第10話 亀裂
病院から自宅に戻った高時を待っていたのは、安らぎを与える静寂ではなかった。
妻のしのぶは命に別状ないとはいえ重傷で、未だ意識不明——いや、己の不徳から逃避するために「眠り」を演じ続けている。その病室から気まずく帰宅した高時は、玄関の鍵を開けた瞬間に違和感を覚えた。
廊下の突き当たりの玄関ホール、本来ならしのぶが季節折々の花を生けていた飾り棚。そこには法事用の白い菊が、花籠へ雑に突っ込まれていた。仏事の漂わせる線香の匂いと土の臭気が、玄関口に淀んでいる。
次女の美代が靴を脱ぎながら言った。
「お父さん、お腹がすいたでしょう? 今日の晩ごはんは私が作るわ。お母さんの作る料理より、私の作ったもののほうが好きよね?」
「美代、そんな言い方をしてはだめだ」
高時がたしなめようとすると、背後から長女の美和が彼の腕をそっとつかんだ。
「美代の言う通りよ、お父さん」
美和の低い声が、高時の耳元で揺れる。
「お母さんは、お父さんのことを少しも大切にしてなかった。軽薄な男と不倫して……お父さんを裏切っていたのよ。もうお母さんは、この家に必要ないわ」
「お前たち二人とも、何を言っているんだ!」
高時は思わず声を荒げた。しかし、娘たちの表情には動じた様子が一切ない。二人とも、能面のごとく冷淡な顔つきで高時を見つめている。
三人は玄関を上がって、リビングルームに入った。
その時、二階から——トントン、と小さな音が響いた。
足音のような、あるいは何か硬質な物体が床を叩くような音。
誰もいないはずの二階。リビングルームの上には夫婦の寝室がある。
「……何の音だ?」
高時が天井を見上げると、美和と美代は顔を見合わせ、同時にふっと口元を歪めた。
「神様が、お祝いしてくれているのよ」
美代が無表情のまま口元だけで笑った。
「お母さんという不愉快な邪魔物がいなくなって、お父さんと美和姉さんと私の三人になれたから」
「お前たち、いい加減にしなさい……!」
高時は背筋に凍りつくような寒気を覚えながら、二階へと続く階段を駆け上がる。
寝室のドアを勢いよく開けた。室内は暗く、風がないのにレースのカーテンが揺れている。そして、ベット脇の化粧台が目に入った。
しのぶが大切にしていた三面鏡の鏡面が、斜めにまっすぐ、大きな亀裂を走らせて割れていた。あたかも鋭利な刃物で切り裂かれたかのように。
高時は息を呑み、膝の力が抜けた。
祠に宿っていた怪異の仕業なのか、あるいは娘たちの悪戯なのか。その境界線を識別できぬまま、高時は暗い部屋の中で一人立ち尽くしていた。二人の娘たちの冷ややかな笑い声を聞きながら。
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