第19話 海に呼ばれて
港町が夕闇に包まれていく。
厚い雲の隙間からわずかに夕日が差し込み、暗い空から降り始めた静かな雫が地面を濡らしていく。
住人たちは本格的な雨が降ることに備え、それぞれの住居や店の中へと帰っていこうとしていた。
人の往来がめっきり減った頃、荒れ始めた天候の中を、一人で船着き場へと向かう影があった。
それはラックだった。
四人で立てた作戦はこうだった。
ニクシーに感情の有無は分からないが、余計な警戒をされぬよう、標的になり得るラックのみが単身で船着き場へと向かう。
ニクシーに誘われる原因はその「声」にあり、歌のようにも聞こえる幻聴を防ぐために耳栓を装着することになった。
それでも完全に防ぎきれる保証はない。
そのため、万が一海へと引きずり込まれぬよう、ラックの胴体には頑丈なロープがしっかりと括り付けられていた。
ラックがまず一人で桟橋へと足を踏み入れる。
ローシュは付近の高台から持ち前の優れた視力を活かして観察と支援。
ミカは船着き場に浮かんでいる舟の中で身を潜め、杖の炎による不意の迎撃。
そしてジルは一足飛びに駆けつけられる距離に身を潜め、全体の状況把握と指示を執ることとなった。
「ふぅ……。せっかく覚悟決めてんだ。……来るなら早く来てくれ」
ラックはそう呟きながら、桟橋へと一歩、また一歩と足を踏み出していく。
木製の足場にラックが差し掛かったその時。
どこからか女性の声にも似た不気味な音が、静かに響き始めた。
「ははっ……おでましかよ」
そう小さく吐き捨てたラックの視界の先で、海面の一角がぼんやりと揺らめいていた。
ポツポツと降る冷たい雨の音に合わせるように、不気味で甘やかな声が辺りに流れ出す。
その影は暗い海のすぐ手前に陣取り、ラックへと手招きをするような動作を見せていた。
「くそっ……! 耳栓してても変な感じするな……」
ラックは両手で耳を強く抑えながら、慎重に距離を詰めていく。聴力だけでなく、精神の深部にまでその声が滲み染み付いていくような感覚に、思わず顔をしかめた。
「まだだ……。まだ早い、もう少し……」
ラックは片手で愛用の剣の柄を握りしめ、いつでも抜刀できる体勢を保ったまま、ゆっくりと間合いを詰める。
すると、ニクシーは何やら満足げな笑みを浮かべているような様子を見せ、手招きをさらに大きくしながら声を強めてきた。
「……今だっ! ミカッ!」
ニクシーまで残り3歩ほどの距離に迫った瞬間、ラックは剣を抜き放ち、身を隠しているミカへ向けて叫んだ。
その呼び声に呼応するように、すぐ隣の海上に浮かぶ船の上からミカが姿を現す。
手に構えた杖の先端にはすでに巨大な火球が形成されており、ラックの叫び声が収まると同時に、それを容赦なくニクシーへと放った。
凄まじい爆炎があたりをオレンジ色に明るく照らし出し、ニクシーはその全身を激しく悶えさせるように燃え盛っていく。
「や、やった……! やりましたよ! ラック!」
ミカは確かな手応えを肌で感じ取り、満面の笑みを浮かべながらラックの元へと駆け寄ってきた。
パチパチと炎が爆ぜる音が、雨音の中に静かに溶けていく。
ラックとミカが作戦の成功を喜び合っていると、後方からジルの鋭い声が響きわたった。
「まだだッ! そこから離れろ!」
その警告に反射的に反応し、ラックとミカは慌ててニクシーから大きく距離を取る。
炎に包まれているはずのニクシーは、その全身が激しく燃え上がりながらも、なおも手招きをするように不気味に蠢き続けていた。
その異常な光景を影から見守っていたジルとローシュは、強い違和感を覚えていた。
「くそっ……! 効いてるはずだろ……!」
ラックは剣を抜き放ったまま、ミカとニクシーの間に立ちはだかるように身構えた。
だが、ニクシーは不気味で苦悶の声を上げているにもかかわらず、なぜかこちらに反撃してくる気配は見せなかった。
その時、身を潜めていたジルとローシュが桟橋へとゆっくり歩いてくる。
「ラック、ミカ。武器を収めろ」
ジルはそう告げながら二人の横を通り過ぎ、燃え盛るニクシーへと近づいていく。
そのあまりに無防備な行動に、ミカは驚いて声をあげた。
「あ、危ないですよ……! 離れてくださいっ!」
そう言って再び杖を構えようとするミカの手を、ローシュがそっと押さえて制した。
「大丈夫ですよ、ミカさん。どうやら、もう危険は無いみたいですから」
ジルはカツカツと足音を響かせながら、ニクシーのすぐ間近まで歩み寄る。
ニクシーは接近してくるジルの存在を気にする様子すら見せず、未だ虚空へ向かって手を招く動作を繰り返していた。
「……やはりか……」
ジルはそこで足を止めると、静かに呟いた。
そしておもむろに剣を抜き放ち、その切先を海面へと向けて一気に振るった。
放たれた凄まじい剣圧と爆風により周囲の海水が豪快に巻き上げられ、炎に包まれていたニクシーへと大量の水が降り注ぐ。
「な、何してんだよ……ジル!」
ラックは目の前で繰り広げられた不可解な行動に理解が追いつかず、ジルへと問いかけた。
ジルは剣をスッと鞘に収めると、二人を振り返り落ち着いたトーンで告げる。
「おかしいと思っていた。本来ニクシーに襲われたならば、怪我人ではなく行方不明者になっているはずだ」
そう、ニクシーは本来、海に落ちた人間の生命力を吸い取り捕食すると言われている生物だった。
それにもかかわらず、この街では被害者が出ているにもかかわらず、誰一人として行方不明者になっていない。
バラバラだったパズルのピースが、頭の中で一つずつカチリと音を立てて合わさっていく。
人魚伝説、ニクシー、そして被害に遭った者が全員「屈強な男」であったという事実。
そして、死者が一人生じていないという決定的な事実。
「ニクシーは襲っていたのではない。恐らく……助けを求めている」
ジルのその言葉に、三人は大きく目を見開いて言葉を失った。
「で、でも……本当に怪我した人もいましたよ……?」
ミカの戸惑うような問いかけに、ジルは小さく頷いて言葉を続ける。
「そう、そこだ。それこそが事態を誤解させていた原因だった」
「なぜ屈強な男ばかりが狙われていたと思う?」
ジルの問いかけに、ローシュは深く考え込んだ末に目を見開いた。
「まさか……『強者』と判断したからですか?」
ローシュの推理に、ジルは満足げに頷く。
しかしラックとミカはまだその真意を完全に理解しきれておらず、きょとんとしていた。
「そうだ。そして……あれが奴に敵意などないという一番の証拠だ」
ジルは振り返り、再びニクシーへと視線を向けた。
ニクシーは先ほどまでミカの炎に包まれていたにもかかわらず、攻撃してくる気配は微塵もなく、ただ声を漏らしながら虚空へ手招きを繰り返しているだけだった。
「敵意がなくても、結果的に怪我人は出ちまったってことか……」
ラックはどこか納得したような表情を浮かべると、ようやく抜いていた剣を収めた。
ミカはまだ杖をきつく握りしめたまま、不安そうに辺りをキョロキョロと見回している。
「大丈夫だよ、ミカ。……ほら、声も止まってるだろ」
ラックの言葉に促され、ミカは再びニクシーの方へと目を向けた。
あれほど響いていた気味の悪い声はぴたりと止み、ニクシーはただ静かに、手招きをしているだけだった。
「あの声は、自分たちの要求に応えられる強者か否かを判断するためのものだったのだろう。私たちを……試していた、という所か」
ジルはそう締めくくると、三人へと向き直った。
だがその表情には、まだ警戒の色が残されていた。
魔物が人間に救いを求めるというこの異常事態の裏には、さらなる巨大な危険が隠されているかもしれないと踏んでいたからだ。
「あ、あの……ごめんなさいっ!私……燃やしちゃって……」
ミカは言葉すらまともに通じないであろうニクシーに向かって、申し訳なさそうにペコリと頭を下げた。
他の三人は、魔物に対して謝罪するミカの姿に少しだけ驚きを見せながらも、すぐにどこか納得したように表情を緩める。
──そうだ、ミカはいつだってこういうやつだったな、と。
その時、ニクシーはゆらゆらと揺らめいていた影の動きをピタリと止めた。
そして、ゆっくりとその手が海上の一点へと向けられる。
そのまま、暗く蠢く不気味な沖合の方向を指し示すように、ぴたりと動きを止めた。
まるで、「あそこへ行ってくれ」と懇願するかのように、ただひたすら暗い海の先を指し示している。
「海……ですか。困りましたね」
ローシュは指し示された真っ暗な海原に視線を向け、眉をひそめて呟いた。
海は先ほどよりもさらに荒れ始め、冷たい雨粒も次第に勢いを増してきている。
そして何より一番の問題は、どうやってその沖合へ向かうかだった。
船はあるが、誰も操縦などできるはずもなく、そもそも港の船は現在すべて運航を停止させられているのだ。
「一度衛兵の詰所に戻ろう。船を使うにしても、協力者が必要だ」
ジルの冷静な判断に三人は力強く頷き、足早に桟橋をあとにする。
その背後では、ニクシーがただ静かに暗い海を指差し続けていた。
◇◇◇
決して広くはない詰所の室内には、衛兵たちをはじめ、何人かの船乗りたちが集められていた。
それはこれまでの経緯の報告と、この先の海への協力を仰ぐためだった。
「事情は分かりました……。しかし……」
集まった衛兵たちは一様に難色を示し、気まずそうに目を伏せた。
夜の荒れた海に出ること自体があまりに危険であり、ましてや魔物の言うことなど到底信じられるはずもなかったからだ。
それは船乗りたちも同じだった。
彼らは実際に自身の仲間が襲われ、被害に遭っているのだ。
魔物の退治に協力するというのならまだしも、その魔物を「救う」ための航海になど、とてもではないが頷けるわけがなかった。
「頼むっ! 俺たちじゃ荒れた海には出られない! あんたたちの力が必要なんだ!」
ラックは詰所の中心で、必死になって頭を下げて頼み込む。
その隣ではミカやローシュも同じように頭を下げ、協力を乞うていた。
なお、その場にはジルの姿はなく、どうやら別の部屋にいるようだった。
「ですが……あまりにも危険すぎます。残念ですが──」
衛兵の責任者がついに断りの言葉を口にしようとした、その瞬間。
その重苦しい空気を遮るように、数人の男たちが詰所の扉を勢いよく押し開けて足を踏み入れてきた。
「あ、あんたたちは……もう身体は大丈夫なのか?」
船乗りの一人がその男たちに気づき、驚きと戸惑いの入り混じった声をあげる。
部屋に現れた男たち──それは、ほかならぬニクシーに襲われ、これまで療養所で眠っていた男たちだった。
ニクシーの声による幻覚で長らく正気を失っていたはずだが、つい先ほど目を覚ましたばかりなのだという。
そして、その男たちの後ろから、静かにジルが姿を現した。
その時、先頭に立っていた男の一人が、真っ直ぐに前を見据えて口を開いた。
「……俺たちに、協力させてくれ」
その予想外すぎる申し出に、衛兵や船乗りたちは驚愕の表情を浮かべ、激しい動揺を見せる。
被害の当事者である彼らが、なぜ自ら進んで魔物を助けるための協力など申し出るのか、誰にも理解できなかったからだ。
男は自分の手のひらをじっと見つめると、それをぐっと強く握りしめ、言葉を続けた。
「あのニクシーって奴に、敵意がなかったのは……俺たちが一番よく分かってんだ」
その男の言葉に、後ろに控える他の男たちも深く頷いて同調する。
「幻を見せられたときによぉ……『助けて』って言われているような気がしてならねぇんだよ」
男は力強く拳を突き出し、自分自身を、そして周囲の仲間たちを奮い立たせるように声を張り上げた。
「それによぉ、ここは一体誰の街だ? 俺たちの街じゃねぇのかよっ!?」
「他所から来た旅の騎士様にばかり助けてもらって……それでいいのかよッ!」
男はさらに拳を高く突き上げ、自分自身を、そして周りの躊躇う衛兵や船乗りたちの心を激しく揺さぶるように叫んだ。
「俺たちが街を守るんだよ! そうだろ、お前ら!」
その熱い魂の叫びを聞いた瞬間、衛兵や船乗りたちの体が震え、次々と力強く拳を握りしめた。
そして、一瞬の静寂ののち。
割れんばかりの雄叫びが詰所に轟いた。建物自体が揺れるほどの勢いで拳を突き上げ、男たちはみな一様に戦意を燃え上がらせていた。
ジルは満足げな笑みをそっと浮かべながら、黙ってその場で拳を軽く突き上げる。
それを見たミカも真似をするように小さな拳を掲げ、それに続くようにローシュとラックも力強く拳を突き合わせた。
詰所の中は、未来を切り開く決意の歓声に満ちあふれていた。
冷たい雨が打ちつける暗い夜の中、驚異的な手際ですぐに出港の手はずが整えられていった。
海面はすでに荒れ狂い始めていたが、今の男たちの胸に恐怖の色はなかった。
全員が胸の内に熱い高揚感と、自分たちの街を守るという強い使命感を抱き、四人の旅人たちを険しい沖合へと導くために懸命に準備を進めていく。
「なぁ、ミカ。なんかさ……こういうのって、すっげぇかっこいいよな」
ラックは自分も手伝いの木箱を抱えながら、同じように荷物を運ぶミカに声をかけた。
ミカはその言葉に大きく頷き、嬉しそうな笑みを浮かべる。
「はい……。私たちが、しっかり守らないと……ですよね?」
ミカの頼もしい言葉に同調するように、背後から一際大きな木箱を軽々と片手で担いだジルが声をかけてきた。
「ああ。この先に何が待っているのかは分からない。だが、この街の人々の為にも、そして我々の旅を続けるためにも……な」
そのすぐ隣では、ローシュがミカのものよりも一回り小さな木箱を汗だくになりながら必死の思いで運んでいた。
そのあまりに健気で一生懸命な姿に、ミカとラックは思わず顔を見合わせてくすっと笑い合う。
船は熟練の船乗りたちの手により、信じられないほどの早さで準備を完了させた。
そして、底知れぬ暗さと果てのない海原へと、静かに舵を切って進み始めた。
沖合へと近づくにつれて風は一段と強くなり、雨粒も横殴りに激しく叩きつけてくる。
それでも誰一人として下を向く者はおらず、全員がしっかりと前を見据えていた。
真っ暗な海の向こうでは、不気味に揺らめく影が、まるで確かな道標のように海上を漂っている。
それはニクシーが、船を導いてくれているようだった。
荒れ狂う闇夜の海に船を出すという行為の危険性を、ジルが理解していないわけではなかった。
だが、この機会を逃せば二度と真実に辿り着けないかもしれない。
そう直感した上での決断だった。
そしてそれと同時に、自分たちに手を差し伸べてくれたこの街の人々の力強さに、ジルは確かな安心感を覚えていた。
「私……船に乗るの初めてなのに……こんなに真っ暗です」
ミカは荒れ狂う天候の中になぜか怯える様子もなく、まっすぐに甲板に立ち、少しだけしゅんと落ち込むような表情を見せた。
「何言ってんだよ。この一件が解決したらさ、いっちばん天気がいい日に、船を出してもらおうぜ」
ラックはそんなミカの隣で明るく笑いながら返す。
その瞳は、ニクシーの影が導き出すその先を、一点の曇りもなくしっかりと見据えていた。
◇◇◇
ポーディリアの街の明かりが完全に視界から消え去った頃。
これまで自分たちを導くように前方を漂っていたニクシーの影が、ふっと嘘のようにすべて消え去った。
それは、もう目的地がすぐ目の前であるということを意味していた。
その変化に一番最初に気づいたのはローシュだった。
持ち前の驚異的な視力を活かして暗い海原を凝視していた彼の視界に、信じられないような異様な光景が飛び込んでくる。
「皆さん! あれを……!」
ローシュが指し示した方向へ、全員が即座に視線を向ける。
そこには、言葉を失うほどに奇妙で圧倒的な光景が広がっていた。
夜空に、ぽっかりと大きな穴が開いていた。
雲の切れ間に円形の空間がぽっかりと抜け落ち、そこだけがまるで別世界のように美しく澄み切った月明かりに照り出されている。
そして、その神秘的な光の円陣の中心で、何十ものニクシーたちがゆっくりと漂っていた。
船はその神秘的な空間を目指して静かに進んでいく。
そして、そのまま少し進んだところで、ちょうどその空の穴の真下へと侵入した。
次の瞬間、これまで船を激しく揺らしていた波がピタリと嘘のように止まり、微風すら吹かない完全な「凪」の世界が訪れた。
「なんだ……? 気味が悪いな……」
ラックは眼前で起きた奇妙すぎる現象に、思わず低く呟く。
ミカは首をかしげながら、ポカンと口を開けて辺りをキョロキョロと見回していた。
「そ、そうですか……? すごく綺麗ですよ?」
そんな緊張感のない会話を交わしていた、その時だった。
円陣を組むように海面に漂っていた無数のニクシーたちが、一斉にまるで美しい鎮魂歌を歌うかのように、一際高い声を響かせ始めた。
それと同時に、その円陣の中心点にあたる海面から、ボコボコと大量の気泡が発生し始める。
「全員、武器を抜いておけ。……来るぞ」
ジルはその異変を鋭い眼光で見据えながら、静かに、しかし皆に届く声で命じた。
全員がそれぞれの武器を強く手に構え、暗い水面から現れる「何か」を無言で待ち構える。
そして、ついにそれは姿を現した。
無数の大きな気泡が激しく弾けるのと同時に、凄まじい水しぶきを上げて海面から飛び出したそれは、正気を疑うほどの異常なまでの巨躯を持っていた。
「お、おい……ありゃあ、まさか……」
船乗りたちはその絶望的なまでの巨大な怪物の姿を目の当たりにし、恐怖で声を震わせる。
そして誰かが、震える声でその名前を呟いた。
「……クラーケン」
『クラーケン』と呼ばれた怪物は、無数の太い足を海面に激しく叩きつけながら暴れ狂っている。
穏やかな凪に包まれていたはずのその場所は、怪物が暴れるたびに発生する波によって船が揺さぶられていた。
「クラーケンって……なんだよあの化物……!」
ラックの焦燥を含んだ問いかけに、真っ直ぐ前を見据えたままジルが答える。
「クラーケンは、海の神や豊漁を司ると言われる生物だ。そもそも魔物なのかも分からない。いつの時代からこの海に生きているのかすらもな」
クラーケンは苦しむように荒れ狂い、その巨大な足を何度も何度も海面に叩きつけている。
そのあまりに圧倒的な光景に、屈強だったはずの船乗りたちまでが顔を青ざめさせて立ち尽くしていた。
──もしかして、ニクシーの導きはすべて罠だったのか?
全員の脳裏に、そんな最悪の疑念がよぎる。
やはり魔物を助けるなどという行為は、人間の身勝手な幻想でしかなかったのかと。
その時、ローシュが何か重大な異変に気づき、声を張り上げた。
「……っ! ジルさん!」
ローシュが指し示したその先──それは暴れるクラーケンの頭頂部付近だった。
そこにはどす黒い靄のようなものが幾重にも巻きつき、その中心で冷たく不気味に鈍く光る巨大な何かが、怪物の肉体に深く食い込んでいた。
それは、『魔石』だった。
大人の身体ほどの大きさを誇る魔石が、クラーケンの生々しい肉に根を張るように絡みつき、そこから流れ出すエネルギーによって、クラーケンは本来の理性を完全に奪われ、狂ったように暴れ続けていたのだ。
「……そうか。そういうことか」
ジルはその光景を一瞥してすべてを察し、全員に向けて力強く声を張り上げた。
「あの正気を失ったクラーケンこそが、今回のはじまりだ。我々の……成すべきことがようやく見えたな」
ジルは剣をスッと抜き放ち、天高く掲げた。
「目標はクラーケン! ヤツの頭部に突き刺さる魔石を破壊すれば、きっと鎮まるはずだ!」
剣の切先を巨大な怪物の頭部へと鋭く突きつけるジル。
そして一度船乗りたちの方へ振り返ると、自信に満ちた笑みを浮かべて言葉を続けた。
「ふっ……良かったなお前たち。街に帰ればお前たちは──英雄だ」
ジルの力強い言葉に、船乗りたちは顔を見合わせ、やがて互いに力強く頷き合うと、天に向かって拳を突き上げ盛大に雄叫びを上げた。
海の神とも称されるクラーケンと真っ向から戦ったなどとなれば、子孫の代まで語り継がれる最高の英雄譚になるに違いなかったからだ。
ジルは男たちの士気が最高潮に達したのを確認すると、ミカとローシュの二人の元へと歩み寄った。
「あの魔石の破壊は、お前たち二人にかかっている。……頼んだぞ」
ミカとローシュは顔を見合わせ、しっかりと力強く頷き返した。
「できるか?」ではなく、「頼む」と信頼を置いて任せられたことが、二人の胸を熱くさせた。
自分たちが仲間から心から信頼されているという実感が、たまらなく嬉しかったのだ。
そしていよいよ、大海原を舞台にした戦いが幕を開けようとしていた。
それは何かを殺すためではなく、傷ついた者を「救う」ための戦い。
ミカは杖を両手で力いっぱいに握りしめ、その瞳に揺るぎない確かな意志の光を灯す。
暗い夜空から降り注ぐ月明かりが、彼女の純白の髪を美しく照らし出し、きらきらと輝いていた。




