魔法得度式
二階の部屋。
私は白衣を身につけ、その上から法衣を着た。
続いて、まだ手に馴染まない袈裟を身につける。
聖職者として正式に認められる儀式を、明日に控えていた。
得度願いは一週間前に筆で書いて提出した。
宛名には、きちんと「修道院長猊下」と記した。
三日前にはクラウス院長から、魔法衣、袈裟の着方、そして畳み方を教わっていた。
正式な畳み方。
それとは別に、袖畳みという略式の方法もある。
私は渡されたチョウジを口に入れた。
噛み締める。
昔の得度式では、修道院の浴室でチョウジ湯に入り、身体を清めたという。
だが、あまりにも湯が気持ちよかった。
中には長時間湯に浸かって出てこない者までいたらしい。
問題になり、儀式から風呂そのものがなくなった。
その代わりに、チョウジの入った小瓶が配られる。
――噛み締めて身を清めろ。
そういうことらしい。
リハーサルは前日、カワカの指導によって行われた。
現在の聖堂で古い儀礼に詳しい常勤の修道僧は、彼くらいしかいない。
東方の山岳宗教は主に二つの山に別れる。オーミー山とヒスイ山だ。オーミー山の主神はイグ神だが、ヒスイ山はバイジャジャ=ヨグ=ル神である。
ヒスイ山で修行して僧階を取ったサーノに、
「オーミー声明ってどうやるんですか?」
と聞いたところ、
「オーミー声明って何?」
と逆に聞き返された。
サーノとクラウス院長はオーミー山での修行経験こそあるものの、彼らが本格的に学んできたのはヒスイ系の伝統だった。
そのため、オーミー山系の儀礼にはそれほど詳しくない。
現在の儀礼部を支えているのはカワカとブルーノ。
そして、それを博識なガオが補強している。
カワカの師匠はクラウスではなかった。
前院代のブルーノだった。
ブルーノは、オーミー山の流れを汲む修道院の出身である。
シャークヤ修道院は、オーミー山の末寺を王都に登記移転してリュー家が経営している。修道院としての格式こそ高かったが、そもそも正式な儀礼を教えられるマスターがいなかった。
そこで、オーミー系の山岳聖職者だったブルーノを招き、その知識を借りた。
問題は、それによって別の歪みが生じたことだった。
声明の節回しが、修道院内で統一されなくなったのである。
クラウスやサーノはヒスイ山の節。
ブルーノやカワカはオーミーの節。
同じ声明なのに、唱え方が違う。
魔法の宗門とは、教義や理論だけで成立しているものではない。
声。
節。
詠唱。
ルーシュの使い方。
そして、誰から誰へ伝えられたか。所謂、口伝である。
そうした細部の積み重ねによって成立している。
私はそんなことを考えながら、リハーサルを続けていた。
聖水器の上には、ハリセンのような紙飾りが取り付けられている。
「これは何ですか?」
「ピーコック」
カワカが答えた。
そう言う法儀の装飾らしい。
彼自身が作っているらしい。
リハーサルが始まる。
懺悔の祈り。
そして帰依。
決められた台本通りに進んでいく。
ところが、その途中でカワカが突然、
「よくたもつ!」
と妙な声を出して笑わせようとしてくる。
よく保つ…
私は必死に笑いを堪えた。
研修最後の日だというのに、どうにも緊張感がない。
リハーサルが終わると、今度は修道僧控室から屏風を運び出した。
内陣へ設置する。
声明を唱える式衆や唄師の椅子を並べる。
屏風には、
天地。
魔法。
神々。
先祖代々。
と記された紙を貼り付ける。
柄香炉を磨く。
火舎香炉を磨く。
香を盛る。
その形は「コ」の字。
やることはいくらでもある。
明日には、いよいよ正式な修道僧になる。
そのための儀式の準備をしているはずなのに、私の頭の中には、なぜか今日焼いたデブドワーフの赤く光る骨が浮かんでいた。
死者。
儀礼。
戒律。
金。
そして、生命。
私には、それらが全部、ひとつながりのように思えた。
唄師の美しい声明が、控え室から長い廊下を歩き、本堂へ向かう私の耳に届いた。
ガオの声だった。
私は白衣のまま、半畳の上に座って待っていた。
やがて導師のクラウス・シェーファーと、ブルーノ、カワカが入堂し、それぞれの座に着いた。
導師の声明。
そして、呪文が古代神聖語で詠唱された。
「それ、教主シャークヤ、出世成道して衆生を教化し引導したもうに、もし信を生ずるものあれば、必ずまず戒を授けたもう。ここをもって、成道第二七日にアヴァタンサカスートラを説きたもう。その始めのブラフマジャーラスッタの中に曰く――一切の心あるものは皆、戒をたもつべし。衆生、戒を受くれば、即ち魔法の位に入り、位、大覚に同じおわんぬ。真にこれシャークヤの弟子なりと……」
表白が朗々と本堂に響く。
透明な空間が、声と魔力によって満たされていく。
空気そのものが張り詰めているようだった。
そして、ふと。
私の名が呼ばれた。
「ここに善男子、俗名、エリアス・ヴァルトナー。宿善内に発して人中善趣の生を受け、機縁外に催してシャークヤの教えを聞く。これによって鬚髮を剃りてシャークヤの遺弟につらなり、戒品を持して魔法僧となる。こいねがわくは、十方の神々、摩頂随喜し、三界諸神、授手擁護し、因行、退転なく、一乗の径路、増進せしめたまえ……」
自分の名前を聞いた瞬間、身体がびくりと跳ねた。
ここから先は、もう俗人ではない。
少なくとも、儀式の上では。
カワカが音頭を取った。
本尊であるシャークヤに三礼。
続いて導師に三礼する。
そして屏風のほうへ向き直り、天地の神々、魔法の諸精霊、先祖代々の霊に三礼する。
導師に続いて、呪文を読む。
三界の輪に 囚われし魂よ
断ちがたき執着の 絆を捨てよ
世俗の愛を離れ 無為の真理へ至るとき
それこそが 至高の報恩とならん
その言葉を口にしたとき、胸の奥に奇妙な感覚が生じた。
家族。
金。
仕事。
女。
食べ物。
そして、この身体。
それらへの執着を捨て、修行へと入る。
そんなことが、本当に自分にできるのだろうか。
しかし、考えている暇はなかった。
「こちらへ」
カワカに促され、私は急いで内陣から修道僧控室へ入った。
そこでザウヤに頭を刈ってもらう。
バリカンの魔導具が唸った。
右。
左。
そして中央。
まるで古代の宮廷絵画にある子供のように、前髪だけを三箇所残す。
ザウヤは、笑いを必死に噛み殺していた。
「……似合ってますよ」
「絶対、笑ってるでしょ」
「笑ってません」
急いで黒い魔法衣を身につける。
そしてカワカとともに、再び本堂へ入堂した。
半畳に座る。
導師が私の前に立った。
そして、剃刀を私の頭に当てた。
刃が頭皮を滑る。
最後に残っていた髪が落ちていく。
私は目を閉じた。
剃髪の儀が終わった。
続いて、懺悔を唱える。
「懺悔を授く」
導師が唱える。
「太古より 重ねし罪の影」
私も続いた。
「貪りと怒り 愚かさの火に燃える」
量り知れないほど太古の昔。
種族の死を恐れたイグから、この身体へと連綿と受け継がれてきたもの。
貪り。
怒り。
愚かさ。
魔力を奪い合い、生き残るために他者を喰らい、繁殖し、逃げ、戦ってきた生命の歴史。
そのすべてを、私は自分の中に抱えている。
それを懺悔する。
「身体と言葉と 心が紡ぎし悪業を」
「いま此の刻に すべて悔改めん」
次いで四つの誓願。
「数知れぬ魂を 救済へ導かん」
「尽きぬ煩悩の炎を 断ち切り」
「深遠なる知恵の言葉を究め」
「至高の覚悟をもって 聖なる道をとげん」
そして3つの帰依。
導師の後に続いて唱える。
「この身の果てまで 今より未来の刻を越え」
「二つの足をもつ 尊き導き手に帰依す」
「欲望の霧を離れた 尊き導き手に帰依す」
「聖なる集いを率いし 尊き導き手に帰依す」
詠唱は続く。
「巡りし刻の果て 尊き導き手へ還り」
「解き明かされし真理の教えに身を委ね」
「聖なる集いの輪に縁は結ばれたり」
続いて、聖水加持。
導師が杖を取り、私の肩に触れた。
水滴が衣の上に落ちる。
ただの水ではない。
加持された聖水には、浄化の術式が込められている。
修道僧になるということは、単に魔法を学ぶことではない。
自分の中にある魔力そのものを、世界に還元することでもある。
導師が私を見る。
「汝、既に清浄戒を受けたり。応に十戒を受くべし。是れ乃ち魔法清浄の大戒なり」
そして第一の戒を告げた。
「第一、不殺生。汝、今身より法身に至るまで、此の戒、能くたもつや否や」
私は答えた。
いや。
答えたというより、叫んだ。
「よくたもつ!」
本堂に声が響いた。
法身とは魔法の修行が進むに連れて、魔力で形成される肉体でない身体のことだ。達人…アデプトでないと法身には至れない。
この「能くたもつや否や」「能く保つ」の問答は、一つの戒につき三度繰り返される。
三問三答。
導師が再び問う。
「第二、不偸盗。汝、今身より法身に至るまで、此の戒、能く持つや否や」
「よくたもつ!」
「第三、不貪婬――」
「よくたもつ!」
「第四、不妄語――」
「よくたもつ!」
「第五、不飲酒――」
「よくたもつ!」
「第六、不説在家出家魔法罪過――」
「よくたもつ!」
「第七、不自讃毀他――」
「よくたもつ!」
「第八、不慳法財――」
「よくたもつ!」
「第九、不瞋恚――」
「よくたもつ!」
「第十、不謗魔法――」
「よくたもつ!」
一つ一つの言葉が、身体に刻み込まれていく。
そして最後に、導師は十戒すべてをまとめて問うた。
「上来十戒、一一犯すことを得ざれ。汝、今身従り仏身に至るまで、此の戒、能く持つや否や」
「よくたもつ!」
「是の事、是の如くたもつべし」
さらに続く。
「上来魔法戒、是れ僧の受持したもう所なり。汝、今身従り法身に至るまで、此の魔法戒、能く持つや否や」
「よくたもつ!」
「是の事、是の如く持つべし」
私は三礼した。
これで、私は魔法戒を受けた。
導師がその後に語った言葉は、正直なところ難しくて、すべてを理解できたわけではない。
だが、戒の言葉だけははっきりと聞こえた。
殺すな。
盗むな。
貪るな。
嘘をつくな。
酒に溺れるな。
他者を貶めるな。
怒るな。
魔法を謗るな。
それは、魔力を扱う者にとっては、かなり重い戒だった。
なぜなら魔法とは、本来、欲望を実現するための技術だからだ。
力を持つ者が、その力を何のために使うのか。
そこに戒律が置かれる。
魔法そのものを否定するのではない。
魔法を使う「私」のほうを縛るのである。
そして、袈裟を授けられる。
袈裟を三度渡された。
一度目。
私は受け取る。
そして導師へ返す。
二度目。
また受け取り、返す。
三度目。
今度は返さない。
私はそれを胸に抱いた。
導師が私を見た。
「汝、この法名は汝が魔法号なり。まさに信敬して受くべし」
ほんの一瞬、空気が止まったように感じた。
「魔法名――エル」
「これを授く」
こうして、私は魔法戒を授けられた。
そして、法名を授けられた。
得度式は終わった。
切り紙を手に取る。
そこには、2文字が書かれていた。
――エル
それが、これから私が名乗る名前だった。
俗人としての私と、魔法僧としての私。
その境界が、たった二文字によって切り分けられていた。




