第1章『異変』
香山を見つめる老人2人。そこに1人の影が駆け寄ってくることで話が始まる。
第1章『異変』
芋爺は鍬を地面に置き、腰をさすりながら近くの岩へと腰を下ろした。
香山をじっと見つめる。
「…香山からの空気が変わってきたの~
そろそろ季節が変わるかのう…」
その様子を見ていた|稲爺が、静かに芋爺の背後に近寄り、
彼の肩越しに同じ山を見上げてつぶやいた。
「今年の空気は水気が多いの~
こりゃ、雨がくるかも知れんの。
干ばつ気味だったから、恵みの雨になるとええがな」
芋爺はゆっくりと顔を向け、少しだけ笑って言った。
「なんじゃ、稲爺さんとこはそうか?」
稲爺は小さく肩をすくめる。
「そりゃそうよ。稲は水が命じゃて。
水のない田に、苗は植えられん」
芋爺は納得いかぬように、近くの溜め地をちらりと見やりながらつぶやいた。
「じゃが、溜め地があるじゃろうて」
「雨が少ないと言ったばかりじゃ。足りぬんよ、水がな。
お天道さんがずっと顔を出しとるのも、困ったもんじゃ」
稲爺は視線を空へと移す。
芋爺もそれに倣い、雲一つない青空を見上げた。
「ま、天には悪いが…水が欲しいのは確かじゃの。
稲爺ほどではないが、芋にも水はいる」
稲爺は一呼吸置いて、ふと芋爺の畑を見回しながら言った。
「ところで…芋爺んとこの息子は?
いつも手伝ってたろ」
芋爺は目線を畑に落とし、少し首をかしげながら答えた。
「ああ、今朝は『香山の空気がおかしい』言うてな、
様子を見に行ったわ。わしから見りゃ、いつも通りの香山なんじゃが…
まぁ、空気が重いっちゅうなら、確かにそんな気もせんでもないがな」
その時だった。
芋爺と稲爺が香山を見上げていると、集落の坂道を――
肩を大きく揺らしながら駆け下りてくる影があった。
「お、おい…あれ、作太じゃねぇか?」
芋爺が腰を上げ、目を細めて見つめる。
作太と呼ばれた若者は、足をもつれさせながらもなんとか転ばずに駆け寄り、芋爺の前で膝に手をつき、荒く息を吐いた。
「おっとう…今朝、香山の様子がおかしいって言ったろ?
それで、山に行ってみたんだが…勘違いじゃなかった……!」
顔を上げた作太の表情は、青ざめているというより、恐怖に染まっていた。
目の奥に張りついた怯えが、何か異常な存在を見たことを語っている。
「落ち着け、作太。どうしたんじゃ。何があった?」
芋爺が息子の肩に手を置いて言うと、作太は、ふるえる唇で吐き出す。
「……いたんだ……ば、バケモンが……。
子どもの頃に聞いた……青いバケモン……」
「……鬼、か?」
稲爺が香山を見上げたまま呟くように尋ねる。
作太はこくりと頷き、目を見開いたまま振り返る。
「……あれは、鬼だ……!間違いねぇ……!青い肌で……俺らとは違う……大きくはねぇが……別もんだ……!」
そのとき、芋爺の目がふと作太の脚にとまった。
脛には、浅いが裂けたような傷があり、そこからうっすらと血が滲んでいる。
「おい作太、脚……どこかで転んだか? その川で洗っとけ」
芋爺が川の方を顎でさすと、稲爺も少し身をかがめ、作太の脚を見た。
そして、ほんの一瞬だけ、目を細めた。
「……あれ……青く、なっとるか……?」
見間違いかと思うほどのわずかな変色――
しかし、それは先ほど作太が語った「青い鬼」の色に、重なるものだった。
「作太。……念のためじゃ。寺に行ってこい」
稲爺の声は、いつになく硬い。
香山の伝承を“話半分”にしか聞いてこなかった者の口から、それは出た。
「昔から、鬼は香山に棲むって言われとった。だが、実際に見た者はいなかった。
ワシらの親も、そいつの親もな。
じゃが、お前が今、見た。しかも怪我をして、肌が……あの色になりかけとる」
作太の顔に、またさっきの怯えが戻る。
芋爺が、静かに肩に手を置き、目を合わせた。
「……行っとけ。大丈夫じゃ。何も起きんかもしれん。
だがもし何かあってからじゃ遅い。お前も、それぐらいは分かっとるじゃろ」
その言葉に、作太はゆっくりと頷いた。
そして、重い足取りで川沿いの道を下り、寺の方角へと向かっていった。
背中には不安の影が滲んでいたが、それでも歩を止めなかった。
芋爺と稲爺は、その背を黙って見送る。
「……鬼は……本当に、おったんじゃな」
「……あぁ。ワシらが昔、話半分で聞いてた、あの“香山の鬼”がな……」
二人は再び山を見上げた。
香山から吹き下ろす風――香風は、さきほどより湿り気を帯び、頬にじっとりとまとわりつくようだった。
その背後で、作太は一歩一歩、重い足取りで寺へと向かっていた。
作太の青く変色していく肌。これは…芋爺と稲爺が話半分で聞いていた伝承と似ているらしい…香山の鬼…




