第8話 夕暮れの病棟
午後六時を過ぎる頃、雨はやみ、空は茜色に染まった。
警察から事故の連絡を受けたとき、高時は設備設計師らとの打ち合わせのため隣県の指定都市にいた。その場で挨拶もそこそこに会議を切り上げ、車を走らせて病院に駆けつけた。
郊外の総合病院の廊下は消毒液の薬品臭に包まれていた。スライドドアで隔てられた集中治療室の前に辿り着くと、彼は呼吸を乱したまま、居合わせた白衣の男に声をかけた。
「しのぶは……妻の容体はどうなったのですか!」
待合を兼ねた広い廊下で警察官と担当医から説明された事故の概要は、高時の自尊心を打ち砕いた。
郊外のラブホテル街にほど近いバイパス道路で発生した、雨にぬれた路面でのスリップによる単独の接触事故だった。運転席でハンドルを握っていたのは、かねてより噂のあった若手実業家・山村浩一だったという。山村は全身打撲と骨折により同病院の別の病室に収容されている。助手席のしのぶは脳震盪で一時的に意識を失ったが全身打撲と骨折のみで命に別状ない。ただし検査の結果を待つために、まだ集中治療室のベッドに寝かされているという。
「山村……浩一……」
高時は頭部を重器で殴打されたような衝撃を覚え、膝の関節が震えた。妻が昼間から夫である自分を欺き、あの男と肉体関係を貪っていた。結婚前に関係を終わらせると約束したはずだったのに……。
その時だった。静まり返った待合ロビーのベンチから、二つの影が立ち上がった。長女の美和と、次女の美代。美和は大学通学の控えめな私服をまとい、美代は高校の制服姿である。それぞれ警察や親族からの報せを受け、学校帰りの足でそのまま病院へ駆けつけたのであろう。
「お父さん、ちょっと話があるの」と言いながら美和が近寄ってきた。
「お母さんは!」
「慌てないで、お父さん。お母さんなら問題ないわ」
「会ったのか?」
高時は美和の顔を見た。
「ええ、ちょっとショックを受けているだけよ。それより、お父さんに話があるの」
「何だ? こんな時に」
美和は高時の腕をつかみ、待合のプラスチック製ベンチに座らせた。
「大事な話があるの」
長女の美和は若い女性としては比較的身長が高かった。座らされた高時の眼前に立ち、彼を見下ろしている。控えめな次女の美代が、そっと高時の後ろに立って肩に手をかけた。
最近美和は、大人の女としての陰影を深め、高時に対してよそよそしい隔たりを作っているように見えた。
「私って、お父さんの何?」
「何って、娘だよ」
「どんな娘?」
「大事な娘だ。目に入れても痛くない」
「本当に?」
「もちろんだ。何を疑っているんだ?」
「私のこと、好き?」
「もちろん大好きだ」
「お母さんや美代と比べて、どっちが好き?」
「みんな好きだよ。比べることなんてできない」
一呼吸おいて美和は冷ややかに言い放った。
「そう。じゃあ約束して。私を捨てないって」
「お前を捨てるわけがないじゃないか!」
「じゃあ、ちゃんと約束して。何があっても捨てないって」
「ああ、約束するよ」
「ちゃんと言って」
「何があっても美和のことを捨てない」
「ずっとよ。一生よ」
「ああ、もちろんだ」
「ならいいわ。お母さんの所に連れて行ってあげるから、手をつないで」
「ああ、わかった」
高時は美和の手を握った。
「手を離さないで」
「ああ、わかった」
「私がいいっていうまで、絶対に手を離さないで」
「わかったと言っているだろう」
美和の指先は氷のように冷たかった。
そこへ美代は後ろから高時の左耳に顔を近づけた
「ねえ、お父さん」
耳もとでささやく美代の声は、ひそやかだった。
「美和姉さんばかり狡いわ。……私にも言って」
「美代……?」
高時は後ろを振り返った。
「お父さん、私のことも捨てないって……お姉さんと同じように約束して。私だけ置いて行ったら、絶対に許さないわ」
美代の目は焦点を結んでおらず、その瞳の奥には底なしの暗がりが広がっていた。
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