魔ほうきレース
トーゴとアーゼンの朝は早い。
まだ空が白み始める前、五時頃には二人ともシャークヤ本院に姿を現し、境内の掃除を始めている。いつの間にか、どちらが先に来るかを競い合っているようなところがあった。
他の修道僧たちはそんな二人を放っておいて、七時になってからやって来る。規定では七時からが勤務時間なのだから、それが当然である。
私は残っていた写本の書写に最後の追い込みをかけていた。
百巻を写し終えなければ、正式な僧として認められない。残りは十数巻。私は目の前の聖典に集中していた。
「よっこらせ」
隣に誰かが腰を下ろした。
フュルステンブルク別院で顔を合わせた老修道僧、アンザだった。
彼はかつて、聖なる手印を結びながら下世話な冗談を飛ばすという、なんとも罰当たりな芸当を披露していた男である。ゾゥタクトウァを守護神とする古い秘教聖堂の出身で、僧になる以前は、金融や債権整理を生業としていたらしい。
「商会ってのはな、潰せば潰すほど儲かるんだよ」
私が写本を続けている横で、アンザは楽しそうに話し始めた。キリトリのことだろう。
「俺が修道僧になる前は、個人資産で六億デナリくらい持ってたんだ」
六億。
私は思わず筆を止めそうになった。
「それを魔ほうきレースに全部使っちまった。最後に残ったのが一千万デナリくらいだったかな」
「……全部ですか?」
「全部」
アンザは笑った。
「でな、残った金が一千万になったところで、アミトース聖典を全部覚えようと思ったんだ。あの世には教本なんか置いてないからな」
そこで彼は少し得意そうな顔をした。
「だから必死で覚えた。ところが後になって知ったんだが、ゾタクトウァ教派じゃ、その聖典はほとんど読まないんだよ」
「……」
「無駄な努力だったわ」
豪快に笑う。
そのときだった。
こちらへ歩いてきたトーゴが、わざわざ私たちの横を通り過ぎた。
ちらり、とこちらを見る。
「さっきから手が進んでないぞ!」
突然、怒鳴られた。
「写本に集中できてないんじゃないか?」
「はい!」
私は慌てて筆を動かし始めた。
しかし、アンザは何も言わなかった。
彼に向けて注意したいのだろう。
だが、トーゴ先輩であるアンザに直接注意することはできない。ここは完全な縦社会なのだ。
だから、隣にいた私を叱った。
アンザはそれを理解していたらしい。
「……じゃあ、俺は行くわ」
そう言って、少し不機嫌そうな顔で寺務所を出ていった。
私は黙々と書写を続けた。
修行とは、こういうものなのかもしれない。
聖典に書かれている教義とは別のところで、組織の人間関係という因縁が存在している…。




