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餓鬼

 四月の中旬から、結界術の加行が始まった。


 泊まり込みである。


 護摩堂の隣に建つ平屋の修行房で寝泊まりをする。朝は三時から始まる。


 最初の仕事は、水汲みだった。


 護摩堂から少し離れたところに、ウボ=サスラヴァティ女神を祀った古い水場がある。そこから聖水を汲む。これにも決められた作法があった。


 まず懺悔の文を唱え、帰依と続ける。それから蕃ニャル神経を一巻。続いてウボ=サスラヴァティ母神の呪文、そして最後に水神クリシュトルフの呪文を唱えながら印を結ぶ。最後にまた偈を唱える。


 そこまで終わって、ようやく水を汲む。


 汲んだ水を護火堂まで運び、六器の閼伽器に注ぐ。樒の中から形の整ったものを選び、閼伽には三葉を浮かべる。中央には塗香、外側の器には華鬘を供える。


 華鬘には、五葉の星のような形に開いたシキミを選ぶ。


 シキミが長く瑞々しさを保つよう、華鬘の器にも水を張っておく。


シキミは正式名称を「悪しき実」という。アシキミである。


 この植物は実はもちろん、葉や茎に至るまで、虫や動物にとっての毒が含まれており、お供えを狙う彼らへの結界となる。


 元々は、葬送儀礼の時に死体を守る目的で使われた。


 六器は右側が前供、左側が後供と呼ばれている。前供の閼伽器には塗香器を重ねて置く。酒水器の水も、華瓶の水も取り替える。


 壇上の掃除と荘厳を終えるころには、もう四時を回っていた。


 私は修行衣に着替え、行監が来るのを待った。


 後夜の加行が始まる。


「イア!イア!…帰命し頂礼し奉る、勝者、大聖大悲、アトラクナチャータ神、シッディ成就」


 声を張りながら、礼拝を繰り返す。


 素絹や白衣の裾を踏み、転びそうになりながら身体を伏せる。十日間の行のときは作業着だったから、この動きも楽だった。


 修行衣は、とにかく裾が邪魔になる。


 何度も踏んでしまう。


 下手をすると、


 ビリッ。


 と、嫌な音がする。


 礼拝は百返。


 行監が数えている。


 初日の行監はガオだった。家が近いので、この日は彼が担当していた。


 涼しげな顔をしたガオに見守られながら、息を切らして礼拝を終える。


 続いてナコト写本読誦。


 その後、アトラクナチャータ慈救呪を千返唱える。


 フーテイに教わった観想法も併せて行う。


 アトラクナチャータの紡ぐ金の糸が、金色の渦となって神の足元から入り、口から螺旋を描いて外へ出る。


 その光が今度は私の頭頂から入り、体内を巡る。


 そして再び慈救呪となって、私の口から外へ出ていく。


 それを何度も繰り返す。


 集中していると、行はあっという間に終わった。


 礼拝行を終えると、堂内の清掃である。


 六時半から七時まで堂内を掃除し、その後は境内の作務。草を引き、石畳を掃き、落ち葉を集める。


 八時まで作務を続ける。


 八時から朝礼。


 八時二十分から朝勤行。


 この日の導師はトーゴで、経頭はウーノだった。


 久しぶりにウーノの朗々とした声を聞いた。


 勤行が終わるのは八時五十分。


 急いで着替え、ようやく九時から朝食になる。


 粥食である。


 その日の行監が食事当番も兼ねる。台所と食堂を掃除し、湯を沸かし、粥を炊く。


 食事は粥と漬物二切れ、海藻の塩漬け、果物一つ。


 脇には皿と鉢が置かれている。


 施餓鬼。


 餓鬼のために、粥から米を取り分け、皿に置いておく。これは行監も行う。


 その後、水を張った鉢に、その米粒を入れる。


 食事の前にも作法がある。


 まず蕃ニャル神経を一巻。


 それから食前観を唱える。


「われ今幸いに、祖神の加護と衆生の恩恵によって、この清き食を受く。つつしんで食の来由をたずねて味の濃淡を問わず、其の功徳を念じて品の多少を選ばじ。」


 行監が介錯を二度、カンカンと鳴らす。


 食事が始まった。


 塩海藻が美味しい。


 漬物を噛むときは、音を立ててはいけない。


 サーノに聞いた話では、ヒスイ山の修行道場では、漬物を噛んだ音だけで、


「うるさいっ!」


 と怒鳴られるらしい。


 しかも、修行僧全員が、


「おまえのほうがうるせぇ」


 と思うほどの大声で怒鳴られるという。


 漬物をものすごくゆっくり、歯で押し潰すように噛み、飲み込む。


 口の中に味と香りが残っているうちに、粥を啜る。


 一切れを残しておいた漬物で、最後に果物をいただく。


 酸っぱさで粥が進み、あっという間に平らげてしまった。


 椀には、まだ米粒が残っている。


 米粒を一つずつ丁寧に集める。


 漬物と一緒にいただく。


 また音を立てないように噛んで、飲み込む。


 食後には熱い茶をいただく。


 心地よい時間だった。


 しかし、浸っている暇はない。


 食後観である。


「われ今此の清き食を終わりて心ゆたかに力身に充つ。願わくば此の身心を捧げて、己が業にいそしみ、誓って恩に報い奉らん。」


 介錯のカンカンという音が聞こえる。


「ごちそうさまでした」


 食事が終わった。


 餓鬼の鉢は厨房の奥に置いておく。


 施餓鬼を行うのは暮れになってからだ。


 十時から日中の入堂。


 日中の加行は後夜のものとほぼ同じだ。


 その後の中食は、炊いた飯に塩海藻、漬物、果物。


 自分で用意する。


 魚の出汁が使われているようなものは避ける。


 あとは茶があれば、それなりに美味しくいただける。


 初夜の加行を終え、片付けをしてから夕勤行を行う。


 久しぶりにフワルと、尼僧のキッシュと一緒に勤行をした。


「あとちょっとで稼げるようになるわよ」


 尼が言った。


「稼げるようになりますかね?」


 私が聞くと、フワルが代わりに答えた。


「歩合がつくと、段違いだね。でも、エリアスくんは別のことで大変だよ」


「何でしょうか?」


 フワルは顔をしかめた。


「ミトとジルケだよ。だんだんおかしなこと言ってくると思うよ」


 何のことなのか、その時の私にはまだよくわからなかった。


 ガオと施餓鬼を行った。


 合祀墓からさらに数メートル先にある植え込みまで行き、そこで施餓鬼の作法をする。


 施餓鬼では数珠を使わない。


 袂に入れておく。


 餓鬼は、わずかな音でもすると逃げてしまうからだという。


 数珠を擦った音でも逃げる。


 その後、甘露呪を唱える。


 水と飯を加持し、餓鬼が食べやすいものに変えるためだ。


 続いて偈を唱える。


「百の影は渇きに絶望し、荒野に彷徨う。

しかし、天より降りし潔き糧が注がれる時、

解脱の光が彼らの心身を満たし、

悪夢の肉体を捨てて、歓喜の都へ旅立つだろう。」


 この偈は、餓鬼に命令するように唱えなければならない。


 餓鬼は魔法僧より下位の存在だ。


 だから、こちらが主導権を握る。


 そうしなければ、逆に取り憑かれてしまうことがある。


 そして弾指をする。


 弾指は人差し指で指を弾く。その時に魔力が指先から弾けるのだ。


 数分すると腹の膨れた小鬼のようなものが数体現れて鉢の中の飯をむさぼり食っていた。


 夜は竹の間で過ごした。


 ガオと座学をする時間だったはずなのだが、いつの間にか彼が西方の僧院で古い教えを学んだ話を聞くことになった。


「オタクな世界なんや」


 ガオは嬉しそうに話した。


 アミトースの歓喜経に代表される経典群。その難解な古代語の経典を、簡単な古代語に訳し、さらにそこから西方語へ訳す作業をしていたらしい。


 古代魔法を研究する学問所にいたガオは、達人たちが集まる西方の修道院へ飛び、西方魔法を学んだ。


 そこでフーテイとも出遇ったという。


 魔力であるルーシュを消費する東方魔法と違い、西方魔法はアミトースの力を魔力の源泉とする。そのためにアミトースとの契約が必要となるのだ。アミトース信者は人類の大半だが、実際に契約できた人は非常に少ないとされる。竜が針の穴を通るより難しい、とは聖典の言葉だ。


 契約は第一使徒である千手ニャル神の仲介で行なわれるが、西方教会はお手次教会と言って、勝手に仲介者を気取っている。ニャル神の冷笑が目に見えるようだ。


 東方魔法の基本は自らのルーシュを他の存在に食わすと、そのぶん帰ってくることだ。さっき食わせた餓鬼や、大地や、植物、鉱石、などの自然、または四大の精霊や土地神に至るまで。東方魔法は言ってしまえばそのルーシュの循環の追求である。なので、梵行から筑基、それから周天法などの修行してから、さらに自然やこの世界へルーシュを循環させる。


 それと違い西方魔法はアミトースの誓願を元にしているために、脳天のチャクラを「門」として他天体の彼方の外宇宙の他方浄土にまします蕃神アミトースの力を降ろして周天させるのだ。


 そのため、自力の東方、他力の西方と言われている。


 ガオの師は、アミトース教の信者なら誰もが知っている著名な高僧だった。


 古い経典の研究者であり、著述家でもある。


 西方でも、アミトースや千手ニャルについての書物を何冊も出版している人物だった。


「すごい記憶力なんやで」


 ガオは嬉しそうに語った。


 彼の師が覚えている経文を唱え始めると、それだけで数週間ぶっ通しで唱え続けなければ終わらない。


 そんなものを目の前で見せられたらしい。


 他に座学らしい座学もせず、後輩を怒鳴りすぎて謹慎を食らった話などもしていた。


「わし、ずっとな。千手さんを瞑想しとったんや」


 私は、ほうほう、と頷きながら聞いていた。


 だが、この時のガオは雑談しているようでいて、実際にはかなり高度な話をしていた。


 しばらくすると、


「おまえに後輩ができるで」


 と言った。


「東方から西方に亡命した魔法僧でな。チィトカァ人や。いろいろ教えてやってくれ。」


「その方、名前なんて言うんですか?」


「フツや。フツ・ロサン・ギャルツェンて言う」


 舌を噛みそうな名前だった。

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