第18話 拭えない違和感
気がつけば完全に日は落ち、闇夜が港町を包み込んでいた。いくつかの灯りが、夜の街をぼんやりと照らし出している。
ジルは気絶した男を背負い、療養所へと静かに歩みを進めていた。
「お前たち三人は先に宿に戻っていてくれ。私が戻り次第、状況を整理しよう」
「特に……ラック、ローシュ。気を付けて戻れ」
ジルはそう告げると、再び夜の街の中へと消えていった。三人はその背中を見送ったあと、宿へと歩き出す。
ラックとローシュは、ジルの残した言葉の真意が十分に理解できず、顔を見合わせて首を傾げた。
「俺と……ローシュ? よく分かんねぇけど、とりあえず戻るか」
ラックがそう呟き、三人は宿へと帰路につく。街の様子は昼間の賑やかさとは打って変わって静まり返っており、先ほどの幽霊騒ぎも、ほとんどの住民にとっては相変わらず遠い世界の噂話のままであった。
「……呑気なものですね」
ローシュはそんな街の様子を一瞥しながら、小さく口を開く。
ラックとミカもそれに静かに頷いた。
だが、先ほど桟橋で目の当たりにしたあれは、ただの幽霊や気のせいなどではなく、確かな意志を持った「何か」であると、三人ともが肌で感じ取っていたのだ。
三人は寄り道をすることもなく宿の自室へと戻り、つい先ほどの出来事について話を切り出した。
「あの……や、やっぱり幽霊ですか?」
ミカが不安そうにそんな疑問を口にすると、ローシュは考え込むように首を横に振る。
一方のラックは言葉を発さず、一人で先ほどの光景を思い返すように黙り込んでいた。
「違うと思います。矢こそ当たりませんでしたが、確実に存在していましたから」
ローシュは自分の弓を見つめながら、確信を持ったトーンで答える。
すると、それまで黙っていたラックが静かに口を開き、記憶の糸をたぐり寄せ始めた。
「あのさ、関係ないかもしれないんだけど……」
ラックは、幼い頃に親方から聞かされた古いおとぎ話を思い出していた。
それはどこかの街に伝わる、よくある怪談話のようなものだった。
「親方から昔聞いたことがある話に似てる気がするんだよな……」
ラックは、その古いお話をぽつりぽつりと語り始める。
それは海にまつわる話だった。
とある海域や海沿いの街でひそかに語り継がれている、なんてことないお話。
人がまるで海に吸い込まれるように、神隠しのように消えていくという怪異。
夕闇が空を覆う魔の時間帯。
海に近づくと、どこからか誰かに呼ばれるような優しい声が聞こえてくる。
その声には抗うことができず、誘われるままに海へ近づいてしまうと、そのまま深みへと引きずり込まれ、食べられてしまう。
そんな、子供を脅かすためのお話だった。
おそらく、暗くなった危険な海に子どもを近づかせないために作られた作り話なのだろう。
「まぁ、似てる話なんていくらでもあるし関係ないよな」
ラックは一通り語り終えると、自嘲気味にそう呟いた。
だが、その話を聞いたローシュとミカの反応は明らかに違っていた。
なぜなら、ほんの数時間前に二人はこの街の住人から、よく似た話を耳にしていたからだ。
それは、ミカが老人から聞いた『人魚伝説』と呼ばれる言い伝えと完全に重なっていた。
「ロ、ローシュさん……これって……」
ミカとローシュは思わず顔を見合わせ、深く頷き合う。
今この港町で起きている幽霊騒ぎと、その古い言い伝えが無関係であるとは、どうしても思えなかったのだ。
ローシュは少し考え込んだあと、真剣な眼差しで口を開いた。
「ラックさん。ただのおとぎ話ではないかもしれません……」
それは単なる童話やおとぎ話にすぎないのかもしれない。
だが、そのような怪談はいつだって何もない虚空から生まれるわけではない。
実際の出来事が長い年月の中で誇張され、人々の記憶に残りやすいように今の形として引き継がれていったのではないかと、ローシュは推理していたのだ。
「ラックさん。その話、他に知っていることはありませんか?」
ラックは幼い日の記憶をさらに深く掘り起こすように、頭の引き出しを叩いていく。
やがて、何かを思い出したように「あっ」と小さな声を上げた。
「そういや、親方が言ってたな……。そのおとぎ話の名前は、たしか──」
「「ニクシー」」
ちょうどその時、宿に戻ってきたジルの声と、ラックの声が重なって部屋に響いた。
ジルは扉を開けて部屋に入ると、小さく息を吐きながら椅子に腰を下ろし、剣を立て掛けた。
「あ、あの……ジルさん。ニクシー? って何ですか?」
ミカは聞き覚えのないその単語に、すぐさまジルへと問いかける。
ジルはニクシーについて自分が持っている知識を、静かに語り始めた。
ニクシーとは、水の精霊とも呼ばれる生物の一種だった。
主に海に生息し、人間の生命力を吸い取って餌にすると言われている。実体と呼ばれるような固い肉体は持たず、蜃気楼に近い曖昧な生体をしていること。
人間の往来が多い港近辺の海域に現れることが多く、過去には船が難破した際などに群がっている様子が目撃されたこともある、とのことだった。
「うげっ……またやばそうなやつだな」
ラックはジルの淡々とした説明を聞き、顔をしかめてそんな感想を漏らす。
ジルはそれに小さく首を振ると、言葉を続けた。
「いや、本来であればそこまで人間に害をなす存在ではない。力も弱く、彼らが餌にするのはあくまで事故などで海に落ちてしまった不運な人間がほとんどだ」
ジルは先刻の桟橋での異様な光景を思い返しながら、言葉を重ねる。
「しかし、今回は船員たちが明確に狙われて被害に遭っている。何か……何かが決定的に足りていない気がする」
ジルはそう言って腕を組み、深く考え込んだ。
ローシュはそのジルの説明で合点がいったように、ピンとひらめいた顔で口を開く。
「蜃気楼のようなもの、か……。なるほど。それで僕の矢は当たらなかったってことですね」
しかし、その話を聞いたラックは困惑した表情を隠せなかった。
もし相手に確かな肉体が存在するのであれば、対処などいくらでもできた。なにせ、こちらにはジルがいるのだから。
だが、物理的な干渉を受けにくい曖昧な存在なのだとすれば、話は全く別になってくる。
矢がすり抜けて通じない相手であれば、剣による斬撃も同様に効かない可能性が高かったからだ。
「くそっ……どうする? 戦おうにも方法が……」
ラックの焦燥を含んだ言葉に、部屋にいる全員が押し黙るように考え込んだ。
だが、ジルがふとその静寂を断ち切るように、ミカの方へと鋭い視線を向けた。
そのジルの視線の意味に気づいた瞬間、ラックとローシュもハッと顔を上げ、顔を見合わせて小さく笑みを浮かべる。
「え、え? な、何ですか? 私……何か付いてますか?」
ミカは自分の顔に食べかすでもついているのかと焦り、慌てて口の周りを両手でこすった。
その無自覚な様子に、ラックは柔らかい笑みを浮かべながら答える。
「俺達の剣や弓が無理でも……ミカの杖の力なら……だろ?」
ラックは答え合わせをするようにジルへと視線を送ると、ジルは小さく笑みを浮かべて頷いた。
「ああ、そうだ。ミカの炎なら効く可能性が高い」
事実、ニクシーは固形の肉体を持たず、水蒸気や霧に近い不安定な構成をしている。
ミカの放つ炎が有効打になるという推理は、間違っておらず、むしろ正解に最も近いものだった。
「つまり、ミカさんが頼りってことですよ」
ローシュはミカが喜びそうな言葉を選び、真っ直ぐに伝える。
その言葉に、ミカはぱっと目を輝かせると、小さな拳を力強く握りしめ、力強くこくりと頷いた。
仲間たちが自分を頼りにしてくれている。こんなにも信頼できる素晴らしい人たちが、自分を必要としてくれている。
その事実が心から嬉しく、その期待に応えたいとミカは強く願った。
「わ、分かりました……! 私に任せてくださいっ!」
ミカは瞳に強い意志の光を灯し、胸を張って誇らしげに言い切った。
その頼もしい姿に、三人は満足そうな笑みを浮かべるのだった。
その時、ラックがふと気になったように口を開く。
「なぁ、ニクシーは何故か男ばっかり狙ってるんだよな?」
それはジルもずっと感じていた大きな違和感だった。
ニクシーの生態において、性別によって襲う獲物に差があるという話は聞いたことがない。
だが、事実としてこの港町では男ばかりが標的にされ、さらにその中でも一様に屈強な船乗りたちばかりが狙われていたのだ。
ジルが昨夜、ラックとローシュに「気を付けて戻れ」とわざわざ念を押したのも、まさにその危険性を予測してのことだった。
もし奴らが男だけを狙う性質なのだとしたら、ラックやローシュも標的になるかもしれないと考えていたからだ。
「問題はそこだな……。ニクシーの出現条件を確かめるにしても、あまりに限定的すぎてな……」
ジルはこれまでの自身の経験則をもとに、思考を巡らせていた。
だが、その難問に思いがけない方向から答えを出したのは、他でもないラックだった。
「……だったら、俺を囮にしてくれ」
予想外の大胆な提案に、三人は大きく目を見開いて驚愕した。
ミカは青ざめた顔で、慌てて止めに入る。
「あ、危ないです……! 他の方法を──」
ミカが必死に言い切る前に、ラックは片手を上げてそれを制し、真剣なトーンで言葉を続けた。
「ジル、これがベストな筈だろ? 弓を使うローシュよりも、剣を使う俺のほうが何かあっても対処はしやすいしな」
そう言ってジルに向けるラックの瞳には、揺るぎない確かな意志が灯っていた。
「それに強い男が狙われるなら……俺だって多少は強くなってるからな」
ラックはそう言って自分の腕を掴み、力こぶを作るように少しおどけて見せた。
その必死な気概を感じ取ったジルは、ふっと優しい笑みを浮かべると、ラックの頭をぽんっと優しく撫でた。
「ふっ……成長したな」
ラックは恥ずかしさを懸命に誤魔化すように、照れくさそうに返す。
「こ、怖いからさ……危なくなったらすぐに助けてくれよな?」
ラックのその正直な言葉に、三人は顔を見合わせると大きく頷き、当たり前だと力強く答えた。
こうして、今回の幽霊騒ぎ改め「ニクシー討伐作戦」の決行が満場一致で決定した。
決行は被害をこれ以上拡大させないため、翌日に即座に行うこととなった。
ニクシーは夕方以降でなければ姿を現さないため、それまでの時間が貴重な作戦準備にあてられることになった。
そして四人は、明日の本番に備えて早々に床につき、静かに眠りへとついていった。
◇◇◇
作戦決行当日の朝。
この日の空は、まるでそれを映すかのようにどんよりと曇っていた。
重たい鉛色の雲が空いっぱいに広がり、いつ冷たい雨が降り出してもおかしくないような空模様をしていた。
それはまるで何かの予兆であるかのように、港町全体を暗く覆っていた。
朝がめっぽう弱いミカとラックもこの日ばかりは早々に目を覚まし、自分たちが今回の作戦の要であるという自覚を胸に身支度を整えていた。
「あ……おはようございます、ラック」
ミカは宿の一階にある食事処で、ちょうど同じタイミングで階段を下りてきたラックと顔を合わせる。
ラックは穏やかな笑みを浮かべながら、軽く片手を上げて応えた。
「よぉ、ミカ。今日はやけに早起きだな」
そう言うラックの髪の寝癖は綺麗に直っており、それは目の前のミカの純白の髪も同様だった。
二人は並んで席につくと、宿の主人が用意してくれた簡易的な朝食を静かに口に運んでいく。
その場にジルやローシュの姿はなく、二人は自分たちよりもさらに早く起きて街の警戒や準備にあたっているのだろうと察した。
「あの……私が……守りますから」
ミカは自分のそばに立てかけた杖の柄を指先でそっと撫でながら、決意を込めた小さな声で呟いた。
ラックはその言葉に一言「頼んだ」と返し、笑ってみせた。
ラックはもう、ミカに対して最初に出会った頃のような「魔女」に対する恐怖心は抱いてはいなかった。
たとえ世間が何と言おうと、魔女だろうと何だろうと、ミカはミカだ。
ジルやローシュとはまた違う、まるで家族のような安心感に似た感情を、ラックは彼女に対して抱いていた。
「なぁ。ミカのお母さんって……どんな人なんだ?」
ラックはふと、以前から心のどこかで気になっていたことを素直に問いかけてみた。
ミカがいつだって母親の存在を何よりも大切にしていることは、これまでの旅路でよく分かっていた。
誰よりも母親を愛し、慕っているということも。それは、純粋な興味からの質問だった。
自分自身に「母親」というものの記憶がないラックにとって、ミカがそれほどまでに大切に想う存在の正体が、どうしようもなく気になっていたのだ。
「え? お、お母さんですか?」
ミカは突然の予想外の質問に目を丸くして驚きを見せたが、やがて穏やかな笑みを浮かべて静かに答えた。
「お母さんは……誰よりも優しいんです。いつも私を褒めてくれて……まるで太陽みたいで、みんながお母さんのこと大好きで……」
母のことを語るミカの表情は、これまでラックが見たどんな顔よりも、柔らかく穏やかで満たされていた。
ラックは小さめのパンを美味しそうに頬張りながら優しい笑みを浮かべ、その温かい言葉をじっと聞いていた。
「いつか、皆さんにも会わせてあげたいです。あ……ぜ、全然怖くない人だから大丈夫ですよ?」
「はははっ、大丈夫。親方より怖い人なんて滅多にいないからさ。いや……一人いたか?」
ラックはそんな冗談を口にしながら、脳裏にあの鬼のようなジルの顔を思い浮かべたのか、思わず苦笑いを漏らした。
それはミカにも伝わったようで、二人は顔を見合わせてくすくすと楽しそうに笑い合う。
太陽が、空の真上あたりに差しかかる頃。
雲は一層厚みを増し、太陽の光を完全に遮り隠し、港町は昼間でありながらどこか薄暗い雰囲気を漂わせていた。
朝食を済ませたラックとミカは、ジルとローシュの姿を探すべく、街中へと繰り出していた。
すると、大通りの曲がり角から、ちょうど二人が歩いてくるのが視界に入る。
ジルとローシュは事前の根回しとして、街の衛兵たちや港の船乗りたちに厳重な注意を促し、船着き場付近に近づかないよう警告を済ませてきたところだった。
ラックが囮役を買って出た以上、成功確率を少しでも引き上げておくための必要な準備だった。
合流した四人は、その場で最後の作戦のすり合わせを念入りに繰り返していく。
そして、無情にも時は過ぎ去り、作戦決行のその時は、もうすぐそこまで迫っていた。
薄暗く淀んだ空からは、冷たい雨がポツポツと静かに降り始めようとしていた。




