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甘き寂静

 加行の三日間は、あっという間に過ぎた。


 二日目の行監はカワカだった。


 薬食には、料理書を見ながら海藻出汁の麺を作ってくれた。


 最終日前日。


 三座目の礼拝行で、私は奇妙な体験をした。


 最終日と、その前日の行監はフーテイだった。


「あとで戻るさかい」


 そう言って、午後から仕事に出かけてしまった。


 一人で、数を数えながら礼拝を黙々とこなす。


 呪文を唱えていると、不思議なことが起こった。


 呪を文唱え、数珠を繰る。


 いつもなら、その間にいくつもの雑念が浮かんでくる。


 だが、その日は違った。


 雑念が少ない。


 ふと気づいた。


 あと少しで千返というところだった。


 私自身の煩い声も、外の喧騒も、いつの間にか消えていた。


 妙に静かだった。


 静けさは、そのまま凝縮され、私はそれを飲み干した。何故か、本当に飲めた気がした。


 静寂は甘美だった。


 喧騒も、疲労も、遠ざかっていく。


 私は思った。


 この聖なる静寂に比べたら、俗世などいらない。


 不可不思議な静けさ。


 ふと、どういうわけだか、頭の中に奇妙な考えが浮かんだ。


 ――この静寂は、死そのものではないか?


 自分でも、その考えがどこから来たのかわからなかった。


ただ、アトラクナチャータ神が、死をもたらすものということが、深く了解されたのだ。


 アトラクナチャータ神の蜘蛛の巣が完成する時、この宇宙は終わる、と言われている。


 外はいつの間にか暗くなっている。


 私は呪文千返を終え、後片付けを始めた。


 ふと、立てかけてあった鏡を見て吃驚した。首が青い。妙な静寂の甘美な残り香だけが、脳の片隅に残っていた。


 薬食は、豆を使った偽肉と赤い果実のソースを使ったピラフだった。


 明日には帰れる。


 フーテイが景気付けに作ってくれたのだ。


 西方の修道院の厨房で鍛えられた料理の腕はさすがで、まるで王都の料理店で食べるような味だった。


 夜は、フーテイと座学の時間だった。


「神さんを、遠方の貴人と見立てて、おもてなしをする」


 貴人とは、古代の王族のことをいう。


 フーテイによれば、


「あずけ」


 と覚えればいいらしい。


「あ」は閼伽。


「ず」は塗香。


「け」は華鬘。


 六器の並べ方の順番で、「あ・ず・け」。


「神さんがいらっしゃったら、まずは水を出して、暑いところよくいらっしゃいました、と振る舞うわけや」


 ジャンブドヴィーパ王国のある南方は暑い。


 日差しも強い。


 王族が外を移動するときは天蓋を差した。


 その王族の傘が、後世の修道院で使われる天蓋の原型になったのだという。


 さらに、その天蓋の意匠が西方へ伝わり、やがて大広間を飾るシャンデリアの原型になったともいう。


 一万二千年前の王族の生活様式が、魔法と信仰の儀礼にまで影響している。


 そのことが、私は新鮮だった。


 しかし、よく考えてみれば、シャークヤは王子だった。


 後世の信徒たちが、神を古代の貴人として迎え、その生活様式に合わせた供養の所作を作っていったとしても、不思議ではない。


「次に、お香を振る舞う。香食、と言って神さんはお香を召し上がる。食事なわけや」


 もちろん、お供えの飯もある。


 だが神は、物質的な食事を必要としない。


 香り。


 風味。


 そして、供える者の感謝。


 そうしたものを味わうのだという。


「最後に、食事が終わったら、デザートや。華鬘、お花の香りや、美しさを楽しんでいただくわけや」


 花を浮かべた水は、香水。


 つまり、古代人にとっての果実酒や甘露のようなものだという。


 これらはすべて「振る舞い」だった。


 香を焚く。


 礼拝をする。


 声明を唱える。


 すべてが仏を迎えるための振る舞いなのだ。


「おもてなしには三つの要素がある」


 フーテイが指を三本立てた。


「装い、設え、振る舞いや」


 装いは衣帯。


 魔法僧の法衣などが装いになる。


 設えは荘厳。


 掃除から始まり、六器の配置、華瓶の水換え、花、酒水器、供飯、供物、香、三方の向き、幕。


 すべてが「しつらえ」だ。


「神さんをもてなす。そのための所作や。古代ジャンブドヴィーパの貴人を想定しとる、ちゅうこっちゃ」


 座学の時間も半ばを過ぎると、いつの間にか雑談のようになっていた。


 一昨日のガオの謹慎の話に及ぶ。


「千手ニャル神の千の姿の一つに童子身というものがある。つまり、千手さんを観想するというのは、童子に戻って禁欲とか童貞を守るという意味合いがある」


 私は目を丸くした。


「つまりは、センズリこいたり、奥さんといちゃつかないっちゅう意味や」


「へーぇ……」


 驚きながらも、私は妙な感動を覚えていた。


 ガオは、さらりとした言葉の中に、暗号のように意味を込めていた。


 修行者同士の雑談には、そういうものがあるらしい。


 座学の後、フーテイがこっそりと凍らせた甘い砂糖水を差し入れてくれた。


 戒律的には問題ない。


 しかし、千回にも及ぶ礼拝で疲れ切った身体には、その甘さと冷たさが麻薬のようだった。


 冷えた糖分が急に身体へ入る。


 頭がパキッとした。


 脳が急回転するような感覚がある。


 クッキリとした頭で、座学で学んだ内容が次々と思い出された。


 しかし、その時の私は、糖分が身体にどんな作用をもたらすのかなど知らなかった。


 翌朝。


 目を覚まして時計を見る。


 四時だった。


「……え?」


 慌てて飛び起きた。


 水を汲み、準備をし、着替える。


 すると行監のフーテイが、鬼のような顔で立っていた。


 平謝りに謝りながら、最終日の礼拝行を終える。


 最後に浴室の掃除をしていると、フーテイが言った。


「糖分入るとそうなるんや。修行は最後まで油断したらあかん」


 一服盛られたのか。


 一杯くわされたのか。


 どちらにせよ、


 ――修行中に甘い砂糖水は危険。


 その経験だけは、身体の毛穴から入り、骨の髄にまで染み込んだ。


 帰り道。


 満行祝いということで、アーゼン、ウーノ、フワルが肉を奢ってくれた。


 肉を美味しくいただいていると、フワルが暗い顔をしている。


「どうしたんですか?」


 聞くと、フワルが言った。


「エリアスちゃん、フュルステンブルクに行ってもよろしくね」


 アーゼンとウーノがフワルを慰めている。


 なんと、フワルがフュルステンブルク修道院へ異動になったらしい。


 この食事は私の満行祝いであると同時に、フワルの送別会でもあったのだ。


 フワルはミトと仲が悪いことで有名だった。


 ウーノによれば、昔はフワルとウーノ、そしてミトは仲が良かったという。


 かつてミトはシャークヤ修道院本院に勤務していた。


「アーゼンと、よく武術の話なんてしてたよ」


 アーゼンを見ると、苦笑しながらエールを飲んでいた。


 アーゼンはおどけているように見えるが、本院ではトーゴに次ぐ実力者であり、東方の魔導師たちとも仲が良かった。


 何が原因だったのか。


 ある時期からミトは、ヴァルーシア社やジルケ代表の意見を代弁し、本部の監査役のようなことを始めた。


 それが原因で、本院の面々と衝突するようになった。


 やがて代表から辞令が出た。


 ミトをフュルステンブルク修道院の主管にする。


 そうしてミトは本院から異動した。


 昇進のために本院の修道僧たちの粗探しをし、かつての友情を権力に売った。


 それが、フワルとウーノの見解だった。


 そんな経緯もあり、フュルステンブルク修道院とシャークヤ修道院本院は、緊張した力関係を保っていた。


 ケーニヒスフェルト修道院のボスであるフーテイと、修道院長のクラウス・シェーファーが、たびたび仲介のために骨を折っている。


 今回の異動は、シャークヤ本院の力を削ぐためだ。


 フワルとウーノは、そう話していた。


 アーゼンは興味なさそうに、酒場の壁に映された魔導幻灯の武術の試合を眺めていた。


 そして、結界術の伝授の日。


 また一悶着あった。


 柄香炉の香盛りをする。


 香はコの字状に盛るはずだった。


 ところが私は、九十度ずれた凹状に盛ってしまった。


 ご本尊をサスマタで突くような感じになった。


 それを見たフーテイが烈火のごとく怒った。


「おまえ、それ誰に習うたんや!」


 最初は、何が間違っているのかわからなかった。


 もう一度怒鳴られて、ようやく気づいた。


「誰に習うたんや!」


 怒声を背中に感じながら、私は柄香炉を持って走った。


 香の保管庫まで着くと、フワルがいた。


 フワルが香盛りを手伝ってくれた。


 相変わらず暗い顔をしている。


 よほどフュルステンブルクへ行くのが嫌らしい。


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