第9話 偽りの混濁
妻のしのぶは、ICUのベッドに寝かされていた。怪我は頭部などの打撲に加えて肋骨と大腿骨の骨折で、命に別状はないと診断されていた。しかし顔と頭に包帯を巻き、腕に点滴チューブをつながれた姿は、肉体の損傷以上に痛ましさを感じさせた。
ベッドの傍らには、しのぶの両親である高木辰夫と美江子が立っていた。普段は高時に高圧的で、土地開発の件でも一方的な要求を突きつけていた二人であったが、かつての傲慢さは見る影もなかった。力なく肩を落とし、青ざめた顔を歪ませている。
「高時くん……本当に、なんとお詫びしたらよいか……」
辰夫が掠れた声で、首を深く垂れた。その横で美江子もまた、過剰な装飾品を虚しく揺らしながら目元をハンカチで拭い、何度も深く頭を下げる。
「しのぶが……あのような男と不倫関係に陥っていたとは……。なんと浅はかで恥ずかしいことだ。高時くんに合わせる顔がない。本当に申し訳ない……」
娘の背徳的な裏切り、そして逢引中の交通事故という醜聞。名家の矜持を何よりも大切にしてきた高木夫妻にとって、この事態は社会的な死に等しい汚点のように感じられた。
かつてあれほど横暴だった義理の両親が惨めにかがみ込んでいる。婿である自分に対して平身低頭に謝罪する姿を、高時は冷ややかな視線で見つめていた。
「……お義父さん、もう結構です。今はただ、しのぶの無事を確認できただけで十分ですから」
高時は左右から二人の娘に両手をつながれたまま、感情を排した声で告げた。辰夫と美江子はなおも不器用に頭を下げ続けた。しばらく沈黙が続いた後、二人は逃走するかのように、ほうほうの体で病室を後にした。
静まり返った病室には高時と二人の娘の美和と美代、それからベットの上のしのぶだけが残された。
高時は妻の青白い顔を見つめた。山村浩一との情事。そこで彼らは自分を愚かで無能だと嘲笑していただろう。胸の奥底から、泥のような怒りと虚無感がこみ上げてくる。
だがその時、高時はある違和感に気づいた。
生体モニターの描く心電図の波形が、わずかに不規則な乱れを見せている。そして、包帯の隙間から覗くしのぶの瞼が、微細にピクピクと震えていた。呼吸の周期も不自然な力みが混ざっているようだ。
(……起きているのではないか?)
しのぶは既に意識を取り戻しているようだった。しかし、自らの不貞が露呈したこと、そして両親が高時に対して惨めに謝罪する声を聞きつけたことによる、耐え難い気まずさと罪悪感ゆえに「寝たふり」という演技を続けているのだと、高時は理解した。
目を固く閉じ、唇を結び、微動だにしない妻の浅ましさ。
「しのぶ……」
高時が低く呼びかけても、しのぶはピクリとも反応を示さない。ただ、ピッピッピッという生体モニターの心拍音だけが、彼女の隠しきれない狼狽と動揺を刻み続けていた。
美和と美代の冷ややかな眼が、ベッドの上の母の姿をじっと見つめている。
美和が屈んでしのぶの耳元でささやいた。
「お母さん、狸寝入り、ばれてるよ」
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