護摩
映写機での講座が終わると、フーテイは念呪行について話し始めた。
「おまえ、礼拝念呪行の最中な、何考えてる?」
「いや……無我夢中でして」
「そうか」
フーテイは少し考えてから言った。
「魔力…ルーシュを視覚化した呪文がな、金色の螺旋の糸になってアトラクナチャータさんに入るんや」
「はい」
「それがまた、アトラナートさんの力で強化されて、行をしとる自分の身体を巡る。そしてまた呪文を唱えると、口から金色の呪文の糸が出てくる」
私は、その光景を想像した。
「それをひたらすら繰り返す」
「古代東方魔法でいう周天法に似ていますね」
「そや、ルーシュを練るんや」
「今な、おまえの魔力の基礎を作っとる。溜め込んだルーシュが無いんや。まずルーシュを練らなあかん」
真面目な顔でそう言ったあと、
「だからな、センズリこいたらあかんでぇ。ルーシュ漏れてしまうさかい」
と付け加えた。
私は黙って頷いた。
幸いなことに、性欲はそれほどまでに襲ってこなかった。
事務室には主に中年の女性事務員が二人、若い男性事務員が二人。
その他に若い女性事務員が二人いた。
どちらも顔立ちは美しく、スタイルもよかった。
しかし、どこか陰気で、こういう場所に勤める女性というのはこういう雰囲気なのだろうか、と私は勝手に思った。
私はなるべく彼女たちを見ないようにした。
魔力というものは、対象を実際以上に魅力的に見せる。アトラクナチャータの娘たちかもしれない。
修行中は、余計な刺激を避けたほうがいい。
私はそう考え、女性事務員の姿をなるべく視界に入れないようにして、ナコト写本の書写へ向かった。
三日ほど経つと、性欲よりも先に、もっと原始的な欲求が襲ってきた。
食欲だった。
それに加えて、糖分の禁断症状まで出てきた。
肉は何とか我慢できた。
糖分については、商店へ行った際に砂糖水を買って飲むことで何とか凌いだ。
砂糖水を飲んだ瞬間、脳に糖分が行き渡るのが分かった。
ぼやけていた思考が、一気に戻ってくる。
外へ出る。
満天の星空が広がっていた。
誰もいない。
静かな夜だった。
四日目から雨が続いた。
五日になっても雨は止まなかった。
食事の買い出しに出る頃には、修道院の周囲に雨水が溜まり、ちょっとした池のようになっていた。
護摩堂の周囲は完全に水浸しだった。
足首まで水に浸かりながら、私は商店へ向かった。
六日目になって、ようやく雨が止んだ。
それまで私は、黙々と礼拝行を続けていた。
六日目の昼だった。
フワルが、突然訪ねてきた。
「調子はどうだい?」
「あと一日ですから」
私は答えた。
その後、私は自分の地元について話した。
旧市街のこと。
学校のあった街のこと。
するとフワルは意外なほど詳しく地理を知っていた。
彼は修道僧になる前、王都の東区で議員をしていたという。
私の故郷の事情にも詳しかった。
議員だった男が、今では修道僧になっている。
この顔と貫禄なら、確かに議員でもおかしくない。
私は妙な感心をしていた。
すると、フワルは突然、低い声で言った。
「代表には気をつけろよ、おまえ」
「……代表?」
「本院で働くようになれば分かるよ」
それだけ言うと、フワルは去っていった。
妙に意味深な言葉だった。
最終日は、ちょうど二十八日だった。
毎月、修道院長が護摩を焚く日である。
私は午後の礼拝を二時までに終わらせ、特別に護摩へ参加させてもらうことになった。
助法の修道僧と、太鼓を担当する修道僧が入れ替わり立ち替わり動き回り、忙しく準備をしていた。
やがて、信徒たちが何人か入ってきた。
助法とは、導師の護摩を補助する役目だという。
流派によっては助法を置かないところもある。
シャークヤ流では助法がいて、上下に重ねた魔法器の中で五穀をシェイカーのように振り、導師を助ける。
アトラクナチャータ流では、一人ですべてをこなす。
そんな細かな違いまで説明された。
私は午後二時頃から正座して座り、じっと火を見つめていた。
一時間が経つと、足がどうにもならなくなってきた。
感覚が消えていく。
脚の位置を変え、痺れを軽減しようとしたが、ほとんど意味がなかった。
そんな私を、手伝いに来ていた年配の修道尼がニヤニヤしながら見ていた。
彼女は信徒を案内したり、煙が激しくなると護摩堂の上にある窓を開けたりしている。
やがて護摩が始まった。
助法が音頭を取り、参加した信徒全員でナコト写本のハイパーボリア段を繰り返し唱える。前世界での忌まわしき氷河をクトゥグアグニの大火炎で溶かしてくださるよう祈念するのだ。
太鼓が入る。
火の神であるクトゥグアグニが召請されて火が激しくなる。炎の周りにチカチカした光球や紅い稲妻が走った。
導師が目配せをすると、クトゥグアグニ神への呪文の唱和に移る。
呪文。
火。
煙。
その三つが一体となって、いつまでも続くように感じられた。
足の痺れは、無感覚を通り越して痛みに変わっていた。
四時頃になって、ようやく真言が終わった。
導師がお加持を始める。
私の番が来た。
立ち上がろうとしたが、足の感覚が完全になくなっている。
まともに歩けない。
蛇のようにぐにゃぐにゃになった脚を引きずりながら、導師の前まで進む。
長跪合掌し、加持を受けた。
護摩の片付けをしていた若い修道僧が話しかけてきた。
太鼓を叩いていた男だった。
親しみやすく、どこか話しやすい。
「ザウヤです」
彼は自己紹介した。
「本院に来たら、よろしくね」
彼は、この修道院で正式な入門を果たして五年になるという。
以前は魔導言語工学の技師をしていたらしい。
私は少し驚いた。
修道僧になる前は技術者。
こういう経歴の人間がいるのかと思った。
ザウヤと雑談していると、先ほどの年配の修道尼が話に加わった。
彼女はキッシュと名乗った。
キッシュはニヤニヤしながら言った。
「大変だよ、本院は」
「そんなに大変なんですか?」
「旗がほつれたら、全部自分たちで縫わなきゃいけないし」
「……それは大変ですね」
「それだけじゃないよ」
キッシュは少し声を落とした。
「代表ってのがいてね」
「代表?」
「この修道院で一番偉い人」
ザウヤの顔が少し曇った。
「これが凄く怖いんだから」
「怖い?」
「ヒステリーでギャーギャー怒鳴るのよ。みんな怒られるの」
キッシュが代表について話すと、ザウヤは少し顔をしかめた。
「ヒステリー? 女性の方なんですか?」
私は知らないふりをした。
キッシュは答えた。
「女」
「綺麗な人だよ。でも性格がね……」
少し間を置いてから、
「ずっと西にいたらしいから、ちょっと変なのよ」
と言った。
そして、自分でも話しすぎたと思ったのか、それ以上は何も言わなかった。
護摩堂の片付けが終わった後、私は「竹の間」に呼ばれた。
クラウス・シェーファーが待っていた。
「十日間の行は、これで終了です」
「はい」
「この後、正式に修道院で勤務する意思はありますか?」
「あります」
私は迷わず答えた。
書類を渡され、説明を受ける。
そこで初めて、私はこの修道院の成り立ちについて詳しい話を聞いた。
もともと、この修道院を始めたのは、ヴァルーシア社の現会長、トゥコ・リューだった。
彼自身が東方の古い魔法宗派の資格を持っていた。バイジャジャ・ヨグ=ル神に仕える僧侶だったという。
もともとは薬屋を経営していた。
そこから宿泊業へ進出し、さらに婚礼事業へと事業を拡大していった。
いわば、一代で財を築いた人物だった。
婚礼会館を運営するようになると、社内外から、
「次は葬送事業へ進出しよう」
という声が高まった。
ところが、実際に葬送事業を始めてみると、最も大きな問題になったのが、導師の手配だったという。
三十年ほど前の魔法導師たちは、報酬も非常に高かった。
貧しい家庭には到底払えない金額を要求する名門修道院もあった。
場合によっては、一年分の収入に匹敵するほどの金額を要求することさえあった。
しかも当時は、現在とは違って、修道院と葬送業者との関係でも、修道院側のほうが圧倒的に強かった。
態度の悪い導師も少なくなかったという。
そこでトゥコは、自分自身が魔法を学んでいることもあり、
「それなら、修道院も自分で経営すればいい」
と考えた。
そうして縁のあった東方の古い山岳修道院の末院を、王都から遠く離れたこの地へ移し、自ら修道院経営にも乗り出した。
庶民でも利用できる、もっとも安価な葬送を目指す。
導師への謝礼まで含め、当時としては考えられないほど低価格にした。
それが現在のヴァルーシア社とシャークヤ修道院の始まりだった。
私は説明を聞きながら、目の前の書類を見た。
責任役員。
その欄には、
トゥコ・リュー
と記されている。
そして、その下。
代表役員の欄には、
ジルケ・リュー
とあった。
私は、数日前にカスパーから聞いた名前を思い出した。
だが、この時の私はまだ知らなかった。
この名前が、これから始まる私の修道院生活に、どれほど深く関わってくることになるのかを。




