第5話 条件付きの愛
昨夜のポルターガイストと泥水の狂気が嘘であったかのように、翌朝の神谷家には爽やかな陽光が差し込んでいた。書斎の惨状をそのままに、高時は気力が尽きて床に就いたものの一睡もできなかった。階下へ下りてきた高時を待っていたのは、焼き魚の香りと、手際よく朝食の支度を進める次女・美代の姿であった。
エプロン姿の美代はごく普通の、健康的な高校生の表情をしていた。昨夜の怪現象も頭からの泥水をかぶったことも、すべて高時の疲労が生み出した幻覚であったと錯覚させるほど、正気そのものだった。
「あ、お父さん、おはよう。今、お味噌汁を温めるね」
美代は明るく声をかけ、おたまを動かしながら、ふと思い立ったように高時に向き直った。
「ねえ、お父さん。お父さんってお母さんのことが好きなの?」
唐突ではあるが、無邪気さを装った問いに、高時は新聞に目を落としたまま咳払いをした。
「……もちろんだ。急にどうした」
「じゃあ、私とお母さんと、どっちが好き?」
「比べることはできないよ。お前もお母さんも、同じように愛している」
「そう。……ねえ、お父さん、愛って何?」
美代がおたまを置いて、首を傾げて尋ねた。
普段、構造計算と都市設計のことばかり考えている高時は、その抽象的な問いに一瞬詰まった。CADの図面のように明確な答えを出すことができない概念だ。高時が戸惑っていると、美代は小さく微笑んで言葉を継いだ。
「愛って、何より大事なものよね」
「……ああ、そうだね。人間にとって最も大切なものだ」
「じゃあ、私のことを愛してるって言って」
美代は少し冗談めかした、可憐な甘え声で言った。高時は娘の他愛のない戯れに安堵し、強張っていた表情をわずかに緩めた。
「ああ、美代のことを愛しているよ」
「ならいいわ」
美代は満足そうに頷き、高時は密かに胸を撫で下ろした。だが、次の瞬間、美代が放った静かな一言によってぎくりとした。
「愛って、立場も年齢も関係ないわよね?」
「……え?」
高時が息を呑むと、美代は鍋の火を消し、静かに高時の正面へと歩み寄ってきた。その瞳は完全に正気でありながら、人間の内面を解剖するような冷たい観察眼を湛えていた。
「ところで、お父さんはどうしてお母さんと結婚したの?」
「……好きだからだ」
「今でも?」
「もちろんだ」
「もし、お母さんがお父さんのことを好きじゃなかったらどうするの?」
美代の問いは的を射ていた。妻のしのぶは実家に帰ってしまっている。高時は眉をひそめ、父親としての権威を保ちながら答えた。
「どうもしないよ。長く一緒にいれば、仲がいいときばかりではなく、喧嘩することもある」
「なぜ一緒にいるの?」
「お父さんとお母さんは、結婚しているんだ。家族なのだからそれが普通なんだよ」
美代は高時の目をじっと見つめ、唇の端に笑みを浮かべた。
「お父さんは『結婚しているから』愛しているって言いたいの?」
高時は再び答えに詰まった。婚姻という社会的な制度や契約が存在するから愛するのか、あるいは愛があるから婚姻が維持されるのか。
「何か条件付きの愛情なんて、嘘っぱちだと思うわ」
美代はごく普通の口調でそう言い捨てると、何事もなかったかのように朝食の皿をテーブルへ並べ始めた。
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