プロローグ 空白
雨が降っていた
冷たい雨だった
聖都テレスタイオの裏路地を、一人の少女が走っている
息は荒く、喉は焼けるように痛い濡れた髪が頬に張り付き、泥水が足元で跳ねる
裸足同然の足は石畳に擦り切れ、血が滲んでいた
それでも、少女は止まれなかった
止まれば終わる
背後から怒号が響く
『いたぞ!』
『逃がすな!』
男たちの声
追ってくるのは二人商人に雇われた私兵だった
少女は振り返らない
振り返る余裕など無かった
角を曲がり、狭い路地へ飛び込む雨で濡れた石畳に足を滑らせ、それでも必死に前へ進む
だが
次の瞬間、少女の足が止まった
行き止まりだった
高い石壁逃げ場は無い
少女の顔から血の気が引く
やがて、背後から足音が近付いてきた
『手間かけさせやがって』
『まったくだぜ、空白の分際でよぉ』
二人の私兵が、ゆっくりと路地へ入ってくる
少女は後ずさるだが背中が壁に触れた
もう下がれない
『大人しく戻ってりゃ、まだ商品として丁寧に扱ってもらえたかもしれねぇのによ』
一人が笑った
【商品】
その言葉が、少女の胸を刺す
神様は、なぜ祝福を与えてくれなかったのだろう…
わたしは、望まれるべき子ではなかったのだろうか…
平等とは、一体何なのだろうか
教会は言った
神は全てを愛していると神は平等であるとドグマは人を導く光であると
けれど…
わたしには、何も無かった
身体のどこにも聖痕は現れなかった
神の教義も、祝福も人として認められる証も
何一つ
『やっぱり殺しちまった方が早ぇな』
私兵の一人が剣を抜いた
少女の肩が震える
『雇い主様の顔を潰したんだ、逃がしたとなりゃ俺達の首も危ねぇ』
もう一人も剣へ手を掛ける
『消しちまえば誰も気付きゃしねぇさ』
『ああ、どうせ空白だ』
その言葉を聞いた瞬間。
少女の中で、何かが静かに冷えていった
奴らが人間であるならば
神に愛され、祝福を持ち
聖痕を宿す者達が人間であるならば
わたしは――
人間になんかなりたくない
その時だった。
男たちの動きが止まった
路地の入口、雨の向こうに、一つの影が立っていた
黒い外套、全身を覆う古びたフルプレートの鎧
無数の傷が刻まれた装甲は泥と血で汚れ、兜の奥にある顔は見えない
騎士なのか傭兵なのかそれとも、ただの旅人なのか
分からない
ただ、その人影はそこに立っていた
まるで、雨の夜そのものから現れたように
私兵の一人が舌打ちする
『なんだ、てめぇ』
鎧の人物は答えない
『見世物じゃねぇぞ!!失せろ!』
それでも答えない
ただ静かに、腰の剣へ手を掛けた
金属が擦れる音がした
雨音の中で、その音だけが妙にはっきりと響く
私兵たちの顔から笑みが消える
鎧の人物は、ゆっくりと剣を抜いた
そして初めて、低い声で言った
『その子から離れろ』
少女は息を呑んだ
その声は、優しくはなかった
慰めるような声でもない
ただ、そこにある事実を告げるような声だった
私兵が剣を構える
『死にてぇらしいな』
もう一人が少女を見る
『無駄な正義なんぞ振りかざしやがって、空白相手にテメェの人生を棒に振るなんてよぉ!』
雨が強くなる
少女は壁際で震えながら、その鎧の人物を見つめていた。
彼が何者なのか
なぜ助けようとしているのか
何一つ分からない
けれど
その姿だけが
今この瞬間、少女と死の間に立っていた
剣が振り上げられる
次の瞬間
雨の夜に、銀色の軌跡が走った




