第19話 一線の彼方
高時は横たえた体を動かすことができなかった。全身が締め付けられ、目覚めているのに起きられない。これが金縛りというものか。目の前の美和はあまりにもリアルで、夢や幻覚とは思えない。
覆いかぶさるように美和が高時の顔を覗き込み、冷たい指先が高時の頬から首筋をゆっくりとさすり続けている。
不思議なことに、真っ暗な寝室の中で、美和の瞳の輪郭までもがはっきりと見えている。そして息苦しいが、かすれた声が出た。あるいは夢の中で、自分が話していると思い込んでいるだけなのだろうか?
「私は父親として、絶対にお前を捨てたりしない。病院で約束しただろう」
「女がそんな口約束を信じると思う?」
「父親が信じられないのか?」
「離婚したら、私の親権はどうなるの?」
美和は冷たい目を高時に向けた。
「それは……。お父さんはお前の親権を手放したりしない」
「お父さんに決められることじゃないわ」
美和は睡眠麻痺で動けない高時に体を寄せた。
「それからわたし、もう一つ気がついたことがあるの」
「何だ?」
「わたし、お父さんのことが大好きだって。わたし、お父さんがいなくなったら生きていけないわ」
「そんな大げさな……」
「やっぱりお父さんは私のことをわかってない。お父さんと美代がいなくなったら、あの軽薄であばずれなお母さんと二人きりで生活することになるのよ。それどころか、お母さんの間男と住むかもしれないのよ。わたし、耐えられないわ」
「そんなことは絶対にさせない」
「そんな気休め、聞かないわ。それに、一番腹が立つのは、お父さんが私のことを信用してないことよ」
「何を言うんだ。わたしはお前のことを信用している!」
「いいえ、信用してないわ」
美和は冷たい目で高時を睨んだ。
「私がお父さんのことを好きだと言っても信じていない」
「何を言う。信じている。本当だ!」
「じゃあ私にキスをして! このベッドでお母さんにするようなキスをして!」
「何を言っているんだ! 信じるというのは、そのようなことでは……」
「そういうことよ! 私が言ってるのは……。わたしは、お父さんを愛してるって告白してるのよ!」
「間違っている……」
「間違ってないわ。私のことを信用してて、愛してるなら、今ここでキスをして!」
「そんな無茶な……」
「無茶じゃないわ。お父さん、ときどき私の体をちら見してるのを知ってるわ」
「かわいい娘を見て何が悪い」
「堂々と見て! 女として見て!」
「そんな……」
「わたし、お父さんの娘でなくなったら、生きていけないわ。自暴自棄になって家出して、それから自殺するわ」
「お前は何があってもお父さんの娘だ!」
「わたし、お父さんのことをそれほど信頼してないの」
「なぜだ!」
「ふらっと家出するって聞いたわ。理由もなく。突然に」
「それはお父さんが子供の頃の話だ」
「そうかしら。本当は誰も好きではないんでしょ、お父さんは。だからある日、耐えられなくなって出ていくのよ」
「今はそんなことはない。お前のことも美代のこともお母さんのことも愛している!」
「気休めは聞かないって言ってるでしょ! そんな建前の話をしてるんじゃない。わたし、お父さんの娘でなくなっても、お父さんの女だって思えるなら生きていけるって言いたいのよ」
「そんなことは間違っている。無理なんだよ。なぜわかってくれないんだ……」
「それはこっちのセリフよ。お父さんは話をごまかすのが下手ね」
美和は体を高時に押し付けた。
「もう、いい加減あきらめて。お父さんは私のことを信頼してるし、愛してるんでしょ」
「そうだ」
「じゃあキスをして」
「わかった。キスしたら自分の部屋に戻るんだぞ」
高時は喉の乾きに耐えながら、金縛りのまま、あたかも不可抗力の引力に吸い寄せられるように顔を近づけた。唇が重なった瞬間、めまいで視界が揺れてゆがんだ。
「硬くなってるわよ、お父さん」
美和の嘲笑とも歓喜ともつかない低く湿った囁きが、耳奥でいつまでも反響していた。
直後、高時の意識は黒い泥の底へ沈むように途絶えた。
……次に高時が目を覚ました時、窓の外は朝の光に包まれていた。部屋には彼ひとりで、美和の姿は消えていた。しかし、乱れた寝具、肌に残る氷のような感触、そして床に脱ぎ捨てられた寝巻が、昨夜の出来事を逃れようのない現実として突きつけていた。
意識を失っていた間、一体何が行われたのか。どこまでが娘の執着であり、どこまでが祠の怪異であったのか。記憶は失われていた。自らの肉体の違和感と疲弊が、恐ろしい推測を際限なく膨らませていた。
高時はただ、声もなく天井を見つめる他なかった。




