第16話 港町ポーディリア
潮の匂いがほのかに鼻腔をくすぐる。
遠くから微かに波のさざめきと、活気あふれる街の喧騒が聞こえてきていた。
「す…すごいっ! ほら、行きますよラック!」
ミカは目の前に広がる光景に瞳を輝かせながら、ラックの手を引いて駆け出していく。
ラックはされるがままに引きずられるように連れて行かれる。
そんな二人の背中を、ローシュとジルは顔を見合わせながら微笑ましく見送っていた。
ミカが街へと足を踏み入れると、そこには美しく賑やかな光景が広がっていた。
心地良い木槌の音が響き渡り、街中では見たこともないような装いをした人々が楽しげに往来している。
「ふわぁぁ…! ご、ご飯の匂いがします…っ!」
香ばしい食欲をそそる香りが、ミカの鼻腔を強く刺激した。そこへ、ジルとローシュの二人が追いついてくる。
ジルは街全体を見渡し、落ち着いたトーンで口を開いた。
「新しい街でそれぞれ見たいものもあるだろう。夜まで別行動にしよう」
ジルは街の中心近くに見える宿屋の看板に視線を向けた。
「夜になったらあの宿屋に集まろう。あまりハメを外しすぎるなよ」
ジルはそう言って小さく笑うと、静かに街の人混みの中へと消えていった。
「別行動か……。どうする? ……ってあれ?」
ラックがミカへと声をかけようと振り返るが、すでにその姿はない。視界の端で、美味しい匂いの漂う方向へ全速力で駆けていくミカの背中がかろうじて見えた。
「ったく……。んじゃ俺たちも楽しむとするか」
ラックは残されたローシュと顔を見合わせ、苦笑いする。
「そうですね。では、また夜に」
ローシュは静かにそう告げると、人混みを避けるように穏やかな足取りで去っていった。
一人残されたラックは、ゆっくりと街の中へ歩みを進めていく。
この街はカールドルハとはまた違った独自の発展を遂げている。港町であり、諸外国との交流が盛んだからだろう。
見慣れない異国の服装をした人々や、珍しい品々を並べた店が所狭しと軒を連ねていた。
「さてと……どうすっかな。武具屋とかも気になるけど一番気になるのは……あれだよな」
ラックの視線の先には、大通りから少し外れた一角に佇む、一際異彩を放つ建物があった。
豪華な色彩と装飾に彩られ、建物の中からは軽快で賑やかな音楽が漏れ聞こえてきている。
ラックは興味本位から、その店へとゆっくり足を踏み入れていく。
「ここは……カジノか?」
店内はきらびやかな装飾に包まれ、美しいドレスを纏った従業員たちが華麗にドリンクを運んでいる。
その中央では、数々の客たちが熱狂的な歓声を上げながら賭け事に興じていた。
ラックは不敵な笑みを浮かべると、静かに一つのテーブルへと近づいていった。
一方その頃、ミカは。
街の入り口まで漂っていた匂いの出どころを辿り、一軒の飲食店の前までやってきていた。
店の看板には、海の生き物を模した可愛らしい装飾が施されている。
扉の隙間からは香ばしく豊かな海の幸の匂いがあふれ出し、ミカの食欲を容赦なく刺激した。
「こ、これは……入らない訳にはいきませんね……!」
ミカはあふれ出るよだれを慌てて拭い、跳ねるような足取りで店内へ駆け込んだ。
一番厨房に近い特等席に腰を下ろすと、屈強な壮年の従業員が気さくに声をかけてくる。
「いらっしゃい、可愛らしいお嬢さん。注文はどうするんだい?」
ミカはテーブルに置かれた品書きを穴が空くほど凝視し、真剣に悩み始めた。
「お、おすすめ……くださいっ!」
それはラックから叩き込まれていたとっておきの秘策だった。
困ったらとりあえず「おすすめ」と言えばなんとかなる──そうラックに授けられた最高の技である。
何が運ばれてくるか分からないワクワク感も楽しめ、その店のイチオシを知れるという素晴らしい選択だった。
注文を受けた従業員が威勢よく厨房へ声を飛ばす。
店内は満席とはいわないまでも大変な賑わいを見せていた。
その活気ある空間の中で、一人ぽつんと料理を待つミカは、なぜか誇らしい気持ちになっていた。
(ふふっ……私が一人でお店入ったなんて知ったら、お母さん驚くだろうなぁ)
そんな微笑ましい想像を膨らませながら、上機嫌で料理の到着を待つミカ。
しばらくすると、大きなお皿からこぼれ落ちそうなほど新鮮な海鮮が盛られた料理が運ばれてきた。
「はい、お待ち! 特製ポーディリアミックスだよ!」
この街ポーディリアで水揚げされたばかりの新鮮な海産物をふんだんに使い、それぞれの素材が持つ旨味を最大限に引き出した贅沢で極上の逸品だった。
「ふぉ……おおおぉぉ…!」
ミカは目の前の宝石のように美しい料理に感動し、思わず腹の底から声を漏らした。
そして、周囲の目線などすっかり忘れて、凄まじい勢いで食べ進めていくのだった。
ちなみに、ミカがのちにこの店で「伝説の大食い少女」として密かに語り継がれるようになるのは、もう少し先のお話である。
同じ頃、カジノのフロアは突如として現れた謎の新星のせいで、異常な熱狂に包まれていた。
そのテーブルの中心には、これまでにないほど鋭い視線を突き立てるラックの姿があった。
ラックは普段の軽薄な様子からは想像もつかない真剣な眼差しで、周囲の大人たちを圧倒していく。
彼の一挙手一投足に、フロアのあちこちからどよめきの声が上がった。
「す、すげぇ……見たか? まただぜ……」
そんな声が周りの客たちから漏れ聞こえてくる。
勝負の席に座るラックの周囲には数人の男たちが陣取り、その目の前にはディーラーを務める従業員の女性が立っていた。
「よろしいですね? 変更はございませんか?」
女性がラックや対戦相手の男たちに静かに問いかける。男たちはごくりと唾を飲み込みながら、強張った顔で頷いた。
「ああ……。さぁ、開いてくれ」
ラックは鋭い瞳でディーラーを見据える。
ゆっくりと、カードが静かにめくられていく。
そして、すべてのカードがめくられたその瞬間。
フロア中にどっと歓声と嘲笑が入り混じった声が響きわたった。
「ははははっ! こいつ全敗かよッ!」
ラックは微塵も気にしていないように気取った表情を作ってみせた。
だが、内心は今にも泣き出しそうになっていた。
最初はお遊びのつもりで始めたはずが、気づけば負け額だけが雪だるま式に膨れ上がっていたのだ。
失った分を取り返そうと大金を賭けては負け、底なしの負の連鎖に完全に陥っていた。
「も……もう一回だッ……! ここで負けたら終わる……ここで負けたら終わる……」
ラックはうつむき、ブツブツと掠れた言葉を呟きながら床の一点を凝視し続けていた。
その惨めな様子を見て、周りの男たちは「いいカモだ」と言わんばかりに下卑た笑みを浮かべている。
そして、ほんの数分後のことだった。
「金が用意出来りゃあまた相手してやるよ」
荒くれた男たちにより、身包みも剥ぎ取られ、所持金すべてをむしりとられたラックが、カジノの外へと乱暴に放り出された。
ラックは仲間に決して見せられないような無様な姿のまま、道端に情けなく倒れ込んでいた。
「ふぅ……食べ過ぎちゃいました……って……あれ? ラ、ラック?」
ラックが唯一死守した剣を抱え込み、惨めにうずくまっていたその時、美味しい食事を終えたミカがちょうど通りを歩いてきた。
視線が合い、驚きに目を見開くミカ。
「な、何してるんですか……? そんな変な格好で……」
ミカは困惑の色を浮かべながらも、優しく声をかけた。
すると、ラックは鼻水を垂らしながら情けない泣き声を上げ、ミカの足元にすがりついた。
「ミガぁ……助けでぐれよぉ……」
ラックはミカの衣服にしがみつき、必死に助けを乞う。
偶然見つかったのがローシュやジルではなく優しいミカで、ラックは心の底から安堵していた。
ローシュに見つかれば汚物を見るような冷たい目で一蹴され、ジルに見つかった日には……想像すらしたくなかった。
「え、えぇ……? わ、分かりました……っ!」
ミカは、とりあえずラックが絶望的な状況に陥っていることだけを察し、こくりと頷いた。
何が起きたのかはよく分からないが、困っている仲間の為に、できる限りの力になりたいと思ったのだ。
「こ、ここですか……?」
ミカは目の前のきらびやかなカジノへと静かに足を踏み入れた。
ラックはその背後でミカの服の裾をぎゅっと掴み、まるで怯えた子鹿のようにくっついて歩いている。
二人が店内に足を踏み入れると、先ほどまでラックを徹底的にカモにしていた男たちが気づき、冷ややかな視線を向けた。
「ハッ……! 性懲りもなくまた来たか。情けねぇ、女の後ろに隠れてやがるぜ?」
男たちはバカにするようにゲラゲラと笑う。
ミカは少しムッとした表情を浮かべ、一歩前へ歩み出た。ラックは服を掴んだまま、まるで幼児退行したかのようにぴったりと後ろをついていく。
ミカは真っ直ぐに中央のテーブルへ歩を進め、椅子に腰掛けると言い放った。
「……はじめましょう!」
「……ちょうちょだ」
ラックはミカのすぐ背後にへばりつき、現実逃避して幼い子どものように壁の柄を数えていた。
男たちはニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら声をかける。
「ルールは聞かなくていいのか? 可愛らしい嬢ちゃんよぉ」
男の挑発的な言葉に、ミカは力強く頷いた。
「聞きません! 分かりませんからっ!」
堂々と言い放つミカの姿に、いよいよ大勝負の幕が切って落とされた。
そのわずか十数分後。
荒くれた男たちの顔面は、完璧に青ざめ、血の気が引いていた。
勝てない。どれだけイカサマを仕掛けようとも、どれほど強力な手札を引き当てようとも、なぜか奇跡のような確率でミカの手札には常に最強のカードが揃っていた。
「ど……どうなってんだよッ……!」
男たちは冷や汗を流しながら動揺し、何かの間違いに違いないと何度もゲームを強行していく。
だが、ゲームの回数を重ねるごとに、一枚、また一枚とラックの剥ぎ取られた衣服がミカの手によって取り戻されていく。
ラックは、失った衣服とともに粉々に砕け散っていた自尊心も少しずつ回復し始め、先ほどまでの怯えた子鹿のような姿から、今やすっかりふんぞりかえってミカの「金魚のフン」へと変貌を遂げていた。
「ふはははっ! すげぇぞミカ! もっとやっちまってください!」
ラックは調子よくそんな威勢の良い言葉を吐き、ミカはただ勝ち続けていく。
気づいた時には、ラックが負けた分の借金はとうに完済され、それどころか有り余るほどの大金を稼ぎ出していた。
「か、簡単ですね、ラック!」
ミカの無邪気で悪気のない笑顔が、連戦連敗のラックの心を容赦なくグサリと抉る。
「そ、そうだな……ミカさん……」
ラックは再び、小さく弱々しいトーンに戻るのだった。
その時、これ以上の敗北に耐えかねた男たちが、ついに声を荒げ始めた。
「おかしいだろ……っ! こうなりゃゲームなんてどうでもいい……」
男たちは下卑た笑みを消し去り、その屈強な腕や体格を見せつけるように脅しにかかる。
周囲の客たちはトラブルを察知してざわめきだし、ディーラーの女性も困惑しながら小さな声で制止しようとしていた。
そして、一触即発の緊迫した空気に包まれた、その瞬間。
カツン、カツン、と静寂を切り裂く硬い靴音が、店の入り口から一定のテンポで響いてきた。
その聞き覚えのある、恐怖を誘う足音に気づいた瞬間、ラックは顔面を極限まで蒼白にさせ、壊れかけの人形のようにガクガクと震えながら振り返った。
「……ほう。随分と……楽しんでいるようだな」
そこには、美しい真紅の長髪を揺らめかせながら、この世の終わりのような冷徹な目でこちらを見下ろすジルが立っていた。
ラックは「ひっ」と小動物の断末魔のような情けない声を漏らす。
「なんだぁテメェも仲間か? だったらテメェに──」
男の一人が息り立ってジルに掴みかかろうと腕を伸ばした──次の瞬間、その男はまるで赤ん坊のように穏やかで安らかな寝顔を浮かべたまま、バタリと床に倒れて眠りについた。
何が起きたのか周囲の人間には全く理解できなかったが、他の荒くれた男たちは怒りに任せて一斉にジルへと飛びかかろうとする。
だが、それもコンマ数秒の出来事だった。飛び出した全員が目にも止まらぬ神速の拳で顎を撃ち抜かれ、全員が綺麗な直立不動のままスヤスヤと床に倒れていった。
「ジ……ジルさん……。へ、へへへっ……」
ラックは冷や汗を滝のように流しながらごまかすように引きつった笑みを浮かべ、音もなく逃げ出そうとしたが、容赦なく鳩尾を小突かれて気絶し、そのままジルに担ぎ上げられてしまった。
ジルは店員に向けて「すまなかったな」と一言静かに詫びると、ぐったり気絶したラックを軽々と担いだまま店を後にした。
ミカもその後をぴたっと追うように、トコトコと店を去っていく。
こうして、のちにそのカジノでは語り草となる伝説が二つ生まれた。
「白髪の賭博神」と「真紅の鬼」──その名は、裏社会のタブーとしてポーディリアの七不思議に数えられていくことになるのだった。
◇◇◇
太陽もすっかり沈み、夜のとばりが下りた頃。
四人は指定された集合場所である宿屋の一室に集まっていた。
ミカはベッドの端にちょこんと腰掛け、受付で購入した特製のお菓子をリスのように両頬を膨らませてモグモグと食べている。
そのすぐ目の前では、床の上に直角に正座させられているラックと、椅子に腰掛けて静かに剣を手入れするジルがいた。
ローシュは窓辺に立ち、冷たく青い月夜を静かに見つめている。
「あの……どうしてラックさんは……正座させられているんですか?」
ローシュは正座するラックへ視線を向け、戸惑いを隠せない表情で問いかけた。
ラックは天井の隅の一点のみを虚ろな目で凝視しながら、か細い声で答える。
「……聞くな、ローシュ。聞かないでくれ」
ローシュには何が起きたのかさっぱり分からなかったが、あまりの深刻そうなラックの様子にそれ以上突っ込むことができず、話題を変えるようにジルへと声をかけた。
「そ、それより……ジルさんは今日は何をしてたんですか?」
ローシュの問いかけに、ジルは手入れしていた剣をカチリと音を立てて鞘に収めると、落ち着いたトーンで話し始めた。
「私は情報収集だ。船を選ぶにも、良し悪しは知っておきたいからな」
ジルは、自身が今日一日の街歩きで集めてきた情報を共有していく。
この港町から運航している船は二隻あること。
その内の一隻はすでに数日前に出港済みであり、現在港に残っているのは一隻のみということ。
だが、その残された最後の一隻は、現在やむを得ない事情で運航を停止しているとのことだった。
「運航停止……? 何か問題でもあったんですか?」
ローシュの疑問に、ジルは昼間に街の人々から耳にした不穏な噂の数々を思い起こす。
『幽霊が出た。船乗りが襲われたらしい』
それはどうやら、単なる子どもだましの噂ではないようだった。
武具屋の店主、酒場のマスター、街の住人たち──立場も違う様々な人物の口から、驚くほど一致した不気味な証言が飛び交っていたのだ。
現に、被害に遭った船乗りの一部は傷を負い、今も診療所で療養を余儀なくされているという。
この街には常駐の騎士が存在せず、街の自警団も原因の特定ができず完全に手を焼いている状態だった。
「どうやら……幽霊騒ぎの仕業らしい。明日、我々で調査してみよう」
ジルは静かに呟き、決意を込めた眼差しを三人に向けた。
「幽霊……ですか。それはまた突拍子もない話ですね」
ローシュは眉間に少しシワを寄せ、考え込むような素振りを見せる。もし相手が通常の魔物であるなら納得もいく。
だが、幽霊などという実体のない曖昧な存在には納得がいかず、その裏には必ず何か別の現実的な原因や悪意が隠されているのではないかと推測していた。
「それにしても……さすがジルさんですね」
ローシュは、わずか半日ほどの自由時間でこれほど情報を集めてきたジルに対し、素直な称賛と感心を抱いていた。
やはりジルという騎士は、どこまでも頼りになると改めて実感していたのだ。
「ローシュ。お前は何をしていたんだ?」
ふと、ジルは視線をローシュへと移し、穏やかに問いかける。
ローシュは弓を手に取り、丁寧に答えを返す。
「弓の手入れです。武具屋で必要な消耗品を調達して、そのあとはずっと海を眺めながら弓を手入れしていました」
ジルはその手堅い答えに感心し、小さく微笑んだ。ミカやラックよりも年下であるにもかかわらず、ローシュはいつも落ち着いていてしっかりしている。
ジルは満足そうに頷いたあと、チラリと視線を部屋の隅へ向けた。
そこでは、いまだに正座を解くことを許されず、相変わらず天井の隅の一点を死んだ魚の目で凝視し続けるラックの姿があった。
「あの……それどうなってるんですか?」
ローシュはやはりラックの奇妙な状態が気になって仕方のない様子で尋ねる。
だが、ジルは平然とした口調で受け流すと、剣の柄でラックの頭を軽くポンと小突いた。
「放っておけ。そのうち元に戻る」
そんな仲間のやり取りなどどこ吹く風とばかりに、ミカはただひたすらリスのように幸せそうにお菓子を頬張り続けていた。
やがて、四人は順番にそれぞれの自室へと戻っていく。
ラックは生気を失ったまま、ローシュに肩を支えられて半ば引きずられるように部屋へと連行されていった。
こうして、ミカにとって港町での一日目の夜は、静かに更けていくのだった。




