魔法学校中退
魔法に興味がある、というのは嘘ではなかった。
私はかつて、王都の魔法学校に籍を置いていた。
正式には、東方古代魔法を研究する学科だった。
ただし、二年で退学した。
理由は単純だった。
私は、魔導聖人ニルヴァンにそれほど興味がなかったのである。
ニルヴァンは、古代魔導経典の一つである《蓮華の書》を究極の魔導書として掲げ、他の魔法流派を激しく批判した。
自らの術式だけを正統とし、それ以外の魔術を邪法と断じる。
私は、それがどうにも狭量に思えた。
そもそも、始祖シャークヤの魔術というものは、そんな単純なものではない。
古い魔導記録には、こんな話が残っている。
ある村に、洗濯を生業とする男と、鍛冶を生業とする男がいた。
始祖シャークヤの高弟シャリは、その二人にそれぞれ違う魔法修練を教えた。
洗濯屋には《数息観》。
呼吸を数えながら魔力を整え、精神を静める術式である。
鍛冶屋には《不浄観》。
肉体の腐敗や汚れを観察し、物質への執着を断つための術式だった。
ところが、二人とも一向に魔力が開花しない。
そこで始祖シャークヤ自身が二人の性質を見抜き、術式を入れ替えた。
洗濯屋には《不浄観》。
鍛冶屋には《数息観》。
すると二人は、たちまち魔力の覚醒に至ったという。
私は、この話が好きだった。
なぜなら、魔法そのものよりも、それを使う人間のほうが重要だということを示しているように思えたからだ。
考えてみればいい。
洗濯屋と鍛冶屋は、おそらく同じ村に住んでいた。
同じ村。
同じ時代。
同じ始祖の魔術。
それでも、必要とされた術式は違った。
ならば――。
「王国の民は、すべて《蓮華の書》だけを信じなければならない」
などという話は、どうにも奇妙ではないか。
もし洗濯屋が《不浄観》によって魔力を覚醒させたあと、
「数息観は邪法だ!」
と叫び始め、鍛冶屋に向かって、
「その魔法を捨てろ!」
と殴りかかっていたら、ずいぶんおかしな話になる。
まして、魔法聖人ニルヴァン自身が魔法論書で、
「魔法を弘める者は、必ず術者の機根を知るべし」
と説いている。
ならば、人によって必要な魔法が違うのは当然ではないか。
《蓮華の書》が合う者もいる。
《無量光典》が合う者もいる。
なんなら、《ネクロノミコン》や《エイボンの書》が合う者だっているかもしれない。
流石に《屍食教典儀》が似合う者はいないだろうけども。
人間が違うのだから、魔力を開花させる道も違って当然だ。そんなことを考えていた私は、宗教学舎を二年で辞めた。
今にして思えば、ずいぶん勿体ないことをした。
あの時、魔法僧になるための資格課程を最後まで修めていれば、その後の人生はまったく違ったものになっていたかもしれない。
当時の私は、そんなことを考えもしなかった。
それよりも、学舎にいた魔法寺院の跡取り息子たちのほうが気になった。
彼らは魔法衣の下に派手な服を着て、耳にいくつもの金属飾りをつけ、頭頂だけを奇妙に剃っていた。
魔法僧というより、街の若者だった。
魔法書を読むより酒場にいるほうが好きそうな連中もいた。
私はその光景を見ているうちに、何となく自分には合わないのだと思うようになった。
そして中途退学した。
それから何年も経っていた。
まさか、燻っていた魔法への関心が、こんなおっさんになって甦ると思ってもみなかったが。




