夜の魚
法事を任され始めると、給金は基本給の金貨十八枚だったころから飛躍的に増え、歩合がついて金貨三十六枚ほどとなった。給金が倍になったのだ。
追善法要一件につき三万デナリ。その三十パーセントが歩合である。
歩合率は修道僧の階級によって違うが、最初は三十パーセントから始まる。つまり、一件につき九千デナリ。そこに車代がつく。
車代は一万デナリだが、こちらも修道院に徴収され、三十パーセントが修道僧の取り分として、魔導車の維持費に充てられる。
追善法要一件につき一万二千デナリ。
月に十五件もこなせば、歩合だけで十八万デナリが加算され、三十六万デナリの収入になる。
はっきり言って、生活が圧倒的に楽になった。
追善法要は、だいたいが葬送の儀を担当した信徒から依頼される。担当した修道僧が、その後の法要まで引き受けることが多い。いわば永久指名に近い。
信徒としても、葬送の際に祈りを捧げた修道僧を、その後の追善にも呼びたいに決まっている。
しかし、週に三件も葬送を担当する修道僧ともなれば、予定が重なることなど珍しくない。
そこで、担当導師が行けない法要に、新人の修道僧が代わりに赴くことになる。
私は信徒の家へ赴くため、魔導車が必要になった。
そこで修道院長に頼み、三十万デナリを前借りした。
修道院と付き合いのある中古魔導車商から、メタリックブルーの小型魔導車を十五万デナリで購入した。車体の整備費と登録費用などを合わせると、結局三十万デナリほどになった。
修道院長によれば、葬送の導師として出仕できるようになれば、すぐに返せるとのことだった。
魔導車には古い道案内の魔導具を取り付けた。
先輩の修道僧が以前使っていたものを譲ってくれたのだが、ずいぶん古い型だった。
私が結界術の取得のために籠り。
法事に出ることになったころ。
王国では奇妙な新型感染症が流行り始めていた。
沿岸部から発生したと伝えられたその病は、瞬く間に海を越え、各地へ広がっていった。
空から撮影された地方都市の映像。
火葬場から立ち上る煙。
急増する死者。
通信魔導具から流れてくる報道を眺めていると、まるで異世界の惨状を見せられているようだった。
当初、感染症による追善法要の中止などはほとんどなかった。
信徒や修道僧、寺務を担当する者たちの間に感染者が発生し、修道院そのものが混乱する。
そんなことになるとは、まだ誰も思っていなかった。
すぐに収まるだろう災害。
その程度にしか感じていなかったのである。
豪華な客船の船内で感染者が大量に発生した事件も、通信魔導具の向こう側の出来事だった。
医療隊の対応が悪かっただの、船会社の判断がどうだっただのと議論されていたが、私はそれをぼんやり眺めているだけだった。
それが、自分たちの身体にも、すでに目に見えない火がついているのだと実感させられたのは、王都でも知られた喜劇役者の病死が報じられたときだった。
身近なところで笑いを振りまいていた男が、あっという間に病に倒れた。
その死によって、多くの人々は初めて、この病が自分たちのすぐそばまで来ていることを理解した。
私も追善法要をこなす一方で、主に修道院長が導師を務める葬送の儀に、随行の修道僧として付き従うようになっていた。
―――
「やだ、鼻水と涙が着いちゃった」
粘液がお布施に付着していた。
正直、勘弁してくれよ、と思った。
魔導顕微鏡でしか見えない極小世界の生物種を、生物学では菌と呼ぶ。さらに極小の生物かどうかも怪しいものをウィルスと呼ぶ。この世界での魔法医学は前星系での三脳生物種の医学の伝統を受け継いでいる。
体液に混入しているのかもしれない。ただの風邪ならばよいのだが。
それでも私は、にこやかに布施を受け取り、法衣袋の中へ入れた。
葬送の儀で脇に付いたときの印象では、艶やかな礼装をまとった女性だった。
王都の歓楽街で店を営んでいるという喪主だった。
亡くなった故人の娘が喪主を務め、故人の妻は娘に任せきりだった。
導師は修道院長だった。私ら脇の式衆としてお経を読誦した。
それから四十九日の追善法要となった。
まだ遺骨を納めていないということで、私は喪主の住居まで赴くことになった。
メタリックブルーの小型魔導車を、長屋の庭にあたる場所へ止める。
長屋は簡素な造りだった。
狭い室内には生活用品が所狭しと詰め込まれている。
寝台は介護用の魔導機構が組み込まれたものだった。
木造の簡素な部屋の中には、魔導機械へつながる配線がひしめいている。
葬送の儀のときに見た艶やかな印象は、まったくなかった。
化粧気のない昼間の顔は、魚類のように無表情で、無気力そうだった。
深きものにそっくりだった。故人の父親が深きものなのでしょうがない…
あれほど艶やかな装いをしていた夜の蝶が、このような簡素な長屋に住んでいるというのが意外だった。
すっぴんで、服も寝間着に近い。
私は、修道院長からあらかじめ聞かされていた故人の情報を思い出しながら、ひとしきり思い出話を続けた。
布施を頂きながらも、この時期に危険な、鼻水と涙という自らの体液を使った冗談には、夜の街の挑発のようなものを感じた。
私は冗談を躱し、祭壇へ向かった。
ジャリジャリッ、と算盤玉の念珠を擦る。
小さな部屋の祭壇へ向かうと、介護用の魔導寝台から故人の連れ合いが身体を起こした。
祭壇のほうを向こうとしている。
喪主が母親の身体を支えていた。
私は彼女たちへ向き直り、四十九日の追善法要の開始を告げた。
母親はぼんやりとこちらを向いて合掌した。
換気のために開けた窓から風と夏の日差しが入り込む。
彼女はそちらを見て、目を細めた。
眩しかったらしい。
―――
結界術で亜空間の幕を張る。
懺悔から帰依。
もしこの布施袋から感染したら嫌だな、と思った。
金に病が付いてきて感染したら、まるで呪いではないか。
東方の古い聖典にも、似たような話があった気がする。
富を受け取った者に、疫病が付いてくるという話。菌やウィルスは二次元化できるのか?
そんなことを思い出しながらも表白を読む。
つつしみ敬って
バイジャジャ・ヨグ=ル神に申して申さく
百の暦が巡るとき、
儚き蓮の影は消え、
暁の露は晨光に散らん。
諸神の座の前にて、人は宿世を知る。
仮そめの宿りに繋がれし魂は、
定められし別離の風に吹かれ、
ただ無常のによって削り取られん。
滅びの刻を逃れうる者は、一人としてなし…
ここに信心の施主の精霊の追福の梵筵をのべ、バイジャジャ・ヨグ=ル神の威光を仰ぐものなり…
表白を詠唱する。
壺より出でし白き骨、
滑らか・鹹き・無関心の性。
名の核は束ねて一と為すも、
多と一は相克し、ここに争う。
名は識に還りて像を結び、
性は鋳型に凝りて虚を抱く。
凝りし鋳型、やがて空しく崩るれば、
諸性は散り 何処へか去る
反転せし鏡像
生と死と、等しき地に結集すれど、
そこは故人の影、実なき檻。
衣剥がれて残るは顔無き貌、
等しきもの、大いなる矛盾に呻く。
かくて知覚の対象は没落し、その根に至らん。
否定は無限に虚空を生みて巡る。
その虚空に体はかりそめに創られど
この崩壊こそ、根源の力とならん。
一にして全、全にして一なるものよ
この魂に安らぎを与えたまえ
銀の鍵を取り出し、
渦巻きからは瑠璃色の稲妻が迸り、真ん中から虹色の泡を確認すると、銀の鍵で円を描き、真ん中に鍵を差し込み、門を開く。
そしてバイジャジャ・ヨグ=ル神の呪文を、唱える。
イア イア ングアアンンガイガイ
イア イア ンガイ ンヤア ンヤア
ク リトルリトル フタグン
イア イア イハア イニヤアイニヤア
ンガア ンンガイ ワフル フタグン
ヨグ ソトオス! ヨグ・ソトオス!イア!イア!ヨグ・ソトオス!
フングルイ ムグルウナフ
クリシュトルフ ルルイエ
ウガフナグル フタグン!
ルルイエの館にて死せるクリシュトルフ
夢見るままに待ちいたり
あまりにも有名な聖句を詠唱する。
そして、そして黙念した後に、微声で行き先をルルイエと告げる。白い遺骨から光球が飛び出し、渦に吸い込まれていった。
そして
蕃ニャル神経を全段。
骸骨礼文。
千手大悲呪。
アミトース根本呪。
最後に回向。
それで法要を終える。
海洋教会の導師でもないが、魂をルルイエに送ることは成功したのでほっとした。
間違っても「深きもの」をアミトースの歓喜浄土やイグの地底浄土に送ってはいけない。
法話では、四十九日の間に故人が置かれているとされる「中有」について話した。
死後、意識を取り戻した故人は、自分が横たわっている姿を見て混乱する。
身近な家族へ呼びかけても答えはない。
壁や天井や床さえ、身体がすり抜けてしまう。
以前とはまったく違った存在になってしまった者たちは、無限の光とともに神々が現れるまで、不安と恐怖に囚われている。
宗門によっては、そのような霊魂の存在について語ることを禁じているところもある。
だが、私は思う。
霊魂の存在を認めていないのなら、いったい何が四十九日を過ごしているというのだろう。
四十九日という区切りによって、一つの追善法要が成立する。
一法要三万デナリ。
二法要四万デナリ。
三法要なら五万デナリ。
法要を一つ追加するごとに、布施も増える。
四十九日忌明け。
発遣。
開眼。
神像開眼。
これで三法要。
布施は五万デナリ。
その三十パーセントが歩合だから、一万五千デナリ。
さらに車代の一万デナリの半分、五千デナリが魔導車の整備費として支給される。
合計二万デナリ。
それが基本給に加算される。
そんなことを瞬時に計算できるほどに、職業僧というものは堕落する。
中有を認めず、死後すぐにアミトースの歓喜浄土へ往生すると説く浄土系の諸派も、なぜか四十九日の追善法要を行う。
商売としておいしいからだ。
いったい誰の、何が、四十九日を経過したのか。
そこを明確にしないまま布施だけは頂き、あとは「よりよく生きる」とか、「今を生きる」といった人生訓で誤魔化している。
しかし、娑婆世界とは別の存在形態を認めなければ、この儀礼には意味がない。
存在が一つの形態から別の形態へ移り変わる。
その移行する何かを、とりあえず霊魂と呼んでいる。
もちろん、霊魂という言葉だけでは、その正体を端折りすぎているのかもしれない。
だが、現時点では、それでいいではないか。
喪主には、四十九日をもって故人が迷っていた期間は終わり、神々がその魂を彼岸へ連れて行ったのだ、と話した。
ちら、と懐中時計を見て、時間を確認した。そろそろ時間である。
これをもって、ひとまずの区切りとする。
そして、遺骨を納めることを勧める。
どれほど故人が大切だったとしても、死者の家である陰宅と、生者の家である陽宅が重なり続けることはよくない。
生者の健康を損ねる。
これは本来、東方魔法に伝わる陰陽の思想であって、シャークヤの教えそのものではない。
しかし、生と死を区切るという行為そのものは必要なのだ。
魔法名も、一種の忌み名である。
生者と死者。
此岸と彼岸。
その境界を区切る。
それこそ、死の世界と濃厚に接触した我々が、再び日常へ帰ってくるための智慧なのだ。
でなければ、死者に引っ張られる。
葬送を行う日を暦によって避ける風習があるのも、家族や友人を故人が引っ張らないようにするためだ。
こうした仕掛けは、三脳生物種の暦や生活文化の至るところに残っている。
古来の智慧とは、案外そういうものなのかもしれない。
そして我々葬送業者。
修道院の名を背負いながら、実際には布施を追いかける、薄汚れた罪悪深重の禿頭の営業マン。
そんな我々にとっては、これは一つの商機でもある。
ここで修道院の墓所や納骨堂へ遺骨を納める必要性を説く。
「こちらはシャークヤ修道院が運営しております霊園でして」
そう言って、霊園の案内冊子を置いていく。
喪主は途中まで法話を聞いてくれていた。
しかし、話が納骨の必要性へ移り、さらに霊園の四季折々の自然の美しさへ及ぶと、その顔に微かな変化が現れた。
ああ。
営業ね。
そんな表情だった。
ふと、彼女は「深きものども」そっくりの顔で、私を眺めた。
エラのようなものが首すじに浮かんで消える。
魚人特有の変化。
やはり、混じり者である。
私は愛想笑いを返し、何かありましたらご連絡ください、と言った。
彼女は、少し待ってと言いながら、ハンドバッグを漁り、名刺とペンを取り出して、何か書き込んでいた。
はい、と渡される。
鼻水の付いた店の名刺に、彼女の魔導連絡コードが、記されていた。




