肉と休日
肉は赤味を孕んだまま、焼けて美味そうに横たわっていた。
驚くべきことに、クラウスが得度祝いとばかりに食事に誘ってくれたのだが、なんと野外でバーベキューだった。
私とザウヤは、王都の大型商会へ肉を買いに行かされた。
ザウヤは大量の肉、キノコ、野菜を籠に放り込むと、そのまま会計所へ向かった。
私とザウヤは作務衣のままである。
買った荷物を手分けして持つ。
「魔法戒を授かったばかりなのに、肉を食べていいんですか?」
そう聞くと、修行中は精進だが、そうでない時は構わないのだという。
自分が食べるために、その動物が殺されるところを「見なかった」肉はよい。
次に、自分が食べるために、その動物が殺されたと「聞かなかった」肉。
最後に、自分が食べるために、その動物が殺されたという「疑いがない」肉。
この三種類の肉を、三種浄肉という。
因みに、惑星ハイパーボリアの動物は、前世界から連れて来られたという伝説がある。
牛、豚、鶏、魚。その他、諸々のツガイをクリシュトルフやイグは星海を渡る船に乗せたのだ。
「それは、院長からのお布施だから、ぜんぶ食べなくてはいけない」
「ぜんぶ?」
「そう。腐りかけでも」
まるで、剣闘士や裏社会の組織のようだ。
しかし、ここは完全な縦社会なのだから、そういうものなのかもしれない。
とはいえ、三種浄肉はともかくとして、普段からこの修道院で厳格な精進をしている僧侶はほとんどいなかった。
驚くべきことに、代表であるジルケ・リューだけは菜食主義者で、動物愛護運動にも熱心だった。そのため、彼女だけは肉を食べない。
修道院長は、エールを飲み、機嫌がよかった。
新しい弟子ができたので嬉しいのだろう。
ふと、戒律の不飲酒の話になった。
「酒はね、これは般若湯だから。薬なんだよ」
クラウスはそう嘯いた。
「そもそも古代東方で不飲酒というのは、単純に酒だけを言っていたわけじゃない。幻覚性の植物の汁とか、麻薬を修行に使う修行者がたくさんいたから、それを戒めるためにできた戒律なんだ」
そのまま、話は肉食の話へ移っていった。
目の前では肉がいい具合に焼け、肉汁が滴っている。
肉汁を垂れるままにして、修道院長は言葉をつないだ。
「魔法僧が、なぜ肉を食わないのか?」
修道院長は焼けた肉を箸でつまんだ。
「不殺生の戒律による。この不殺生、なぜ生命を殺してはいけないのかと言えば、僧侶は生きることを辞めて彼岸に生きるものだからだ」
肉を口に運ぶ。
「言うなれば死と仲良くなり、永遠の消滅である涅槃を無上の楽として奉る者である。この、己の消滅がありがたい、大楽であるという認識を寂滅為楽という」
私は黙って聞いていた。
「この認識を最も獲得しやすいのが人で、他の輪廻の住人は獲得しにくい。神々はその快楽のため、魔神はその闘争のため、餓鬼はその飢えのため、地獄の住人はその苦痛のために、寂滅為楽という考えが生じにくい」
焼けた肉から脂が滴り落ちた。
「食糧である畜生は、そもそもそんなことを認識できるような思考器官を持ち合わせていない。とすれば、寂滅為楽の認識を持つシャークヤ教徒が、それを認識しえない生命を、己が寿命を伸ばすという、寂滅とは正反対の延命のために奪うということを、よくよく考えてみれば、それはおかしい。そういう始祖シャークヤの洞察によるものだ……」
クラウスはそんなことを言って、ほどよい具合の焼肉を頬張った。
得度してからは、仕事は少し緩やかなものとなった。
なぜなら、休みが週一で与えられるからである。
正確に言えば、一か月で四日休める。
なので、一か月に一度、まったく休めない週が生じる。
週一の休みとして計算しても、八時間ほど超過した過重労働となる。
もちろん王国の労働規則には抵触する。
しかし、この修道院では労働規則を回避するため、週四十時間を超えるその八時間を、あくまで労働ではなく、修道僧の学習時間として王国の監督機関に報告していた。
とはいえ、研修中は三か月間ほとんど休めなかった私にとっては、労働の苛烈さが弱まったような印象があった。
ただ、毎朝の朝勤行、夕勤行に参加するようになった。
そして、毎朝の上卓の清掃である。
法器をひとまずどけ、卓上の埃を払ってから、六器の閼伽、つまり水を取り替える。
樒が傷んでいたら取り替える。
そして最後に茶を供えるころには、朝礼の時間が迫っている。
法器が左右対称になっているか。
火舎香炉や茶器が中央に位置しているか。
細かく確認する。
この荘厳が一ミリでも左右にずれると、ミトが狂ったように騒ぎ出すので注意が必要だ。
これに関しては、元ヒスイ山系の修行経験を持つ師僧たちも首を捻っていた。
しかし、ミトは西方教会の伝統を受け継ぐ修道院出身なので、荘厳に関しては特に厳しいのではないか、という意見だった。
朝礼までは、この大本堂の清掃、もしくは霊園、フェアリー多種族霊園の清掃が大事な仕事になる。
春は枝垂れ桜の花びら地獄。
夏は暑さで焦熱地獄。
秋は落ち葉地獄。
冬は寒さで青蓮華地獄である。
夏は雑草が石畳の隙間から生えてくるので、同時並行して草引きもする。
広大な霊園の清掃は、空いた時間があれば積極的に行われた。
その他の作務、つまり仕事内容といえば、多種族霊園での火葬をメインの仕事として、あとは魔導通信の受付番のようなものだ。
しかし、空いた時間で神聖文字の練習や写本などをしても、一時間以内くらいであれば、誰にも文句は言われなかった。
修行僧の学習時間と見られたからである。
ナコト写本の書写は、すでに百枚に到達し、本堂内陣の祭壇の上に奉納してある。
それでも、時間を見つけては書写をしていた。
修道院の業務が安定してくると、ふいに出現した休みの日に何をしようかと、逆に暇になった。
私は、法儀で使うと言われたアミトース経や蕃ニャル神経の全段を午前中に自室で練習した。
午後になると、フュルステンブルクの巨大な商業施設へ出かけた。
買い物をするわけでもなく、ただ見て回って時間を潰した。
巨大な商業施設の華やかな雰囲気に惹かれた。
修道院の、暗く厳しい雰囲気とは真逆だった。
そこには、壁登りを楽しむ魔導遊技場があった。
人々が壁を異常な高さまで登り、そこから緩やかに降下している。
魔導式の安全装置がロープを制御し、滑車によって身体を支えているのだ。
色鮮やかな壁を登り、笑い合っている若い男女の集団を見ると、今の髪の毛の無いの自分との差異を感じて、居心地の悪さを覚えた。
法儀や墓地の持つ死の雰囲気と、相反した鮮やかな陽の世界。
そのギャップ。
山岳宗教でも山を登るが、内面の違いによって、同じ山登りという行為に感じる印象もまったく違うものになる。蜘蛛神アトラクナチャータの糸が羂索に該当する。
羂索は、こうした登攀用の安全索にその起源があるらしい。
安全索を握る者が神であり、修道僧が登攀者である。
登攀者は意識の階層をよじ登り、変性意識である悟りを目指す。
登攀者にとって滑落の危険が、いわゆる「魔」なのだ。
アトラクナチャータの糸は魔法僧が地獄へ滑落するのを防いでくれている。
そのため、登攀者は安全索を支える者に絶対の信頼を寄せていなければならない。
その信頼が、神々への信心なのだ。
そんなことを考えているうちに、爽やかな男女の集団との間にある雰囲気の溝は、さらに広がっていった。
孤独感が心身を包み、冷え切ってしまう前に、私は魔法遊技場の前から立ち去った。
激辛料理を出す東方料理店に入り、辛さで寂しさをごまかした。
休日は、あっという間に過ぎ去った




