第20話 除霊
翌日、約束通りの時刻にミカエル神父が若い助手を連れて神谷邸を訪れた。
黒いカソックに身を包んだ神父は、猛禽類のような表情で玄関をくぐり、一歩足を踏み入れるなり不快そうに眉をひそめた。
「これは……想像以上に闇が深い。神の聖なる光を遮るほど、泥のような獣の気配が家中に満ちています」
リビングには、昨夜のあの忌まわしい出来事はなかったかのように、美和と美代の二人が座っていた。ふたりは並んでソファに腰掛け、揃いの能面めいた笑みを浮かべて老神父を迎え入れた。その整った顔立ちはどこか精巧な西洋人形を思わせ、瞳の奥には生の光が宿っていない。
「お父さん、このおじさん誰なの?」
美代が首をかしげて尋ねる。美和は無言のまま、ただ高時の顔をじっと見つめていた。その視線には、昨夜ベッドの中で高時の唇に触れ、記憶を奪い去った、妖しく粘りつくような情念を湛えていた。高時は背筋に走る悪寒を隠しながら、目を逸らすほかなかった。
「神谷さん、お嬢さんたちをそこに座らせなさい。これより儀式を執り行います」
ミカエル神父は胸元から純銀の十字架を取り出し、聖水器を力強く構えた。
「In nomine Patris, et Filii, et Spiritus Sancti……」
神父がラテン語の祈祷文を唱え始め、大きな手振りで部屋の中に聖水を撒いた、まさにその瞬間——床下から低音の底鳴りが響き、建物全体が激しく揺動した。
ミカエル神父は鋭い目を見開き、朗々とした祈祷と聖書朗読を続けた。
メキメキと天井の木部が鳴り、サッシの窓ガラスがガタガタと揺れ、ドアがヒステリックに開閉して騒音を立てた。湿った土と焦げ付いた枯草の混ざり合った強烈な臭気が立ち込め、室内の温度が急激に降下し、吐く息が白く見えるほどの寒さになった。
「う……ああっ……!」
美和が頭を抱えて苦悶の呻き声を上げた。美代もまた、胸をかきむしるようにしてフローリングの床に倒れ込む。
「立ち去れ、主の御名において命ずる! 闇の悪霊よ、この生者たちを解放せよ!」
ミカエル神父の太い声が室内に響き渡る。ポルターガイスト現象が嵐のように吹き荒れた。空中でラップ音が鳴り響き、テーブルの脚が激しく床を叩き、壁に掛けられた額縁が吹き飛んだ。
「Exorcizamus te, omnis immundus spiritus……!」
神父が力強く空に十字を切ると、ふいに透き通った静寂が訪れた。
激しい揺れがぴたりと収まり、室内に渦巻いていた冷気と泥の臭気が急速に薄れていく。倒れていた美和と美代は荒い息をつきながらも、やがてぐったりと力を抜いた。
部屋を支配していた息の詰まるような重圧が霧散していた。
老神父は額の汗をカソックの袖で拭い、荒い呼吸を整えながら高時に向き直った。
「……終わりました、神谷さん。悪霊は去りました。土地の祟りも、獣の憑依も、我が主の聖なる権能によってすべて祓われました」
「本当……ですか……?」
「ええ。もう大丈夫です。家を包んでいた悪魔の影はすっかり消滅しました。お嬢さんたちも、じきに平安を取り戻すでしょう」
高時は崩れ落ちるように膝をつき、安堵の溜息をついた。
終わったのだ。娘たちの気味の悪い憑依も、臭くて騒がしい怪現象も、すべては悪霊が見せた悪夢に過ぎなかったのだ。昨夜の美和の異常な言動も、一線を越えようとした狂気も、すべては取り憑いていた霊の仕業であったのだ——。
高時はそう自らを納得させ、胸を撫で下ろした。悪霊が去った今、神谷家には再び平和な日常が戻ってくるはずであった。




