灰かぶり修道院の求人
老いた修道士が、ガボッ、ガボッ、ガボッ……と、溺れた男のような咳をしていた。
地下聖堂の奥では、骨砕きの魔導器が甲高い回転音を立てている。
死者の骨を粉にするための器械だった。
「……やっぱり、外まで音が聞こえるな」
修道院長クラウス・シェーファーが、ひとりごちた。
私は見張りのために外へ出ていた。
剃りたての頭に冷たい風が吹きつける。私は肩をすくめながら、短く告げた。
「お参りの方が来ています」
魔導器が止まった。
轟音が消えると、地下納骨堂には奇妙な静寂が戻ってきた。
しかし、砕かれた骨の粉塵はまだ煙のように宙を漂っている。
老修道士カトリ・クルーガーは慌てて魔導器に蓋をした。
死者の骨を砕いているところを、参拝者に見られるのは具合が悪いらしい。
地下聖堂は冷えていた。
修道院長は眉をひそめた。
「音が出るなら、下に毛布を敷くなり、器械に布を被せるなり……少し考えてくれ」
そう言うと、クラウス院長は鉄の扉を開いた。
死者たちの眠る地下聖堂から出ていく。
扉は反動で閉じた。
ゴォン――。
低い音が石壁を震わせ、その残響が長く地下にこだました。
私はその音を聞きながら思った。
――どうして私は、こんなところに入ろうと思ったのだろう。
シャークヤ修道院に入門しようなどと考えたあの時の私は、きっと頭がおかしかったに違いない。
空を飛ぶ銀色の飛行船を見上げながら、私は思った。
私も、あの青い空の彼方へ飛んで行きたい。
が、翼のないこの身ではどうにもならない。
現実の前では、手も足も出ないのだ。
私が、蛇人種だからだろうか。
当時、私はヴァルトハーフェン天空港で働いていた。
正確には、天空港の穢れ払いだった。
華やかな場所に見えるが、私たちの仕事は華やかさとは無縁だった。
朝から晩まで、旅人たちが捨てた汚物を集める。
食べ残し、紙屑、汚れた布、酒瓶。
それらを巨大な鉄製荷車に詰め込み、天空港の外れにある廃棄場まで運ぶ。
そして戻る。
また詰める。
また運ぶ。
それを一日に十回以上繰り返した。
天空港は広大だった。
ジャンブドヴィーパ王国の王都へ向かう飛行船が次々と到着し、商人、兵士、貴族、巡礼者、冒険者たちが行き交う。
だが、私たちが見ていたのは、その華やかな世界の裏側だった。
誰かが食べれば、誰かが片付ける。
誰かが吐けば、誰かが拭く。
誰かが汚せば、誰かが掃除する。
王国というものは、どうやらそういう仕組みでできているらしかった。
そして私たちは、その一番下にいた。
所長ハインリヒ・ザルツマンの説教は三十分にも及んだ。
「ヴァルトナー、お前はな……」
そこから始まる。
ハインリヒは老人特有の気難しさを持っていた。
自分が納得しない限り、決して話を終えない。
「はい」
「わかりました」
「気をつけます」
何を答えても終わらない。
私が三十分で済んだのは運がよかった。
六十歳を過ぎたオットー・ヴェーバーなど、一時間以上説教されることも珍しくなかった。
毎日のように積み上がっていく。
汚物。
疲労。
そして説教。
私たちを雇っていたのはアナシス商会という小さな会社だった。
その上にはドイツァー王立交易社という巨大な商会があり、さらにその上には天空港を管理する王国の役所がある。
私たちは、その巨大な仕組みの底に沈んだ、小さな歯車だった。
私が見習いとして入ってから正式な職人になるまで、一年ほどだった。
その間に、何人もの仲間が辞めていった。
最後には、遠い異国から流れてきた者たちばかりが残っていた。
それだけ、この仕事がきつかったということだ。
しかし――。
本当に恐ろしいものは、ハインリヒだけではなかった。
同じ班に、カスパー・クロイツァーという男がいた。
私より十歳ほど年上だった。
最初の印象は、よく喋る男だった。
そして、人を見る目が妙に鋭かった。
カスパーは若い頃、北方の戦場で傭兵をしていたという。
その後、王都に流れ、酒場の用心棒をし、歓楽街の店を転々とした。
さらに地下社会へ入り、盗賊や密輸商人、ならず者たちと付き合うようになった。
どこまで本当なのかは分からない。
しかし、彼の話には妙な現実味があった。
「王都の地下には、表の地図には載ってない道がある」
カスパーは休憩時間になると、そんな話をした。
「ある方法を使えば、東方大陸まで行ける。上のほうの魔法使いなら誰でも知ってる」
「本当か?」
「さあな」
カスパーは笑った。
「俺が嘘をついてると思うなら、それでもいい」
そう言うと煙草を吹かした。
彼の話には、いつも真実と嘘が混ざっていた。
ある日、私は商売に失敗して大金を失った話をした。
借金の額を聞いた瞬間だった。
カスパーの目が、ぎらりと光った。
獲物を見つけた狼の目だった。
しかし、それだけで彼を悪人と決めつけることもできなかった。
彼には世話焼きなところがあった。
私が見習いから正式な社員になるか迷っていた時も、
「正式になったほうがいい」
と何度も説得してきた。
正式な職人になれば給金は上がる。
ただし仕事はさらにきつくなる。
夜番もある。
昼間の見習いたちが使った作業布やモップを洗い、漂白剤につけ、乾かさなければならない。
しかも、その時間は睡眠時間として扱われる。
それでもカスパーは言った。
「なあ、エリアス。正式になったほうがいいって」
今になって考えれば、理由は別にあったのかもしれない。
正式な職人になれば、天空港の店舗から廃棄される食事を回収できる。
まだ食べられる高級料理まで捨てられる。
カスパーにとっては、食費を浮かせる絶好の機会だった。
私たちは魔導掃除機を手に、天空港の巨大な絨毯を一枚ずつ清掃した。
染みには特殊な薬液を使う。
床についた靴跡を落とす。
酒場の床を磨く。
そして一番きついのが、便所だった。
旅人が汚した便所を、私たちは毎日掃除した。
汚水が溢れることなど日常茶飯事だった。
さらに、無線魔道具を常に携帯することが義務づけられていた。
「ショゴスさん、発生!」
無線から声が飛んでくる。
ショゴスさん。
それは天空港で使われる隠語だった。
旅人が吐いたのだ。
客に聞かれてもいいように、私たちは蛇人発声で呼んでいた。
ショゴス系左翼団体に聞かれていたら、差別だと騒がれただろう。「古のもの」旧体制支持の反動的分子として。
だが、一番きつかったのは喫煙所だった。
一日に何度も、灰皿に溜まった吸い殻と毒液を処理する。
煙草のヤニは私たち蛇の種族にとっては毒だ。
他種族や、蛇の血の薄い者たちが吸うのだ。
バケツいっぱい。
またバケツいっぱい。
それを運び、洗い、磨く。
普通なら誇りが邪魔をしてできないような仕事だった。
しかし――。
私たちには一つだけ救いがあった。
休憩所。
そこだけは、身分が消えた。
掃除人も、兵士も、酒場の娘も、飛行船の操縦士も、貴族の使用人も、同じ場所で休む。
誰もがくだらない話をした。
誰もが笑った。
そして、その中心にはいつもカスパーがいた。
彼は人を笑わせることに関しては妙に長けていた。
ある時は道化師。
ある時は酒場の幇間。
ある時は偉そうな老兵。
そしてある時は――。
地下社会の案内人。
彼は自分の過去を、劇のように語った。
カスパーの故郷は、王都の東にあるグレンツェンという町だった。
そこには東方からの難民が集まる貧民街があり、治安の極めて悪い場所として知られていた。
東方部落と呼ばれ、忌避された。
そこの子どもたちでさえ、喧嘩になれば容赦がない。
ある少年など、父親の工房から火薬を持ち出して、相手の学校を爆破したという。
また、カスパーが子どもの頃には、「オツベル」と呼ばれる奇妙な男がいた。
朝から晩まで、街角の石碑を押している。
石碑には竜のレリーフが刻まれていた。
何のために押しているのか。
誰にも分からない。
ただ、来る日も来る日も、石碑を押している。
子供たちは、それを見て笑った。
「オツベルときたら、大したもんだ」
と皆でからかったという。
カスパーは、王都の裏社会について実に饒舌だった。
幼馴染の大男。
地下同盟に入った友人。
牢獄帰りの荒くれ者。
そして、歓楽街にあった酒場「ローエン」。
その店を経営していたのは、ジルケ・リューという女だった。
彼女の愛人は黒鷲組の幹部だった。
ローエンには黒鷲組の連中が集まり、宴会を開いた。
そしてある夜――。
酒場の中で男たちの喧嘩が始まった。
たまたま壁に立てかけられていた棍棒が使われた。
一人が死んだ。
天井まで血が飛び散ったという。その血の紋様は店の名物となった。
カスパーはそんな話を、まるで酒場の笑い話のように語った。
私はその男を見ながら思った。
――この世界には、表の王国とは別に、もう一つの王国がある。
王冠を被った王が支配する王国。
そして地下で、そこに住まう者たちが支配する、もう一つの王国。
カスパー・クロイツァーは、その両方を知っている男だった。
よく考えてみれば。
カスパーの話しはどうでもいい。
かつて、私は借金に追われていた。
商売に失敗した。
金貨を失った。
借金は膨らんだ。
毎月の給金から少しずつ返していく。
しかし、いくら返しても減らない。
まるで底なし沼だった。
仕事ではハインリヒに説教される。
休みの日にはカスパーから長話を聞かされる。
夜十時に始まった話が、夜中の二時まで続くことも珍しくなかった。
話を遮ると、翌日の仕事で露骨に不機嫌になる。
「昔、傭兵団にいた頃な……」
また始まる。
「先輩の話は最後まで聞くもんだ」
そして説教。
私は傭兵団の若い衆ではない。
ただの穢れ払いだ。
それなのにカスパーは、私を自分の若い部下か何かだと思っているらしかった。
ハインリヒ。
カスパー。
二人の話の長い男に挟まれ、私は徐々に疲弊していった。
そんな私をかろうじて救ってくれたのが、天空港から見える夜空だった。
夜になると、無数の飛行船が星空へ飛び立つ。
巨大な白色の船体が、群れをなしている。
ハンターに狙われたことの無い、無垢な羊達のようだ。
青白い魔石灯。
星の海へ消えていく光。
私は星々の瞬きを眺め思った。
――世界へ羽ばたいて行きたい。
毎日のように、王国求人板を眺めるようになった。
数ヶ月が過ぎた。
冬も終わりに近づいていた。
雪が解け始め、春の気配が王都へ忍び寄っていた。
私は空いた時間を使い、求人板を眺めていた。
その時だった。
信じられない求人が目に入った。
「シャークヤ修道院――修道僧募集」
「給与――歩合制」
「初月より八十万デナリ」
「採用担当――クラウス・シェーファー」
私は画面を何度も見返した。
八十万デナリ、つまり金貨八十枚。
私の借金を考えれば、まるで夢のような金額だった。
そして、その求人広告を見つめているうちに、奇妙な感覚が胸の奥から湧き上がってきた。
これは偶然ではない。
神が私を呼んでいる。
運命が扉を開いたのだ。
いや――。
もっと正確に言うならば。
これは天啓だった。
その時の私は、まだ知らなかった。
シャークヤ修道院が、ただの修道院ではないことを。
空へ羽ばたくどころか、地下の深き穴へ落ちゆくことを。




