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優しい魔女へ  作者: 十 名鈴
第二部
23/28

第23話 大切な人

夜明けが世界を照らしていく。

傷ついた者はいた。だが、命を落とした者は誰一人としていなかった。

クラーケンを救うという偉業を成し遂げた者たちは、歓喜の声に包まれていた。


「っ……! いてて……。ははっ、そういや俺、怪我してたな」


安堵し、張り詰めていた糸が切れたラックは、思い出したようにふらつき、その場に腰を落とした。

ミカが駆け寄り、慌ててその体を支える。


「だ、大丈夫ですか?」


ラックは強がってみせるが、足取りはおぼつかない。

そこへ、船乗りに肩を借りたジルが歩み寄り、隣に腰を下ろした。


「……互いに無茶をしたな。だが、よくやった」


ジルが笑みを浮かべて拳を突き出すと、ラックも満面の笑みで、こつんと拳を合わせた。


「ミカ、ラック、ローシュ」


ジルは三人の顔を順番に見つめると、とても穏やかな表情を浮かべて、その頭をくしゃくしゃと撫でた。


「さぁ、帰ろう」


船はポーディリアへ向けて、ゆっくりと進み始める。


もう誰も下を向いていなかった。水平線から昇った朝日に照らされながら、船は帰っていく。

ラックは、歓喜に包まれる船員たちの様子を笑みを浮かべて見つめ、やがて吸い込まれるように眠りに落ちた。



港は、いつもと変わらない朝を迎えていた。

朝日に誘われるように、人々がそれぞれの支度を整えていく。少しずつ往来が増え始めた頃、日課の散歩をしていた老人が、ふと何かに気付いた。


船がない。航行は制限されていたはずなのに。

だが、老人は小さく笑みを浮かべると、そのまま散歩を続けた。

あの白い髪の少女と、その仲間たちが、何かを成し遂げたのだろう。そう直感していた。


そして、町にいつもの喧騒が戻り始めた頃、ようやく船は港へと帰ってきた。


「あ、あの……ジルさん。ラックは大丈夫なんですか?」


ミカは、ジルに抱えられたラックを見つめ、心配そうな表情を浮かべている。


「ああ。幸い、怪我は大きくないようだ。今は疲れで気を失っているだけだ」


ジルの言葉に、ミカはほっと表情を緩めた。

ラックを抱えるジルの腕は、わずかに震えていた。


「私は、ラックを療養所に連れて行く。お前たちは先に宿に戻ってくれ」


ジルはそう言って、ラックを抱えたまま、静かに町の中へと消えていく。

その傍らで、船乗りたちは上機嫌に肩を組みながら、桟橋へと降りていった。自分たちは偉業を成し遂げた英雄だという喜びに、全員が完全に浮かれている。


「では、戻りましょう。服も海水で濡れていますから、着替えないと」


ローシュの言葉にミカは頷き、二人は宿へと戻っていく。



その頃、町では、船乗りたちが住人に英雄譚を聞かせるように、四人の活躍を語っていた。

海の神であるクラーケンが、今回の幽霊騒ぎと船の航行制限の原因だったこと。

そして、とある四人が、クラーケンを退治ではなく「救う」という偉業を成し遂げたこと。

自分たちも、クラーケンと勇敢に戦ったこと。


町の住人たちは、最初こそ与太話だと思って相手にしていなかった。だが、船乗りたちの表情と、航行制限が解除されるという知らせを聞いて、それが真実なのだと気付かされた。



町が騒がしくなり始めた頃。

療養所のベッドでは、ラックが静かに寝息を立てて眠っていた。

ジルは、隣のベッドに腰掛け、剣の手入れをしている。


今回の件で明確な傷を負ったのはラックだけだったが、誰よりも消耗していたのはジルだった。常人であれば、意識を保つことさえ困難なほどに。

船乗り十数名と三人に目を配りながら、船そのものまでクラーケンの猛攻から守り抜いたジル。

船には多少の傷こそあれ、航海に支障はまったくなかった。


「ふっ……私もまだまだだな」


ジルは、わずかに震える手を見つめながら、静かに呟いた。

その時、扉が開き、船乗りの男が入ってきた。


「騎士様、そのボウズの様子はどうです?」


ジルは「問題ない」と一言だけ返す。その言葉に安堵の表情を見せた船乗りは、言葉を続けた。


「実は、祝いの宴を開くことになりましてね。そのボウズの目が覚めたら、教えてください」


船乗りはそう伝えると、足早に部屋をあとにした。

ジルは頷き、再び静かに剣の手入れを続ける。



一方、宿へ戻ったミカとローシュは、湯浴みを済ませ、部屋に集まっていた。


「ふぅ……さっぱりしましたね」


ローシュの言葉に、ミカは頷く。

ローシュは、先ほどのミカの様子を思い出しながら、口を開いた。


「すごい魔法でしたね、ミカさん」


「ふぇ!? あ、ありがとう……ございます」


ミカは慌てて頭を下げながらも、胸の奥が小さくざわついた。

また魔法を使ってしまった。自分が魔女であることは、隠さなければならないのに。

ミカの心配が伝わったのか、ローシュは静かに言った。


「心配いりませんよ。あの状況で、褒めこそすれ、責める人はいません。それに、魔法を使ったことも、僕たち三人以外は気付いてもいませんから」


その言葉は励ましではなく、ただの事実だった。

ジル、ラック、ローシュの三人は、ミカが魔女であることをすでに知っている。杖の扱いが上達していることも、よく分かっていた。


だが、あの火球は、ミカが扱える杖の力を遥かに超えていた。魔法によるものだと三人は気付いていたが、船乗りたちの目には、杖の魔導具の力を引き出したようにしか映っていなかったのだ。


「そういえば、さっき宿の主人から聞いたのですが……」


ローシュは、耳にしたことをミカに伝えた。

それは、町が総出で祝いの宴を用意しているという話だった。

ミカはその言葉を聞いた瞬間、ぱぁっと目を輝かせる。


「ほ、ほんとですか!? ご、ご飯がいっぱい……」


ミカはうっとりと虚空を見つめ、今にもよだれが垂れそうな顔で、笑みを浮かべていた。

だが、はっと何かを思い出し、焦るように口を開く。


「……あっ! で、でも……ラックがまだ……」


その気持ちを察したローシュは、頷いて答えた。


「安心してください。今は眠っています。ラックさんが目覚め次第、始めると言っていましたから」


その言葉に、ミカは心底ほっとした様子を見せ、ベッドに倒れ込んだ。


「よかった……。ラックも一緒じゃないと……」


ミカは気が抜けたのか、そのままゆっくりと眠りに落ちていく。すうすうと、静かな寝息が部屋に響いた。

ローシュは、小さく笑みを浮かべ、静かに部屋をあとにして、自分の部屋へと戻っていった。

そして、全員が疲れ切った体を癒やすように、そのままぐっすりと眠り続けた。


町は、いつものように一日が過ぎていく。

ただ一つだけ違うのは、町じゅうが色とりどりの装飾に彩られ、至るところで音楽が鳴り響いていることだった。


それは、町を救った英雄たちへの宴の準備だった。

海の神であるクラーケンを救ったのだから、この先ポーディリアには、未曾有の豊漁が訪れる。誰もが、そう信じていた。

酒場では、船乗りたちが四人の活躍を熱く語っている。


夜は更けていく。

町の喧騒が鎮まることはなく、準備は着々と進められていった。



◇◇◇



翌朝。

小さな窓から、爽やかな朝日が差し込む。

港町には、カモメの鳴き声がのどかに響いていた。

町はすっかり祝宴の準備を終え、色鮮やかに彩られている。


ミカは、いまだ穏やかな眠りの中にいた。

すうすうと静かに寝息を立て、白い長髪がベッドを覆うように広がっている。朝日が髪の一筋ずつに触れ、淡く縁取るように輝いていた。


「……おーい。起きろー」


誰かの声が響く。

ミカは、聞き覚えのある声に、まぶたをこすりながらゆっくりと目を開けた。

大きなあくびをして、うんと伸びをすると、寝ぼけ眼のまま、声の主へ視線を向ける。


「やっと起きたか。ははっ、相変わらずすげぇ寝癖だな」


目の前の人物は、ミカの顔を覗き込みながら、寝癖を指で弾いて笑っている。

ミカは、しばらく無言で見つめたあと、ようやく目の前の人物が誰なのかに気付き、驚きの声を上げた。



「……ふぇ? ……ラ、ラック!?」


ラックは、大きく笑っていた。


「か、勝手に入っちゃだめですよ……!」


ミカは、布団を握りしめ、恥ずかしさに頬をほんのり赤らめる。

ラックはその様子を気にも留めず、傍らの椅子に腰を掛けた。


「あ……! そ、そういえば、怪我は……大丈夫ですか?」


ミカはラックの怪我を思い出し、そばまで近付くと、顔を覗き込んで心配そうな表情を浮かべた。

ラックは、天井に届きそうなミカの寝癖にちらりと目をやってから、視線を戻して答える。


「ああ、傷が完全に塞がるまでは一週間くらいかかるけど、見ての通り元気だよ」


ラックは、頭に巻かれた包帯を親指でとんっと叩き、大げさな素振りで見せた。

ミカはその様子に安堵の表情を浮かべ、ベッドに倒れ込んだ。


「よ、良かったぁ……。と、ところで! こんな朝から勝手に入ってきて、どうしたんですか?」


ミカは起き上がると、頬を膨らませ、拗ねたように尋ねる。


「ん? ああ、町のみんなから伝言だよ。今日は……お祭りだってさ」


ラックの言葉に、ミカは飛び上がるように喜んだ。


「す、すぐ準備します! ……着替えるから、出て行ってください……っ!」


ミカは勢いのまま服に手をかけたところで、ラックの存在を思い出し、むっと睨みながら体を隠した。

ラックは笑いながら、部屋を出ていく。


「……良かった。ほんとに良かった……ふふっ」


ミカは、一人になると、ラックの無事を噛みしめるように、小さく呟いた。

母しかいなかった世界に、知らず知らずのうちに、大切な人が増え始めていた。

ミカは、幸せそうな笑みを浮かべたまま、身なりを整えていく。

鏡に映った自分の顔が、少しだけ柔らかく見えた。



ミカが宿の一階へ降りると、すでに三人の姿があった。

どうやら、ミカが一番遅かったらしい。

四人は、朝食もそこそこに済ませていく。


何故なら、今日は祭りだからだ。

美味い飯に、美味い酒。すでに町は香ばしい香りに包まれ、軽快な音楽が、通りの隅々にまで響いていた。



四人が宿から出ると、町の住人たちは鮮やかな衣装に身を包み、数え切れないほどの屋台が、所狭しと並んでいた。

軒先には、色とりどりの旗やランタンが揺れている。炙った魚の串、貝の蒸し焼き、蜜をまとった揚げ菓子。香ばしい匂いや甘い匂いが、潮風に混じって通りじゅうに漂っていた。


「わぁ……! すごい! すごいです!」


ミカは目を輝かせながら、ラックの手を取り、ブンブンと振り回していた。


その時、誰かがミカのもとへと歩いてきた。

船乗りの一人だった。あの戦いの前、怯えていた時にミカの言葉に支えられた、若い船乗り。

彼は、あの時のミカの言葉を、何度も胸の中で繰り返していた。

ミカと一緒にご飯が食べられる。そのために、勇気を出して誘いに来たのだった。


「ミ、ミカさん……! 俺と一緒に、祭りを回りませんか?」


若い船乗りは、顔を赤くしながら、ミカに声をかける。

ミカはキョトンとした表情を浮かべたあと、困ったように眉を下げて答えた。


「え、えっと……その……後で、皆さんでご飯……食べましょう!」


ミカはそう言うとペコリと頭を下げ、ラックの手を引き、はしゃぐように町の喧騒の中へと消えていった。

ラックは、呆れたような表情のまま、されるがままに引きずられていく。


「……行きましょうか」


ローシュが、静かに若い船乗りの肩に手を置く。


「ああ……そうだな」


若い船乗りは、力なく頷いた。

ジルも、まるで慰めるように、もう片方の肩へ静かに手を置く。

若い船乗りは、肩を落としながら、二人に慰められるように町の中へと歩き出した。



見たこともない食べ物、聞いたこともない音楽が、町を彩っている。


ミカは、まるでリスのように頬を膨らませながら、次々と屋台の食事を楽しんでいく。

串焼きにかぶりつけば、じゅわりと広がる脂に目を丸くし、蜜をまとった揚げ菓子を頬張れば、幸せそうに両手で頬を押さえた。


町の人たちは、そんなミカの様子を見て笑っていた。

とても町を救った英雄とは思えない、どこにでもいる無邪気な少女の姿だった。

ラックは、そんなミカに付き合うように、一緒に回る。


二人で珍しい魔導具の屋台を見つけては、ラックが得意げに説明し、ミカが目を丸くして驚く。

ミカが食べ物の美味しさを饒舌に語れば、ラックは腹を抱えて笑った。



一方、ジルとローシュも、二人で祭りを回っていた。

ローシュが珍しい食べ物を口にしては、年相応の反応を見せる。それを見て、ジルは小さく笑みを浮かべていた。

ジルは、羽目を外す時も本気だと言わんばかりに、誰よりも祭りを謳歌していた。




「あ! ラ、ラック! 見てください、あそこ!」


日が少し傾き、夕焼けが町を美しく照らし出した頃。

ミカとラックは、町の中心の広場へと来ていた。


そこでは、楽団が軽快な音楽を奏で、その中心で、町の人たちが手を取り合うように踊っていた。

その時、輪を取り囲んでいた住人の一人が、二人に気付いた。


「お、みんな! 英雄さまたちが来てくれたぞ!」


そう声を上げると、住人たちは、待ってましたとばかりに集まってくる。

ミカは、子どもたちや住人に手を引かれるように、広場の中心へと連れて行かれた。


「はははっ! いいぞ、ミカ!」


ラックは、その様子を見ながら笑っていた。

ミカは、軽快な音楽に合わせて、子どもたちと手を取り合い、踊る。

ぎこちない足取りなのに、楽しくて仕方がない、というように。


純白の髪がふわりとなびき、夕焼けの光を受けて、淡い茜色にきらきらと染まっていた。

そのあまりに美しい姿に、男たちは思わずうっとりしてしまい、隣の女性に脇を小突かれる。


「ほう、なかなか楽しそうなことをしているな」


そこへ、ローシュを連れたジルがやってくる。

ジルは、広場の中心で踊るミカを見つけると、小さく笑みを浮かべ、ローシュの手を引いて中心へと向かっていく。


「ちょ、ちょっと! ジルさん! 僕は踊りませんよ!」


ローシュは、困惑した表情で断るが、ジルは気にも留めず、ずんずんと進んでいく。


「武人ならば、舞の一つくらい踊れなくてどうする」


ジルはそう言うと、音楽に合わせて、キレのある身のこなしで舞い始めた。

真紅の長髪が美しくなびく。女性らしさを含みながらも力強いその舞に、男たちは、再びうっとりしてしまった。

あまりに本格的な舞に、楽団のボルテージも上がっていく。


曲調は次第に熱を帯び、情熱的な旋律へと変わっていった。

ローシュは、そんなジルの舞に振り回されるように、ぐったりとしている。


ラックは、その様子を見て、腹を抱えて大笑いしていた。

そんなラックのもとへ、ミカが歩み寄る。



「……ラック。一緒に踊りませんか?」



踊りの熱を残した額には、うっすらと汗が光っている。頬は、走ったあとのようにほんのりと上気していた。

夕風に白い髪がふわりと揺れ、白い睫毛の下から、綺麗な瞳がまっすぐにラックを見つめている。


楽しくて仕方がない、という気持ちが、そのまま顔に咲いたような笑顔だった。

そのあまりに美しい表情に、ラックは一瞬、言葉を失う。心臓が、どくんと大きく音を立てた。


だが、それも一瞬のこと。ラックは小さく笑みを浮かべると、その手を取った。


「……ったく、仕方ないな」


二人が、広場の中心で手を取り合って踊る。

その横では、ジルがローシュを振り回すように舞っている。



軽快な音楽が、町を包んでいた。


町から笑い声が絶えることはなく、その輪の中で、ラックとミカは、誰よりも満面の笑みを浮かべていた。

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