32 落下
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マリアを押しのけて星見台に入ってきたのはジェダイトだった。
「王太子殿下ご安心を。婚約破棄は致しません」
「お兄様」
ジェダイトにはしばらく避けられていたので声を聞くのは久しぶりだ。
急いできたらしい。汗が滲んでいる。
「次期クライマシー公爵として、申し上げます。婚約破棄は致しません」
「お兄様、お父様はお許し下さったわ」
「メロー、王太子殿下がルビーと恋仲というのは単なる噂で真実ではない」
「ジャスパー様ではなく、私の気持ちの問題なのです」
「公爵家としての行動を取れと言ったはずだ!!」
ジェダイトの大声に私は身を竦ませる。
マリアが私の横に立ち、ジャスパーが私とジェダイトの間に身を滑らせた。
「ジェダイト、怒鳴るな」
ジャスパーが低く、ゆっくりと言った。
「私は無理強いをしてまで結婚する気はない」
「この結婚は王家と公爵家の結び付きを強くする目的もあったはずです」
「お前は本人の気持ちは関係ないと言うのか?」
「貴族の結婚なんてそんなものでしょう。何を今さら言っているんだ!」
「怒鳴るなと言ったはずだ」
「あなたが王族らしからぬ言動をしているからです!」
「随分と家柄が好きらしいな、次期公爵閣下」
ジャスパーの声がさらに低くなった。
「婚約者でもない女の名を呼び捨てにするのは次期公爵としていかがなものか」
「……それは」
ジェダイトが口ごもった。
そうね、さっきルビーって呼んだわね。ついこの前までクルジット嬢と呼んでいたのに。
夜会で膝に乗せてたと聞いたわね。あんなにシスコンだったジェダイトを骨抜きにするなんてすごいわねルビー。
でもルビーが手あたり次第自分を連れ出してくれる人に手を出してるというエレスチャルの推論。むしろ「引っかかってしまった」という感じかしら。
こうして私をかばってくれているジャスパーは、結局何を思っているのかしら。
「彼女とは仲良くさせてもらっている。結婚の話はまだしていないが……」
フワフワした回答ね、ジェダイト。
「伯爵からはまだ娘を嫁に出す気はないと聞いている。そしてお前は次期公爵であって公爵ではない。爵位のない者が王太子に随分な態度だ」
ジャスパー、怒ってるわね。背中から怒気を感じるわ。自分に向けられたものではないのに思わずマリアに寄り添ってしまう。
十秒ほどふたりは睨み合ったけれど、ジェダイトの方が目を閉じて「失礼しました」と一歩身を引いた。
緊張状態が解けてホッとする。
しかしジェダイトはしつこかった。
「では次期公爵ではなく、兄として妹と話がしたい。幼馴染としてお願いする。そこをどいてくれないかジャスパー」
ジャスパーは体ごと私に振りかえった。
「メロー」
心配そうな顔。
一方的に婚約破棄したこと、怒ってないのかしら。
怒るほど、私を好きではないのかもね。
「それではお兄様とお話いたしますわ」
少し声が震えてしまった。
ジャスパーはマリアとは逆の位置に立ち、エスコートする時のように私の手を自分の腕に掛けた。
見上げると優しく微笑まれる。
……ちょっと格好いいわね。ドキッとしてしまったわ。顔が赤いかも。
マリアも身を寄せて来るので、完全に三対一の構図だ。勇気付けられる。
「ではお兄様、どのようなお話でしょう」
勇気付けられたおかげか、声はもう震えていなかった。
「婚約破棄の話、お前は本気なのか?」
怒鳴りはしないが今にも怒鳴りそうな口調だった。まだちょっと怖い。
「ええ。冗談で言えることではございませんわ。お兄様はどなたから、どこまでこの話をお聞きになったの?」
正直、父がジェダイトに言うとは思えないのよね。
あの人、ドSだし。
ジェダイトがシスコンだって知っているし、絶対しっかり破棄されてから言うと思うの。ドSだから。
「……王族の補佐……いや関係者から、別の噂の真相を知るために話を聞きに行ったら、破棄の話があると聞いた」
あら。
ジャスパーをちらりと見上げると渋い顔をしていた。
これは申し訳ないけどその補佐官クビかしら。
そして別の噂って、多分さっきエレスチャルたちとの話に出てきた、中庭でルビーを取り合ってたって噂ね。本当にそうなのか違うのか、誰も語らないからここにも影響が出たのね。
「では私がなぜ婚約破棄したいと思っているのかご存知ではないのですね」
「聞かなくても分かる、どうせあの男と結婚するためだろう」
怒鳴ってはいないけど、声が低すぎて怖いわ。
ジャスパーに伝わったのか、「ジェダイト、怖がらせるな」と言ってくれた。
「結婚したいとは思っていませんわ」
「なんだと!?」
ジェダイトは本当に知らなかったらしく、目を見開いて私を見た。
「公爵家としては爵位のない者と友人以上になるのは好ましくないとおっしゃたのは、お兄様ではないですか。公爵家らしい行動をするのに、なぜそんなに驚いていらっしゃるの?」
実際は望み薄だからなんだけど、ちょっと嫌味を言うくらい許してほしい。
「ジャスパー様のことは、友人として好きですわ。子供の頃から見知った仲ですし、結婚するのも悪くないと思っていましたの。けれど、友情と……恋焦がれる気持ちが別だと知ってしまった今では、結婚するわけにはいきませんわ。二心で結婚するのは間違いですもの」
ジャスパーが微かに震えていた。
ごめんなさい、ジャスパー。
「お兄様だって、自分の妻が自分以外を見るのは嫌でしょう」
ジェダイトは強く口を引き締めた。
私はすぐ横のジャスパーを見上げる。
「ジャスパー様、大変申し訳ございません。どうかお許しください」
「メロー……」
腕に掛けた手を、優しく握られた。
「話し合う余地もないのか?」
「申し訳ございません」
「謝罪を聞きたいんじゃない。俺は、君が好きだ。本当に…」
「ジャスパー様」
「彼と結婚する気がないなら、なおさら……俺は」
絞り出すような声なのに、握られた手はとても優しかった。
「俺は、君が誰を好きでも、俺の傍にいてもらいたい。父上や、公爵にもそう言って破棄を止めてもらったんだ」
驚いて口を開けてしまった。
たった今、私がジェダイトに「自分の妻が他の人を見てるのは嫌だろう」って言ったばかりなのに。
「君がただ傍にいてくれるだけで良いんだ。本当は、本当は俺のことを愛してくれればこの上なく幸せなのだけれど、それは難しいみたいだし、それに俺は、今は無理でも、君が俺を好きになってくれるように努力すると決めたんだ」
「ジャスパー様……」
「ジャスパー、と呼んで。俺がそれを許したのは君だけだ」
想いのこもった水色の目が、私を見ている。
でも、私は……
私が声を出す前に、ジェダイトが無言でテーブルまで移動した。
突然の事に驚いて見ると、ジェダイトが手にしたのは私の刺繍だった。
「殿下の寛大な心に答えるべきだ」
「やめて!」
ジェダイトが投げ捨てたハンカチを私は迷わず追った。
追ってしまった。
「メロー!!」
ジャスパーの声が聞こえた。
落下に恐怖はなく、ハンカチを失くすことに恐怖を感じていた。
縫い上げた小鳥を手に掴んだ瞬間、私は水の中に落ちた。




