闇をさまようもの
「なぜ、その石碑を押したのかね?」
私はカスパーに聞いたオツベルの話しをした。
「あなたが、部下の頭を鍋で叩いた話しも、カスパーから聞きました。」
トゥコは暫くの間、考えていたようだが、やがて眉をひそめて口を開いた。
「どうやら、君は担がれたようだね。私の覚えている限り、その頭を叩かれていたのが、おそらくそのカスパーだ。もっとも彼はクラウスと名乗っていたがね。」
いったいどうなっているのだろうか。
「鍋で叩いた話しはクラウスしか知り得ないはずだ」
言いながら、トゥコの姿がモーフィングしながら、また素晴らしいスタイルのジルケに変わった。目のやり場に困る。
ジルケからトゥコへの変身が自在過ぎる、蛇人の変身の範疇を超えている。これはジルケが、無形の落とし子の血を引くという噂が真実だったということか。
「言っておくけど、言い寄って、うざいから鍋で叩いたのよ」
ジルケに惚れた男の末路として、地下労働所に送られると言っていた。自らのことを、自嘲して言っていたのだろうか?カスパーは、嘘をついていたのだ。
「では、彼もここにいた?」
ジルケは頷いた。
「ここにいたわ。でもね、少し前に、他の蛇人僧たちを煽って反乱を起こして脱走したのよ。ヨス寺院の執事長にしてあげたのに、重要なものを盗んでね。その時は今のクラウスの姿だったけど。」
その後、ジルケはその反乱のせいで、人が足りなくなったから、東方にいる親戚からショゴスの一群を派遣してもらった、と事の顛末を話してくれた。
「今、あのもの達は顔が崩れて認識できないでしょう、形は空であり、空は形である…あれらは、日の光の届かない地下では本来の無形に戻りつつあるのよ」
東方の親戚、ゾゥタクトウァの高位眷属から派遣されてきた者達だと言う。ショゴスは、本来、形無きものである。
違和感…では、私が修道院で話していたクラウスはショゴスだったのか。十中八九、反乱を起こした蛇人僧たちは殺された、殺人のアリバイとしてショゴスのコピーを社会生活させたのだろう。死体は妖蛆が土に還してくれる、完全犯罪だ。あとは適当な時期に退職させればいい。
ジルケ、酷いことをする経営者だ。トゥコに変身するところからも、今回の退職届けを騙しとったのも首切りのためのシェイプシフト一人芝居だ。しかし、なぜ私が巻き込まれたのか!?
「クラウスも王立魔法学院まで出た、アデプト級の魔法使い、何の考えも無しにあなたを送り込むはずもない…他の連中も無形に戻りつつある…無形に戻るのが早すぎる…」
ジルケは暫く考えていたが、おもむろに
オツベルってまさか、と呟き、
「カスパー…クラウスから貰った物はある?」と言った。
私は、古ぼけた時計を思い出した。法事の時に使っていた懐中時計を。暫く、隠形の術で影の空間に隠していたので充電していない。
私は、懐中時計を取り出した。ジルケは驚いた。
「送钟…時計を贈るというのは、東方では忌み嫌われる行為だわ。東方神話ではオツベルが象を騙すために送ったのが時計…クラウスめ!」
その途端、時計から黒い煙がものすごい勢いで噴出していた。闇がうねり、部屋の壁にぶつかり跳ね返り、部屋を闇で満たした。
反動で時計を落とした私は、衝撃で裏側のハンターケースが開くのを見た。
折り畳まれた黒い紙のようなものが落ちる。ひとりでにそれはゆっくりと開き五十センチ四方になったそれは、黒い煙を吐きながら振動していた。
闇の中にジルケの苦々しげな声が響く。
「魔法で二次元のあれを折り畳んでたのね、あの馬鹿。あれは影に置かれると『さまようもの』を召喚してしまうのよ。お前が地下で影の隠形を使うとわかってて謀ったのね!」
振動は激しくなり、大量の闇の粒子を吐き出した。闇の粒子の正体は重力子である。光が大量の重力子により曲げられ、屈折して闇に見えるのだ。
そして、蛇人の秘術により二次元化された膜を、重力子のみは突き抜けて高次元空間に届く。そして、蕃神は高濃度の重力子を撒き散らしているのだ。
当然ながら、三次元化が起きた。突如として目の前の床上に出現したそれは、狂った幾何学の不調和が生み出した、悪夢の結晶体であった。鈍い緋色の輝きと黎い艶を帯びた歪んだ多面体は、光を反射するのではなく、あたかも周囲の明かりを吸い上げてはその奥底で昏い緋色の焔へと再構築しているかのようだった。奇妙な形をした7つの支柱から、その結晶は箱の内部に触れぬよう吊り下げられていた。見たこともない異界の生物を象った装飾が異様な雰囲気を助長している。
輝くトラペゾヘドロン!
地下は暗く、大広場を除いて光に当てられていない。光で動力の魔力を充填するというのは、おそらくカスパーの方便だ…輝くトラペゾヘドロンを封じるための。
ふと、前を見ると、何かが浮かんでいる。黒い煙のなかに、赤い光点が3つ。ちょうど眉間から数メートルくらいのところに、浮かんでいた。視点をずらしても目の前にいる。
礼拝修行中や、松の間でも見かけたものだ。
黒いものは何かを呟いていた。忌明けの呪文の一節に似たものだ。
かくて知覚の対象は没落し、その根に至らん
汝が否定は無限に虚空を生みて巡る
体はかりそめに創られど悪無限
この没落こそ、根源の力とならん
ハイル、暗黒のラージャ
ハイル、千手なるニャルラトナホテプ
ニャル・シュタン! ニャル・ガシャンナ! ニャル・シュタン! ニャル・ガシャンナ!
空中に、黒きものが浮かび形をとった。
黒き翼を拡げ…
紅き三眼が闇に瞬く。
次の瞬間、その顔は無貌となった。
またその顔がクラウス。ヤーカ。カトリ、フツ、フワル、キッシュ、ガトー、ヨシ…
続けて、無数の知らぬ顔に次々と変わる、いったい誰なのだろうか?誰とも定まらぬ顔によって非限定性を顕した「それ」は、最後に…
…それは、私の顔になっていた。




