第2章『対象』
香山で遭遇した化け物に襲われた作太。
芋爺、稲爺の言われるまま寺へ向かう、そこで出会ったことを話す作太。
第2章『対象』
寺の門をくぐった作太は、土間で立ち尽くしていた。
そこへ、奥から住職が静かに現れる。
「芋爺さんの息子さんじゃな? どうしたのかね」
住職は笑みを浮かべながら近づいたが、すぐに作太の脚へと目を向け、表情が変わる。
青色の染みが、じわじわと広がっている。
「……その傷、どうした」
声に緊張が滲む。作太は、息をつきながら話し出した。
「帰り道で擦っただけ…けど、それよりも……」
作太は住職に近づき、早口で語る。
「朝から香山へ行ったんです。山の様子が気になって。
そしたら、いたんだ……青いバケモンが……たぶん、鬼……だと思う……!」
その言葉に、住職の顔は一層険しくなった。
しばしの沈黙ののち、住職は重々しく口を開く。
「……作太が見たもの、それは“鬼”じゃ。間違いない。
この地に伝わる伝承――おとぎ話になっていたものじゃが、かつて香山に棲むとされた存在……。
それが、再び目の前に現れたのじゃろう」
作太の膝が震える。
住職は深く息をつくと、優しくも厳しい声で続けた。
「今日はここに泊まりなさい。お前の変化が進んでいる。今夜、我々が見張る」
「み…見張る……?」
作太が不安げに問い返すと、住職は脚を指さした。
「そのかすり傷……よく見てみなさい」
作太が視線を落とすと、擦り傷はすでに痕すら残っていなかった。
代わりに、脚全体が――くっきりと青色に染まりつつあった。
「ど、どうにか……俺、鬼にはなりたくねぇ……!」
作太が泣きそうな声でしがみつくと、住職は力強く頷いた。
「大丈夫じゃ。手は尽くす。
ただし、これは時間との勝負じゃ。すぐに結界の準備をする。布津太!」
奥に向かって呼ばれたのは、若い小坊主だった。
慌てて現れた彼に、住職が指示を飛ばす。
「仏石を持ってこい!最低でも八つじゃ。
芋爺殿と長も呼べ。状況を話さねばならん」
「はいっ!」
元気よく返事をして、布津太は走り去った。
その間に、住職は作太に声をかけた。
「奥の部屋へ来なさい。仏の力を借り、浸蝕を抑える――
それでも抑えるだけじゃ。治す術が見つかるまでは、ここに留まってもらう」
【奥の間】
寺の最奥にある部屋は、静寂に満ちていた。
奥の壇には一体の仏神像が鎮座し、四方には小柱が四本、四角を描くように立っている。
各柱には上下に仏石をはめ込むための凹みがあり、準備は整いつつあった。
作太が柱の中心に座ると、住職は一つひとつの柱に仏石をはめ込んでいく。
仏石が揃うと、部屋全体にほんのりと淡い光が立ちのぼり、結界が形成された。
「この結界がある限り、鬼への変化を抑えることはできる。
じゃが、完全に止めることはできん。三日が限界じゃ……」
住職は、静かに続けた。
「作太を“人に戻す術”は、今のところ存在しない。
ワシも手は尽くす。じゃが……集落の決断も必要じゃ。これは、集落全体の問題になる」
【集落の決断】
仏石の配置が終わり、薄い結界が漂う中――しばらくして、寺の外から足音が響く。
やがて、芋爺と集落の長が本堂へと入ってくる。
「住職!作太はどこじゃ、無事なのか!」
芋爺が慌てて声をあげると、住職は手をかざして制す。
「静まれい。今は結界の中におる。無事ではあるが、事は深刻じゃ。
これより、二人に話さねばならぬことがある」
二人は言葉を呑み、住職の前に正座した。
住職は重々しく口を開く。
「作太は、香山で“鬼”と接触した。
そして、すでにその“影響”を受けておる。脚の変色が証拠じゃ」
沈黙。芋爺の顔色が蒼白になり、長が眉を潜めて問う。
「……鬼、じゃと?」
「先代住職から聞いた伝承では、香山の鬼に触れた者は、二日で“人ではなくなる”と言う。
しかし、この寺の奥の結界にいれば、“三日”までは抑えることができる」
住職は、仏石の輝きを見やりながら続けた。
「ただし……“抑える”だけじゃ。
人へ戻す術は、仏の教えにも、仏石にも、今のところ見出せてはおらん」
芋爺が拳を握る。長が口を開く。
「三日……その間に決めねばならんということか。
作太を助けるか、あるいは……“処す”か」
「そうじゃ。選ぶのは、集落の意思じゃ。
それまでは、ワシが全力で侵蝕を食い止めよう」
芋爺は、重々しく頷きながらも目を伏せる。
長は静かに席を立ち、言った。
「わしが集落に伝える。……無駄にはせんぞ、住職」
【仏の限界、神への転向】
夜。
寺の奥部屋は静まり返っていた。布津太は灯りを調整しながら、住職に小声で話しかける。
「……本当に、仏石だけで止まるのでしょうか」
「……わからん。止まっているように“見える”だけじゃ。
だが、少しずつ変色は進んでおる。我らの力だけでは、限界があるかもしれぬ……」
住職は、自身の記憶をたどる。
香山の鬼、伝承、仏による浄化――しかし、どれも確証がない。
その時、ふと――一つの古い言葉が脳裏に浮かんだ。
「鬼は“祟り”に近く、仏でなく、“神”が祓うべきもの」
それは、住職がまだ若かった頃、古文書で見た神道側の見解だった。
「……仏ではなく、神……“対象”を間違えておったのかもしれぬ」
住職は静かに立ち上がる。
奥部屋の端に置かれた、ほこりをかぶった小さな木箱を開ける。
中には、神鏡と御幣、古びた祝詞が収められていた。
これは代々の住職が“ある時”のために受け継いできた、封じの“別伝”――仏とは異なる、神道の法具であった。
「布津太。……これより、“神の道”を試す。
だが、これは仏に背くことではない。人を救うため、道を選ぶだけじゃ」
「はい……」
住職の目は、決して迷いを映していなかった。
仏と神――二つの信仰を越え、“人を救う”ための新たな試みが、今、動き出す。
夜。
香山から吹き下ろす“香風”が、薄い障子を揺らしていた。
結界の内側――仏石が青白く灯る静かな部屋で、作太はただ一人、柱の中央に座っている。
息が苦しい。視界がにじむ。
脚の痺れと共に、心の奥がじわじわと冷たく染まっていく感覚があった。
何かが…呼んでいる。
香風が強まるとともに、視界が歪んだ。
突如として目の前に広がったのは、あの山――香山の奥、誰も踏み入れぬ“祟りの地”。
幻か、それとも記憶か。
山の中で、青い影が作太の前に立っていた。
かつての自分より少し背の高い、若き日の父が言っていた“青いバケモン”――その姿。
だが、怖くはなかった。
「お前は、誰だ…」
作太が問うと、青い鬼は微笑んだように見えた。
その姿は、確かに人に近い。だが、どこか“違う”。
「人は自然に慣れ、自然の怖さを忘れる。
それを伝えるのが、俺たち鬼の役目だ」
頭の奥に直接響くような声。
風の音が、鬼の言葉を運ぶ。
「山は、雨を与え、水を流し、命を育む。
だが、時として牙を剥き、すべてを呑みこむ。
鬼はその“境界”に在る。お前は、それを越えた」
「……じゃあ、おれは…もう人じゃないのか?」
「まだだ。だが、もう戻れはしない。
なぜなら、お前は“知って”しまった。
自然が人に与える慈しみと、
その裏にある“理なき力”を」
作太は、うつむきながら、そっと自分の脚を見る。
そこにはもう、肉の色はない。淡く、冷たい青が肌を覆っていた。
この色は、恐怖の象徴ではなかった。
それは、自然の一部へと還るための色だった。
作太は静かに目を閉じ、香風の音に身を預けた。
その瞬間――仏石がふっと光を失った。
結界が消える音が、風に混ざって消えた。
【住職と布津太】
早朝。奥部屋の戸を開けた布津太が、思わず声を失う。
「住職……作太さんが……いません……!」
駆け寄った住職も、愕然と立ち尽くした。
結界の中心には、衣だけを残し、作太の姿はなかった。
だが、仏石は割れてもおらず、柱は倒れてもいない。
痕跡も、争いの形跡もなかった。
ただ、ふわりと、香風だけが吹き抜けていた。
【香山】
山の奥、誰も入らぬ深き森の中。
一本の杉の根元に、青く光る花がひっそりと咲いていた。
そこには、かすかに微笑む鬼の姿が佇んでいた。
その瞳は、どこか人に近く、しかしもう、人ではない。
自然を忘れた人々に、その怖さを教える存在――
新たな“鬼”が、香山に生まれた。
鬼が自然の者と理解し、作太は鬼になる事を快諾する。
そして、住職はそのことを伝えに集落へ向かう。




