第1話 約束
魔法。
それは神がもたらした奇跡であり、世界を導き照らすもの。
魔法を行使する者は天からの使徒であり、人々に救いを授ける光である――と、いつかの古いおとぎ話には記されていた。
「うんっと昔にはね、それはもうたくさんの魔法使いがいたんだよ」
遠い記憶の底から、とても優しく穏やかな声が響く。
ぬくもりに満ちたその声は、目の前に座る幼い少女に向けられたものであり、母からの無償の愛の証でもあった。
「今は減っちゃったの……?」
少女はあどけない瞳を瞬かせ、疑問を投げかける。
母は少しだけ哀しげな影をその瞳に宿しながらも、穏やかな微笑みを崩さずに少女の頬を撫でた。
「そうね……。今はみんないなくなっちゃったね」
「どうして?」
「みんな、遠いところへ行ってしまったの。でもね、ミカ。忘れないで。あなたは私達みんなの宝物なのよ」
愛おしそうに少女の頭を撫で、小さな体を力強く、けれど壊れ物を扱うように優しく抱きしめる。
母の肌の匂い。心臓の鼓動。温もり。
その一つひとつが、幼い少女の心を満たし、深い安心感を与えていた。
「私の愛しい愛しい……ミカ」
◇◇◇
「んん~……ふわぁ。いっぱい寝ちゃったなぁ」
木漏れ日と暖かな朝日に包まれ、一人の少女が目を覚ました。
少女の名は、ミカ・エステレラ。
雪のように真っ白な長髪と、それに沿うように長くしなやかな白い睫毛。
どこか浮世離れした美しさを持つ少女だった。
「……大丈夫だよ、分かってるから。お母さん」
ミカは華奢な指先で、首にかけた小さな銀色のロケットを愛おしそうに握りしめた。
ひんやりとした金属の感触が、胸の奥に残る母の温もりを呼び覚ます。
少女はいま、ガタガタと音を立てて揺れる馬車の荷台に乗っていた。
目指す先は、魔導具の栄光によって目覚ましい発展を遂げた巨大都市、カールドルハ。
数多くの先進的な魔導具を取り扱い、各地との貿易の要でもある繁栄の街だ。
荷台の中には、ミカの他にも幾人かの男女が身を寄せるように座っていた。
旅の退屈を紛らわすように、一人の年配の女性がミカへと視線を向け、柔らかな笑みを浮かべる。
「あら、よく眠っていたわね。あなたはカールドルハに何をしにいくの?」
「え、えっと……! 魔導具について勉強してきなさいって言われたので……!」
突然声をかけられたミカは、肩をびくっと跳ねさせながら慌てて答えた。
人見知りと緊張からか、頬をほんのり赤く染めながら言葉を続ける。
「お、お母さんが……いっぱい勉強すれば……褒めてくれるから」
そう言って、ミカは再び首元のロケットを宝物のように握りしめた。
その健気な様子に、老婆は目尻の皺を深めて優しく目を細める。
「うふふっ。それは頑張らないといけないねぇ。お母さんも楽しみに待っているでしょう」
「は、はいっ! 私、頑張るんですっ!」
ミカは大げさなほど元気に頷いてみせた。
馬車の中に、ぽかぽかと暖かな空気が広がる。
未知の土地へ向かう不安の中、最初に優しく声をかけてくれたこの老婆は、どこか母を思わせるような安心感を纏っていた。
「それにしても……魔導具ねぇ。私はどうもあれが苦手でね。なんだか恐ろしい物のような気がしてならないのさ……」
老婆は荷台の隅に置かれた魔導具の箱へ視線をやり、小さく息を吐いた。
「あ、あのっ! おばあさんは……何をしに街に行くんですか……?」
ミカが尋ねると、老婆は嬉しそうに表情を和らげた。
「ああ。息子が結婚するんだよ」
「結婚……!」
「昔はとってもヤンチャで手のかかる子だったんだけどねぇ……今は街で自分の店を持って、立派にやっていてね」
老婆は荷台の隅に置かれた大きな荷物へ目を向けた。
使い古されてはいるものの、丁寧に手入れされている。
「だからね、相手の娘さんに、私が若い頃に使っていた道具を譲ろうと思ってね」
「す、素敵ですっ! きっと喜んで……くれると思います」
「ありがとうねぇ。そう言ってもらえると嬉しいよ」
老婆は嬉しそうに笑った。
――その時だった。
突如として馬車の前方で、激しい爆発音が響き渡った。
「きゃああっ!?」
「な、なんだ!?」
悲鳴と怒号が交錯する。
衝撃で御者台が吹き飛び、制御を失った馬車が街道を大きく逸れて猛スピードで暴走する。
視界が激しく回転した。
直後、巨大な木々へと激突する。
凄まじい破壊音とともに荷車が大きく傾き、乗客たちの身体が宙を舞った。
散乱する荷物と砕け散る木枠。
さらには血を流して動かなくなる者や、うめき声をあげる者。
「ッ……! いたた……おばあさん……大丈夫――」
激痛に耐えながら、ミカは真っ先に隣にいた老婆へ手を伸ばした。
しかし、その手は届かなかった。
バキッ!
歪んだ荷車の扉が、力任せに蹴破られる。
差し込んできた木漏れ日を遮るように、数人の男たちが姿を現した。
その手に握られているのは、泥にまみれた刀剣や斧。
「ハハハッ! この道で張ってて大正解だったな!」
「へへっ、いいもんが転がってやがるぜ」
男たちは、倒れている乗客たちを見回して笑っていた。
リーダー格と思われる男が唾を吐き捨てる。
「お前ら、運が悪かったなぁ。金目のものを残らず奪え。抵抗するやつは殺せ」
男たちが一斉に雪崩れ込む。
乗客たちの悲鳴が響いた。
「い、痛いっ! やめて……!」
ミカも髪を乱暴に掴まれ、泥と砂利の上へ叩きつけられた。
膝と肘を強く打ちつける。
痛みに視界が滲んだ。
周囲では容赦ない暴力が吹き荒れていた。
悲鳴、命乞い。そして、肉が裂ける不快な音。
その中でミカが見つけたのは、血を流しながらも、大きな荷物を必死に抱きかかえている老婆の姿だった。
「これだけは……これだけは持っていかないでおくれ……!」
老婆は震える腕で荷物を抱きしめる。
「息子の……嫁になる子への、大切な……っ!」
「あぁ? くだらねえこと抜かしてんじゃねえよ、ババア!」
男の一人が鬱陶しそうに舌打ちした。
そして――
大剣を振り下ろす。
直後、鈍い音が響いた。
「あ……」
老婆の声が途切れた。
抱きかかえられていた荷物が、手から零れ落ちる。
泥に染まっていく。
老婆の瞳から光が消え、その身体が力なく地面へ倒れ伏した。
「おばあ……さん……?」
ミカの時が止まった。
つい数分前まで、息子の幸せを語っていた。
嬉しそうに笑っていた、その人がもう動かない。
「……あ……」
身体が震えた。
怖い、怖くて仕方がない。なのに、逃げることもできない。
その時だった。
「く、来るな……!」
少し離れた場所から、少年の声が響いた。
同じ馬車に乗っていた、まだ幼さの残る少年だった。
カールドルハの魔導具店で働く見習いで、商品の納品を終えて戻る途中だったらしい。
少年は腰を抜かしながらも、懐から護身用の小さな魔導具を取り出した。
魔石が埋め込まれた、小さな筒状の道具。
「来るな……! 来るんじゃない……!!」
震える手で男へ向ける。
魔石が淡く光り、小さな火炎弾が放たれた。
しかし、恐怖で手元が狂っている。
火炎弾は男の足元の泥を跳ね上げただけだった。
「ハッ。なんだそりゃ? 玩具か?」
男が笑う。
次の瞬間には、少年の目の前まで迫っていた。
手首を踏みつけられる。
「いっ……!」
魔導具が地面へ落ち、男はそれを踏み砕いた。
少年の身体が勢い良く蹴り飛ばされる。
「カハッ……!」
地面を転がった少年の胸元を、男が足で踏みつけた。
そして、血に濡れた剣先を喉元へ突きつける。
「頼む……助けて……誰か……!」
少年が泣きながら叫ぶ。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死に周囲を見回す。
そして――ミカと目が合った。
助けてほしい、そう訴える目だった。
男の腕が持ち上がり刃が陽光を反射して、冷たく光った。
その瞬間。
ミカの脳裏に、母の声が蘇った。
『魔法使いだということは、決して人に明かしてはいけないよ』
『約束よ、ミカ。私達を傷つける人たちがいるから……だから、絶対に』
「……お母さん」
涙が頬を伝う。
母との約束。
それだけは、絶対に破ってはいけない。
ミカはそう教えられてきた。
魔法を使ってはいけない、魔法使いだと知られてはいけない。
それが、自分と母を守るために必要なことだから。
分かっている、分かっているのに。
目の前には、今にも消えてしまいそうな命がある。
そして少し離れた場所には、もう二度と動かない老婆がいる。
息子の結婚を、あんなに嬉しそうに話していた。
未来を楽しみにしていた。
「……っ」
ミカは唇を噛んだ。
怖い。
このまま何もしなければ、自分は助かるかもしれない。
母との約束も守れる。
それでも――
ミカは、震える足で立ち上がった。
「……ごめんね、お母さん」
ロケットを強く握りしめる。
「約束……破っちゃうね」
次の瞬間。
男の動きが止まった。
ミカが、手を伸ばす。
ただ、それだけだった。空気が震える。
地面に落ちていた小石が、わずかに浮いた。
「な――」
男の身体が、見えない何かに弾かれた。
そのまま地面を転がり、動かなくなる。
「な、なんだ……!?」
別の男が叫ぶ。
ミカは何も言わなかった。
ただ、震える手をもう一度動かすと、男たちの足元から地面が大きく裂けた。
「う、うわあああっ!」
逃げようとする男たちを、見えない力が次々と吹き飛ばしていく。剣も、斧も、怒号も。
すべてがミカの前では意味をなさなかった。
男たちだった物が地面に転がっている。
やがて森に静寂が戻り、ミカは立ち尽くしていた。
自分の手を見つめるミカ。
魔法を使ってしまった、母との約束を破った。
その事実だけが、頭の中を何度も巡っていた。
「……どうしよう」
ミカの声が小さく震える。
「お母さん……怒るかな……」
その言葉が零れた瞬間。
ミカは、老婆の亡骸へ駆け寄った。
泥の上に膝をつき、その身体を壊れ物のように抱きしめる。
「ごめんなさい……」
もう温かくない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」
涙が止まらなかった。
けれど、その涙が何に対するものなのかは、ミカ自身にもまだ分かっていなかった。
目の前で人が死んだこと、自分の魔法で人を傷つけたこと。
それが怖いのかもしれない。
けれど、それ以上に胸を締めつけているのは――
「お母さん……」
胸元のロケットを握りしめる。
「約束……破っちゃった……」
それは、ミカにとって何よりも大きな罪だった。
その凄惨な光景を、間近で見ていた少年がいた。
少年は腰を抜かしたまま、震える手で地面を這い、目の前の少女を見上げていた。
男たちを退けた力。
魔導具では説明できない、古い伝承の中にしか存在しないはずの力。
少年はがちがちと歯を鳴らし、絶望と畏怖の混ざった声を漏らす。
「そんな……」
少年の目に映る少女は、白い髪を泥に濡らし、亡骸を抱きしめながら泣いていた。
けれど、その少女が使った力だけは、少年の知るどんな魔導具とも違っていた。
「まさか……魔女……?」
その言葉は、静まり返った森の中へ、冷たく吸い込まれていった。




