言った。
「心配いりませんよ。あの状況で、褒めこそすれ、責める人はいません。それに、魔法を使ったことも、僕たち三人以外は気付いてもいませんから」
その言葉は励ましではなく、ただの事実だった。
ジル、ラック、ローシュの三人は、ミカが魔女であることをすでに知っている。杖の扱いが上達していることも、よく分かっていた。
だが、あの火球は、ミカが扱える杖の力を遥かに超えていた。魔法によるものだと三人は気付いていたが、船乗りたちの目には、杖の魔導具の力を引き出したようにしか映っていなかったのだ。
「そういえば、さっき宿の主人から聞いたのですが……」
ローシュは、耳にしたことをミカに伝えた。
それは、町が総出で祝いの宴を用意しているという話だった。
ミカはその言葉を聞いた瞬間、ぱぁっと目を輝かせる。
「ほ、ほんとですか!? ご、ご飯がいっぱい……」
ミカはうっとりと虚空を見つめ、今にもよだれが垂れそうな顔で、笑みを浮かべていた。
だが、はっと何かを思い出し、焦るように口を開く。
「……あっ! で、でも……ラックがまだ……」
その気持ちを察したローシュは、頷いて答えた。
「安心してください。今は眠っています。ラックさんが目覚め次第、始めると言っていましたから」
その言葉に、ミカは心底ほっとした様子を見せ、ベッドに倒れ込んだ。
「よかった……。ラックも一緒じゃないと……」
ミカは気が抜けたのか、そのままゆっくりと眠りに落ちていく。すうすうと、静かな寝息が部屋に響いた。
ローシュは、小さく笑みを浮かべ、静かに部屋をあとにして、自分の部屋へと戻っていった。
そして、全員が疲れ切った体を癒やすように、そのままぐっすりと眠り続けた。
町は、いつものように一日が過ぎていく。
ただ一つだけ違うのは、町じゅうが色とりどりの装飾に彩られ、至るところで音楽が鳴り響いていることだった。
それは、町を救った英雄たちへの宴の準備だった。
海の神であるクラーケンを救ったのだから、この先ポーディリアには、未曾有の豊漁が訪れる。誰もが、そう信じていた。
酒場では、船乗りたちが四人の活躍を熱く語っている。
夜は更けていく。
町の喧騒が鎮まることはなく、準備は着々と進められていった。
◇◇◇
翌朝。
小さな窓から、爽やかな朝日が差し込む。
港町には、カモメの鳴き声がのどかに響いていた。
町はすっかり祝宴の準備を終え、色鮮やかに彩られている。
ミカは、いまだ穏やかな眠りの中にいた。
すうすうと静かに寝息を立て、白い長髪がベッドを覆うように広がっている。朝日が髪の一筋ずつに触れ、淡く縁取るように輝いていた。
「……おーい。起きろー」
誰かの声が響く。
ミカは、聞き覚えのある声に、まぶたをこすりながらゆっくりと目を開けた。
大きなあくびをして、うんと伸びをすると、寝ぼけ眼のまま、声の主へ視線を向ける。
「やっと起きたか。ははっ、相変わらずすげぇ寝癖だな」
目の前の人物は、ミカの顔を覗き込みながら、寝癖を指で弾いて笑っている。
ミカは、しばらく無言で見つめたあと、ようやく目の前の人物が誰なのかに気付き、驚きの声を上げた。
「……ふぇ? ……ラ、ラック!?」
ラックは、大きく笑っていた。
「か、勝手に入っちゃだめですよ……!」
ミカは、布団を握りしめ、恥ずかしさに頬をほんのり赤らめる。
ラックはその様子を気にも留めず、傍らの椅子に腰を掛けた。
「あ……! そ、そういえば、怪我は……大丈夫ですか?」
ミカはラックの怪我を思い出し、そばまで近付くと、顔を覗き込んで心配そうな表情を浮かべた。
ラックは、天井に届きそうなミカの寝癖にちらりと目をやってから、視線を戻して答える。
「ああ、傷が完全に塞がるまでは一週間くらいかかるけど、見ての通り元気だよ」
ラックは、頭に巻かれた包帯を親指でとんっと叩き、大げさな素振りで見せた。
ミカはその様子に安堵の表情を浮かべ、ベッドに倒れ込んだ。
「よ、良かったぁ……。と、ところで! こんな朝から勝手に入ってきて、どうしたんですか?」
ミカは起き上がると、頬を膨らませ、拗ねたように尋ねる。
「ん? ああ、町のみんなから伝言だよ。今日は……お祭りだってさ」
ラックの言葉に、ミカは飛び上がるように喜んだ。
「す、すぐ準備します! ……着替えるから、出て行ってください……っ!」
ミカは勢いのまま服に手をかけたところで、ラックの存在を思い出し、むっと睨みながら体を隠した。
ラックは笑いながら、部屋を出ていく。
「……良かった。ほんとに良かった……ふふっ」
ミカは、一人になると、ラックの無事を噛みしめるように、小さく呟いた。
母しかいなかった世界に、知らず知らずのうちに、大切な人が増え始めていた。
ミカは、幸せそうな笑みを浮かべたまま、身なりを整えていく。
鏡に映った自分の顔が、少しだけ柔らかく見えた。
ミカが宿の一階へ降りると、すでに三人の姿があった。
どうやら、ミカが一番遅かったらしい。
四人は、朝食もそこそこに済ませていく。
何故なら、今日は祭りだからだ。
美味い飯に、美味い酒。すでに町は香ばしい香りに包まれ、軽快な音楽が、通りの隅々にまで響いていた。
四人が宿から出ると、町の住人たちは鮮やかな衣装に身を包み、数え切れないほどの屋台が、所狭しと並んでいた。
軒先には、色とりどりの旗やランタンが揺れている。炙った魚の串、貝の蒸し焼き、蜜をまとった揚げ菓子。香ばしい匂いや甘い匂いが、潮風に混じって通りじゅうに漂っていた。
「わぁ……! すごい! すごいです!」
ミカは目を輝かせながら、ラックの手を取り、ブンブンと振り回していた。
その時、誰かがミカのもとへと歩いてきた。
船乗りの一人だった。あの戦いの前、怯えていた時にミカの言葉に支えられた、若い船乗り。
彼は、あの時のミカの言葉を、何度も胸の中で繰り返していた。
ミカと一緒にご飯が食べられる。そのために、勇気を出して誘いに来たのだった。
「ミ、ミカさん……! 俺と一緒に、祭りを回りませんか?」
若い船乗りは、顔を赤くしながら、ミカに声をかける。
ミカはキョトンとした表情を浮かべたあと、困ったように眉を下げて答えた。
「え、えっと……その……後で、皆さんでご飯……食べましょう!」
ミカはそう言うとペコリと頭を下げ、ラックの手を引き、はしゃぐように町の喧騒の中へと消えていった。
ラックは、呆れたような表情のまま、されるがままに引きずられていく。
「……行きましょうか」
ローシュが、静かに若い船乗りの肩に手を置く。
「ああ……そうだな」
若い船乗りは、力なく頷いた。
ジルも、まるで慰めるように、もう片方の肩へ静かに手を置く。
若い船乗りは、肩を落としながら、二人に慰められるように町の中へと歩き出した。
見たこともない食べ物、聞いたこともない音楽が、町を彩っている。
ミカは、まるでリスのように頬を膨らませながら、次々と屋台の食事を楽しんでいく。
串焼きにかぶりつけば、じゅわりと広がる脂に目を丸くし、蜜をまとった揚げ菓子を頬張れば、幸せそうに両手で頬を押さえた。
町の人たちは、そんなミカの様子を見て笑っていた。
とても町を救った英雄とは思えない、どこにでもいる無邪気な少女の姿だった。
ラックは、そんなミカに付き合うように、一緒に回る。
二人で珍しい魔導具の屋台を見つけては、ラックが得意げに説明し、ミカが目を丸くして驚く。
ミカが食べ物の美味しさを饒舌に語れば、ラックは腹を抱えて笑った。
一方、ジルとローシュも、二人で祭りを回っていた。
ローシュが珍しい食べ物を口にしては、年相応の反応を見せる。それを見て、ジルは小さく笑みを浮かべていた。
ジルは、羽目を外す時も本気だと言わんばかりに、誰よりも祭りを謳歌していた。
「あ! ラ、ラック! 見てください、あそこ!」
日が少し傾き、夕焼けが町を美しく照らし出した頃。
ミカとラックは、町の中心の広場へと来ていた。
そこでは、楽団が軽快な音楽を奏で、その中心で、町の人たちが手を取り合うように踊っていた。
その時、輪を取り囲んでいた住人の一人が、二人に気付いた。
「お、みんな! 英雄さまたちが来てくれたぞ!」
そう声を上げると、住人たちは、待ってましたとばかりに集まってくる。
ミカは、子どもたちや住人に手を引かれるように、広場の中心へと連れて行かれた。
「はははっ! いいぞ、ミカ!」
ラックは、その様子を見ながら笑っていた。
ミカは、軽快な音楽に合わせて、子どもたちと手を取り合い、踊る。
ぎこちない足取りなのに、楽しくて仕方がない、というように。
純白の髪がふわりとなびき、夕焼けの光を受けて、淡い茜色にきらきらと染まっていた。
そのあまりに美しい姿に、男たちは思わずうっとりしてしまい、隣の女性に脇を小突かれる。
「ほう、なかなか楽しそうなことをしているな」
そこへ、ローシュを連れたジルがやってくる。
ジルは、広場の中心で踊るミカを見つけると、小さく笑みを浮かべ、ローシュの手を引いて中心へと向かっていく。
「ちょ、ちょっと! ジルさん! 僕は踊りませんよ!」
ローシュは、困惑した表情で断るが、ジルは気にも留めず、ずんずんと進んでいく。
「武人ならば、舞の一つくらい踊れなくてどうする」
ジルはそう言うと、音楽に合わせて、キレのある身のこなしで舞い始めた。
真紅の長髪が美しくなびく。女性らしさを含みながらも力強いその舞に、男たちは、再びうっとりしてしまった。
あまりに本格的な舞に、楽団のボルテージも上がっていく。
曲調は次第に熱を帯び、情熱的な旋律へと変わっていった。
ローシュは、そんなジルの舞に振り回されるように、ぐったりとしている。
ラックは、その様子を見て、腹を抱えて大笑いしていた。
そんなラックのもとへ、ミカが歩み寄る。
「……ラック。一緒に踊りませんか?」
踊りの熱を残した額には、うっすらと汗が光っている。頬は、走ったあとのようにほんのりと上気していた。
夕風に白い髪がふわりと揺れ、白い睫毛の下から、綺麗な瞳がまっすぐにラックを見つめている。
楽しくて仕方がない、という気持ちが、そのまま顔に咲いたような笑顔だった。
そのあまりに美しい表情に、ラックは一瞬、言葉を失う。心臓が、どくんと大きく音を立てた。
だが、それも一瞬のこと。ラックは小さく笑みを浮かべると、その手を取った。
「……ったく、仕方ないな」
二人が、広場の中心で手を取り合って踊る。
その横では、ジルがローシュを振り回すように舞っている。
軽快な音楽が、町を包んでいた。
町から笑い声が絶えることはなく、その輪の中で、ラックとミカは、誰よりも満面の笑みを浮かべていた。




