第17話 前夜
神谷高時の精神は、すでに破綻の寸前まで追い詰められていた。
病室で固く目を閉じたままの妻しのぶの浅ましい芝居。現場の泥に残された美代のハンカチ。しのぶの代わりに「お父さんを愛してあげる」と平然という美和の声。家中を包み込む黴と土と線香の臭気、そして目に見えぬ「何か」の足音——。
正気を失いかけていた高時がすがるように教会を訪ね、ミカエル神父から「エクソシズムを執り行うために、明日自宅へ伺う」という約束を取り付けたのは、まさにその日の午後のことであった。
「明日で、すべてが終わる。悪霊が去れば、娘たちも元の清らかな心を取り戻すはずだ——」
ミカエル神父の言葉を反芻しながら帰宅した高時は、胸を撫で下ろしていた。すべては、あの取り壊した二つの石祠の祟りと憑依のせいなのだと自らを説得した。
だが、その日の夜——。
神父を手配し、明日には「除霊」が行われるという事実を高時が口にすらしていないにもかかわらず、家内の空気は冷ややかだった。
ダイニングルームで夕食のテーブルにつき、静かに箸を動かす美和と美代。
二人は一言も喋らなかった。皿と箸が触れ合うカチカチという音だけが響いている。
「……明日、来客があるからね」
高時が内心の怯えを隠しながら、極めて自然を装って声をかけると、美和がゆっくりと顔を上げた。
その瞳には人間的な光がなかった。あたかも黒い底なし沼のような眼球で、じっと高時を見つめてくる。
「ねえ、お父さん」
美和の声はごく普通の女子大生の口調でありながら、まるで氷のごとく冷たく響いた。
「この家から、神様を追い出すつもりなのね?」
「何のことだ……」
「わかってるくせに」
今度は美代が言った。ワンピースの部屋着姿の美代は、顔は全く笑っていないにもかかわらず、唇の端だけが不自然に吊り上がっている。
「明日になれば、あの神父様が全部消してくれるって思ってるんでしょ? ……お父さんって、ずるい人ね」
二人の体から漂う泥と線香の臭気が、急激に濃密さを増していった。
「愛してるわ、お父さん」
美和の低い囁きと同時に、壁の奥や天井で、ガタガタガタッ、と狂ったような振動が始まった。
明日になれば彼女らが言うところの「神様」が払われてしまう——その危機を本能的に察知したのだろう。部屋にはラップ音が鳴り響いた。照明器具が激しく揺れ、その明かりが不規則に点滅し続けた。棚から食器が次々と空中を移動し、ガチャンガチャンと音をたてて床に落ちていった。
美和と美代は平然と食事を続けている。
高時にとって、すでにこれらの怪現象は珍しい出来事ではなくなっていた。だが食事のBGMにしては激しすぎる。指先の震えで箸がうまく使えず、焼き魚の切り身がうまく摘まめない。
高時はひたすら気にしていない振りをして食事を終えると、逃げるように自分の書斎に引きこもった。




