第2話 ありふれた魔女
「まさか……魔女……?」
少年は、目の前で起きた惨劇に怯えていた。
大人たちが、悪い子どもを躾けるために聞かせるおとぎ話。
その中に登場する、恐ろしい存在である魔女。
恐ろしい姿をしていて、人を食べて生きている化物だと聞かされていた。
だが、目の前の少女は違っていた。
美しい白髪。そして、老婆を優しく抱きしめる姿。
とても、おとぎ話で聞かされていた魔女には見えなかった。
「……怖いよね」
ふと、少女がゆっくりと少年に声をかけた。
少年の胸の中では、恐怖と、自分の命を救われたことへの感謝が複雑に絡み合っていた。
それでも、少年は恐怖を押し殺し、静かに答えた。
「怖いよ……。でも、助けてくれたから……ありがとう」
素直な感謝の言葉だった。
少年はゆっくりと立ち上がり、少女に向き直る。
「俺は……ラック。ラック・セスタード。カールドルハで魔導具店の見習いをしてる」
「……わ、私はミカ。ミカ・エステレラ。えっと……その、魔法使い……です」
ミカは目を合わせないまま、たどたどしく答えた。
「ミカ……か。とりあえず街に向かおう。安心してよ。命の恩人をどうにかしようなんて考えるほど、俺も最低じゃないから」
ラックの言葉に、ミカは少し安心したような表情を浮かべた。
「良かった……。お母さんに、怒られちゃうから……」
「お母さん……ね」
ラックは、どこか引っかかるものを感じながらも、それ以上は尋ねなかった。
「移動する前に、その汚れた服をどうにかしよう。着替えくらいあるんだろ?」
そう言って、ラックは先ほどまで乗っていた荷車に視線を向けた。
「は、はいっ! 持ってます……!」
ミカは足元の泥を軽く払い、荷車へと向かっていく。
その途中、老婆の遺体に目を向けた。
「……おばあさん。かわいそう……」
小さく呟くと、ミカはそのまま荷車の中へと入っていった。
(それだけ……? 変なやつだな……)
ラックは、ミカの後ろ姿を見つめながら、何とも言えない違和感を覚えていた。
やがて、着替えを終えたミカが荷車から出てくる。
手には、少し大きめのカバンが一つ。
着替えた服は飾り気のないシンプルなもので、どこにでもいる普通の少女にしか見えなかった。
「ミカ……だっけ? 何のためにカールドルハに行くんだ?」
ラックの問いには、純粋な疑問と、わずかな警戒心が含まれていた。
魔女と呼ばれる存在が、自分の住む街を目指している。
その目的によっては、街に恐ろしいことが起きるかもしれない。
そう考えるのも無理はなかった。
しかし、ミカから返ってきた答えは、拍子抜けするようなものだった。
「え、えっと……お母さんが、魔導具のことを勉強してきなさいって……。あと、いっぱい色んなものを見てきなさいって……」
ミカは俯き、少しもじもじしながら答える。
その姿は、どう見ても内気な少女そのものだった。
「へ……? そんだけ……?」
ラックは思わず聞き返した。
「は、はいっ! それだけ……です!」
ミカは、今度ははっきりと答えた。
そのあまりにも素直な返事に、ラックは思わず吹き出した。
「ぷっ……あははは! 何だよ、考えすぎた俺が馬鹿みたいじゃん!」
ひとしきり笑うと、ラックはミカに手を差し出した。
「改めてよろしく、ミカ。魔導具のことが知りたいなら、一緒に俺の店に行こう」
そして、少し照れくさそうに付け加えた。
「助けられた恩返しくらい、させてほしいからさ」
ミカは差し出された手を見つめ、少し戸惑った。
それから、おそるおそる手を伸ばし、握り返す。
「は、はいっ! ラックさん……! よ、よろしくお願いします……!」
同じくらいの歳の少年と、こうして言葉を交わすのは初めてだった。
ミカは、握った手の温かさを感じながら、胸の奥がほんの少し弾むのを感じていた。
「あ、ラックでいいよ。とりあえず街に向かおう」
ラックは周囲を見渡し、倒れた人々へと視線を向けた。
「この人たちのことは、衛兵に弔ってもらおう。いつまでもここにいたら、また襲われるかもしれないしな」
この世界では、強盗や野盗は決して珍しい存在ではない。
ラックの判断は、そうした現実を知っているからこそのものだった。
ミカも、特に異論を挟むことなく頷いた。
二人は並んで、ゆっくりと歩き始めた。
しばらくは、どちらも口を開かなかった。
ラックは隣を歩く少女をちらりと見た。
白い髪に、整った顔立ち。先ほどまで人が死んだ場所にいたというのに、彼女の表情には不思議なほど陰りがない。
あの老婆の亡骸を抱いて泣いていたとき、彼女は確かに悲しんでいた。
それなのに、今はもう前を向いて歩いている。
(……やっぱり、普通じゃないよな)
魔女。
幼い頃から聞かされてきた、恐ろしい存在。
人を惑わし、災厄を呼び、気に入らない人間を呪い殺す。そんな話を、ラックは何度も耳にしてきた。
目の前の少女が、本当にその魔女なのだろうか。
「……あの」
「ひゃいっ!?」
不意に声をかけられ、ラックは肩を跳ねさせた。
「い、いや! 何!?」
「えっ……? あ、あの、どうかしましたか?」
ミカは不思議そうに首を傾げている。
どうやら、ただ話しかけただけらしい。
「な、何でもない!」
「そ、そうですか……?」
ミカは少し困ったように眉を下げた。
「……あの、ラックさん」
「ラックでいいよ。さっきも言っただろ?」
「そ、そうでした……。じゃあ、ラック」
呼び慣れない名前を口にするように、ミカは小さく呟いた。
「……ラックは、その……カールドルハに住んでいるんですか?」
「いや、住んでるっていうか、店で働いてるんだ。住み込みでさ」
「お店……?」
「ああ。魔導具店だよ。俺はまだ見習いだけどな」
「魔導具……」
ミカはその言葉を繰り返した。
「……あの、魔導具って、どんなものなんですか?」
「どんなものって……。そりゃ、いろいろあるけど」
ラックは少し考え込んだ。
「火を起こすためのものとか、明かりをつけるものとか。あとは、魔物から身を守るためのものもあるな。使い方も仕組みも、それぞれ違うんだ」
「そうなんですね……!」
ミカは目を瞬かせた。
魔導具という言葉は知っていた。けれど、実際にどんなものがあり、どのように使われているのか、詳しいことは知らない。
母親から勉強してくるように言われたもの。
それがどんなものなのか、少しずつ分かっていく。
「……あの、そういうものは、たくさんあるんですか?」
「まあな。店によって扱ってるものも違うし、珍しいものだってあるぞ」
「珍しいもの……」
ミカは小さく呟いた。
知らないものが、まだたくさんある。
そう思うと、少し不思議な気持ちになった。
「じゃ、じゃあ……ラックのお店に行けば、魔導具について勉強できるんですか?」
「え? ああ、そりゃあ……できると思うけど」
「ほ、本当ですか!?」
ミカの表情が、ぱっと明るくなった。
あまりにも勢いよく返されたので、ラックは思わずたじろいだ。
「お、おう……。見習いの俺に教えられることなんて限られてるけどな」
「それでも、十分ですっ!」
ミカは嬉しそうに微笑んだ。
母親から言われたことを、少しでも早く果たせる。
それが、何よりも嬉しかった。
「……良かった」
「え?」
「あ、いえ……。お母さんも、きっと喜んでくれると思うので」
そう言って、ミカは胸元の銀色のロケットにそっと触れた。
「お母さんが……魔導具について勉強して、いろいろなものを見てきなさいって。そうすれば、きっと私のためになるからって……」
「へえ。お母さんに言われて来たのか」
「はいっ!」
ミカは迷いなく頷いた。
「お母さんが喜んでくれたら……私も嬉しいんです」
その声は、どこまでも穏やかだった。
母親のことを話す彼女の表情には、疑いも、不安もない。ただ、母親が喜んでくれることを心から信じている。
ラックは、何となくそれ以上を尋ねられなかった。
「……そっか。いいお母さんなんだな」
「はいっ!」
またしても即答だった。
あまりにも迷いがなかったので、ラックは少し笑ってしまった。
「ははっ、即答かよ」
「えっ? だ、だって……お母さんは、優しいですから」
ミカは頬を赤くし、照れたように視線を逸らした。
その様子は、どこにでもいる女の子と何も変わらなかった。
だからこそ、ラックは戸惑う。
この少女は本当に、あの魔女なのだろうか。
「……まあ、いいか」
「?」
「いや、何でもない。それより、もう少し歩けば街道沿いの休憩所があるはずだ。そこで少し休もうぜ」
「休憩所……?」
ミカは顔を上げた。
「ああ。街まではまだ少し距離があるからな」
「そ、そうなんですね」
ミカは周囲を見回した。
木々の間から差し込む陽光。道端に咲く小さな花。頭上を飛び交う鳥の声。
それらを一つ一つ確かめるように、彼女はきょろきょろと視線を動かしている。
「……どうかしたのか?」
「い、いえ! その……」
ミカは少し迷ったあと、道端の草むらを指差した。
「あそこにいる虫……初めて見ました」
「虫?」
ラックが目を向けると、草の上に小さな緑色の虫が止まっていた。
「……バッタだろ?」
「ばった……?」
「いや、バッタも知らないのか?」
「えっと……名前は、初めて聞きました」
ミカは真剣な顔で虫を見つめている。
そのあまりにも真面目な様子に、ラックは思わず吹き出した。
「ははっ! 何だよ、それ!」
「えっ!? わ、私、何か変なことを言いましたか!?」
「いや、だって……バッタだぞ? そこら辺にいくらでもいるだろ!」
「そ、そうなんですか……?」
ミカは驚いたように目を見開いた。
それから、もう一度バッタへ視線を戻す。
「……そうなんだ」
知らなかったものの名前を教えてもらえた。それだけのことが、彼女には新鮮だった。
「……ミカって、もしかして外に出ること少なかったのか?」
「は、はい。あまり遠くには行ったことがなくて……」
「ふうん……」
ラックは彼女の白い髪を眺めた。
どこかの貴族の娘なのだろうか。それとも、魔女というのは人里離れた場所で暮らしているものなのだろうか。
気になることはいくつもあったが、聞いていいのか分からなかった。
「……じゃあ、街に着いたら驚くかもな」
「街に?」
「カールドルハは大きいぞ。人も多いし、店もいっぱいある。魔導具だって、いろんなところで売ってるからな」
「すごい……いろんなお店があるんですね……」
ミカは目を輝かせた。
街には、母親の言いつけを果たすために必要なものがある。
そう思うと、街へ向かう足取りまで軽くなる気がした。
「……あの、ラック」
「ん?」
「街に着いたら……すぐにお店を見せてもらってもいいですか?」
「え? ああ、もちろん。そんなに急がなくても逃げたりしないって」
「そ、そうですよね……!」
ミカは恥ずかしそうに俯いた。
「すみません。早く勉強できたら……お母さんも喜んでくれると思って……」
ラックは少し不思議そうに彼女を見た。
「……そんなに、お母さんに褒めてもらいたいのか?」
ミカはきょとんとした。
そして、当たり前のことを聞かれたように頷く。
「はい。お母さんに喜んでもらえるのが、一番嬉しいですから」
ラックは返事に迷った。
母親が好きなのは分かる。自分だって、世話になった人に褒められれば嬉しい。
けれど、この少女は何かをするたびに、まるで母親の顔を思い浮かべているようだった。
それが少し不思議で。
けれど、今はまだ、その理由を聞く気にはなれなかった。
「……そっか。じゃあ、なるべく早く案内してやるよ」
「ほ、本当ですか? ありがとうございます!」
ミカは嬉しそうに笑った。
ラックは、そんな彼女を見て小さく息を吐く。
魔女という言葉から想像していた存在とは、ずいぶん違う。
まだ怖くないと言えば嘘になる。
先ほど目の前で見せられた魔法を思い出せば、背筋が冷たくなることだってある。
それでも。
隣を歩く少女は、知らないものを見つけては不思議そうに首を傾げ、母親の話になると嬉しそうに笑う。
そんな彼女を、いつまでも化け物と呼ぶ気にはなれなかった。
「……なあ、ミカ」
「な、なんですか?」
「街に着いたら、まずは店に案内してやるよ。そのあと、時間があれば街の中も見て回ろうぜ」
「……!」
ミカは一瞬、ぽかんと口を開けた。
「街の中も……ですか?」
「ああ。せっかく来たんだし、いろんなものを見ておいた方がいいだろ?」
「……はいっ! ありがとうございます、ラック!」
ミカは満面の笑みを浮かべた。
母親から言われた勉強もできる。
知らないものも、たくさん見られる。
これなら、きっとお母さんも喜んでくれる。
そう考えるだけで、胸の奥が温かくなった。
「……お、おう」
まっすぐに笑いかけられ、ラックは何となく気恥ずかしくなって頬を掻いた。
二人の間にあった気まずい沈黙は、いつの間にか消えていた。
しばらく歩いたあと、ミカは何かを言いたそうに、ちらちらとラックを見始めた。
「あ、あの……ラック。私たちって、その……」
「ん?」
ミカは俯き、指先をもじもじと動かす。
「その……と、友達ってことでいいんですか……?」
ラックは、きょとんとした。
「い、いや……それはどうだろ……」
予想もしていなかった問いに、思わず言葉が詰まる。
ミカの顔から、見る間に笑みが消えた。
「……そ、そうですよね! いきなり友達なんて……」
しゅんと肩を落とすミカを見て、ラックは大きなため息をついた。
「はぁ……。まあ、これから友達になればいいだろ? そんな落ち込むなよ」
ラックの胸には、まだ魔女への恐怖が残っていた。
目の前にいるのは、どう見ても普通の少女だ。
それでも、先ほど目撃した光景と、彼女が魔法使いだと名乗った事実を忘れられるわけではない。
だからこそ、すぐに友達だと言い切ることができなかった。
ミカは顔を上げた。
まだ少し落ち込んでいるものの、先ほどよりも表情が明るくなっている。
これから友達になれるかもしれない。
その可能性を思うだけで、ミカの胸はじんわりと温かくなった。
「ほら、見えてきたぞ。あれがカールドルハ。魔導具で栄えた大都市だ」
ラックの指差す先に、広大な街並みが姿を現した。
高くそびえる建物。遠くまで続く街道。そして、見たこともないほど大きな街。
その光景に、ミカは思わず声を上げた。
「わぁ……! す、すごいです! これがカールドルハ……!」
ミカの瞳は、希望に満ちていた。
これから、たくさんのことを知ることができる。
そして、それをお母さんに伝えれば、きっと喜んでくれる。
ミカは、目の前に広がる街並みをただ見つめていた。




