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第一話 空白の少女



――三日前。


朝の鐘が鳴った


聖都ゴナタ

世界最大の宗教国家テレスタイオの首都


神の教えが人を導く祝福の国

人々はそう呼ぶ


少なくとも

ドグマを…聖痕を持つ者達は


『おいっ!!』

怒鳴り声が飛んだ

アリアは肩を震わせた

抱えていた木箱を落としそうになりながら

慌てて振り返る


そこには使用人の男が立っていた

不機嫌そうな顔


いつもの顔だ

『何をぼさっとしている』

『す、すみません……』

『空白の分際で仕事を遅らせるな』

男は吐き捨てるように言った


アリアは頭を下げる

反論はしない、意味が無いからだ


空白(ブランク)……

世界では、神から授かりし教え

【ドグマ】を持ちながら産まれてくる。

しかし、例外も存在する…

ドグマ…聖痕を宿さなかったモノ達

神に見放された存在

何も持ち得ないモノ

空白(ブランク)】と人々は呼ぶ


この国の教えでは


ドグマとは神の教え

ドグマ無きモノは人に非ず


そう…聖痕が無いモノは

この国では人間ですら無いのだ…


空白

それが彼女の呼び名だった…

少なくとも、この屋敷では

アリアという名前を呼ぶ者など、もうほとんどいない


空白

商品


それだけだった…

アリアは木箱を抱え直した


肩が痛い、腕も痛い、空腹も酷い

それでも足を止めることは許されない


遅れれば殴られる

失敗すれば食事が減る

逆らえば、もっと酷い目に遭う

それが当たり前だった


屋敷の中庭を抜け、倉庫へ向かう。

石造りの立派な屋敷。

磨かれた窓。

手入れされた庭。

神の祝福を示す白い彫像。

そこに住む者達は、きっと美しい屋敷だと言うのだろう。


けれどワタシにとって、そこは檻だった。

逃げられない場所、名前を奪われる場所

人ではなく、物として扱われる場所


木箱を倉庫へ運び終えた頃には、額に汗が滲んでいた


アリアは壁に手をつき、小さく息を吐く


その時だった

『アリア』


小さな声がした


振り返り、倉庫の影に視線をやると


そこに、一人の少女が立っていた

自分と同じくらいの年齢


痩せた身体、汚れた服

けれど、笑顔だけは明るかった。


『お疲れさま』

少女はそう言って、手に持っていたものを差し出した


硬くなったパン、しかも半分だけ

それでもアリアにとっては十分すぎるほどの食事だった


『いいの?ターヤ?』

『うん、今日は少し多くもらえたから』


嘘だと分かった

きっと彼女もろくに食べていない

それでもアリアは受け取った

断れば、きっとターヤは悲しむから


『ありがとう』

『どういたしまして』


二人は倉庫の影に座り込んだ

誰にも見つからないように

少しずつパンを齧る


硬い、美味しいとは言えない。

それでも一人で食べるより、ずっと良かった


『今日も怒られてたね』

ターヤが言う

アリアは苦笑した

『見てたの?』

『見えてた』

『助けてくれても良かったのに』

『無理だよ、私も怒られるもん』


二人は小さく笑った、声を潜めて

誰にも聞こえないように…


それは、アリアにとって数少ない安らぎの時間だった


彼女は唯一の友達だった

同じ空白、同じ奴隷


同じように、ここで生きている少女

名前を呼んでくれる、数少ない人


しばらく沈黙が続いた


風が吹く


遠くで教会の鐘が鳴っている

やがてターヤが、ぽつりと言った

『ねぇ』

『なに?』

『いつか逃げたいね』

アリアの手が止まった


その言葉は、何度も聞いた

何度も話した…


けれど一度も現実にはならなかった夢

『逃げたら、どこへ行くの?』

アリアが聞く


少女は首を傾げた

『分からない』

『分からないの?』

『うん…でも、ここじゃない場所』


アリアは少しだけ笑った

『それ、答えになってないよ』

『いいの。ここじゃなければ、どこでも』


少女は空を見上げる

青い空だった


屋敷の高い塀に切り取られた、小さな空

『逃げたら何したい?』

今度は少女が聞いた


アリアは考える

だが、すぐには答えられなかった


したい事、欲しいもの、行きたい場所


そんなものを考えること自体、いつからか諦めていた


すると少女が先に言った


『私はね、普通になりたい』

『普通?』

『うん!普通』

少女は笑う


『朝起きて、ご飯を食べて、仕事して、夜になったら眠るの』

『今もそうじゃない?』

『違うよ』

少女は首を振った。


『殴られないで、怒鳴られないで、名前を呼ばれて、明日も生きてていいって思えるの』


アリアは黙った

普通…それは、とても遠い言葉だった


神に祝福された者

家族がいる者

聖痕を持つ者

人として認められている者


普通の人にとっての当たり前

二人には、その"普通"が無かった

『アリアは?』

『わたし?』

『うん、逃げたら何したい?』


アリアはもう一度空を見上げた

高い塀の向こう

自分が知らない世界

そこには何があるのだろう


『わたしも……』

少しだけ考えて、そして言った

『わたしも、普通になりたいかな』

少女は嬉しそうに笑った。


『じゃあ、一緒だね』

『うん』


二人は笑った

それだけで少し幸せだった

まるで本当に

未来があるような気がしたから


だが、その日の夜

全てが変わった


掃除の命令を受けたアリアは、普段使わない裏倉庫へ向かっていた


夜の屋敷は静かだった

廊下の灯りは少なく、使用人の姿もほとんどない

雨の匂いがした

明日には降るかもしれない

そんなことを考えながら歩いていた時、声が聞こえた


男達の話し声、笑い声

そして、金貨の音


アリアは足を止めた


こんな時間に裏倉庫で何をしているのだろう?


近付いてはいけない

そう思ったけれど

足は止まらなかった


『本当に少しだけ』


中を覗いたら、すぐに戻るつもりだった

倉庫の扉はわずかに開いていた

アリアは息を殺し、隙間から中を覗く


そして…

息を呑んだ


そこには商人がいた

屋敷の主人

太った身体に、豪華な服を纏った男

その向かいには、貴族らしき男が座っていた

指には宝石の指輪


椅子の横には護衛


さらに奥には、神官服を纏った男の姿もある


そして


彼らの前に、縄で繋がれた人々がいた


子供、老人、女

皆、俯いている

皆、虚な同じ目をしている

空白達だった


アリアは口を押さえた

保護施設へ送られた

仕事を紹介された

別の屋敷へ移った


そう言われて消えていった空白達

その行き先を、アリアは初めて知った


彼らは売られていた

人としてではない

物として、商品として

金貨と引き換えに


商人が笑う、貴族が頷く、神官が何かを書き留める


そこに罪悪感は無かった、迷いも無かった


まるで家畜の取引でもしているかのようだった


アリアは震えた

見てはいけないものを見てしまった。

本能がそう告げていた


早く離れなければ

足音を立てないように、ゆっくりと後ずさる


心臓がうるさい、喉が渇く

叫び出したくなるのを必死に堪える


そしてアリアは、その場を離れた


走りたかった、けれど走れば音が出る

だから歩いた

震える足で

必死に


その夜

アリアは眠れなかった

目を閉じると、倉庫の光景が浮かぶ

縄で繋がれた空白達

金貨の音

笑う商人

神官服の男


そして


自分もいつか、あそこに並ばされるのだろうか…



そんな考えが頭から離れなかった

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